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夏のはじまりは朝顔とともに 【第一章】

【あらすじ】
 大学二年生の涼子すずこは、生来妖怪を見る力を持っていた。それまでの経験から妖怪は見て見ぬふりをすることで回避し、周囲にはそのことを隠していた。

 ある日、涼子は新入生だという青年――蕣花しゅんかと出会う。人捜しをしているという彼に声をかけたことをきっかけに話すようになるが、携帯電話を持っていなかったり、多くの人が知っていることを知らなかったりと、不思議な青年だった。

 そんな中、蕣花にも妖怪が見えるということが発覚し、仲間ができたと喜ぶ涼子。妖怪について詳しい彼に色々と話を聴くようになった涼子だが、とある事実を知ってしまい――。


 春は、節目の季節だ。
 卒業、進級、進学、就職……。人それぞれに環境が変わり、心を新たに進んでいく。

 しかしながら、自分で講義を履修して単位を取得する大学では、学年が上がってもあまり変わり映えがしない。
 中学や高校と違ってクラスがあるわけではなく、況してやサークルにもゼミにも所属していない水野みずの涼子すずこにとっては、二年生に上がっても、講義の内容がより専門的になったこと以外に一年生の頃と何ら変わったことはない。
 とはいえ、一年間を無事に乗り切って進級できたというのは、嬉しいものである。

 ほぼ学習の進め方についての説明だった初回の講義を終えた涼子は、一人講義室を出た。
 廊下を歩いていると、途中の講義室の開け放されたままになっていたドアから風が吹いてきて、肩口まで伸びた髪を揺らす。止まって目を向けると、ドアどころか窓まで開けっ放しになっている。
 丁度すぐ外に立っている桜の木からピンクの花弁が入り込んで綺麗に見えるが、この後の掃除が大変だろう。

 講義室を覗き込むと誰もいないので、中に入って窓を閉める。
 さて花弁をどうしようかと室内を見回して、涼子はぴくりと動きを止めた。

 黒板の下、教壇の裏から伸びる影がある。それはそこに座り込み、腕を動かしているようだ。耳を澄ませると、微かにしょきしょきと小さなものが擦れる音がする。
 涼子はそっと視線を外し、そのまま講義室を後にした。花弁を片づけるであろう清掃の人には申し訳ないが、何事もなかったかのようにあの空間で掃除ができる自信が涼子にはない。

 早く帰ろうとエントランスに来て、再び足が止まる。
 大学のエントランスは広く、それぞれの学部学科の掲示板が並び、事務の窓口が設けられている。学生達の往来が多く、隅の方で談笑をしているグループもあった。

 そんな中で一人、立ち尽くしている男子学生がいる。壁と一体となった掲示板はサークルのメンバー募集のポスターが無造作に貼られており、その前で通り過ぎていく学生の顔を覗き込むように視線を彷徨わせていた。
 暗褐色の髪を首の後ろで括り、短い尻尾のように見える。白シャツに黒いパンツ、紺のスニーカーと無難な恰好で、目鼻立ちも目立ったところがない。
 大勢の中に埋もれてしまいそうな地味さではあるが、その困っているような様子が気になった。
 花弁を片づけなかった償いにはならないが、困っているなら助けになりたいと、涼子はそっと彼に近づいた。

「あの、何か困ってます?」
「!」

 驚かせてしまったらしい。彼はこちらに顔を向けて目を瞬かせ、続けて黒目を丸くする。
 頬を赤らめて固まってしまった彼に「だ、大丈夫ですか?」と尋ねると、蚊の鳴くような小さな声で「は、はい……すみません」と返ってきた。

「ええと、もしかして新入生ですか?」
「え、あ、はい」

 反射的に、といった様子で彼が頷く。新入生ならば、困り事の内容は予想がつく。
 涼子は笑顔で続けた。

「わたし、文学部二年の水野涼子です。もしかして、キャンパスで迷っちゃった感じですか?」

 この大学は少々入り組んだ作りになっているので、慣れるまでは迷ってしまうことも多い。涼子も滅多に使わない講義室や特別教室に行く時は偶に迷う。
 しかし、彼は「いえ、その……」と口籠もる。だったら何に困っているのだろうと首を傾げると、彼は俯き加減に小さく口を開く。

「……ひ、人を……捜していて……」
「お友達?」
「そんな、ところです」
「スマホは?」
「すまほ……?」

 友人ならば電話でもメッセージでも使って連絡すれば早いと思ったのだが、彼はぽかんとする。まだ知り合ったばかりで、連絡先の交換もまだしていないということだろうか。

「うーん、それじゃあ……あ、貴方の名前を訊いても?」
「えっと、蕣花しゅんか、です」
「苗字は?」
「み、苗字……」

 蕣花は慌てたように視線を巡らせてから、涼子の背後に目を留めた。

「ゆ、ゆみみち……道弓みちゆみ蕣花です!」
「道弓君」

 涼子が繰り返して言うと、彼はコクコクと頷く。僅かにぎこちないその動作が、玩具のように見えた。

「お友達って、どんな人? 特徴とか教えて貰えたら、一緒に捜すけど」
「あ、いえ、それは……」
「遠慮しなくて良いよ。この後は帰るだけだったし、ここって広いから二人で捜した方が効率良いし」
「でも……」

 悪いと思っているのか、蕣花は戸惑っているようだ。
 いきなり現れた見知らぬ先輩にあれこれ言われたら、萎縮してしまうのも当然だろう。しかし、ここで差し伸ばした手を引っ込めるわけにもいかない。

 どうしたものかと考えていると、突然背中に衝撃を受けた。

「わわっ」
「何々、何してんの?」

 振り返った先には、見知った顔が立っていた。
 黒々とした前髪の間から覗く瞳が悪戯っぽく笑い、口の端から見える犬歯は子どもみたいだ。流行を押さえたファッションは若者らしく、雰囲気は全体的に軽い印象である。
 昨年の夏頃から仲良くなった、同じ学部の田中たなかむぎという学生である。陽気な彼は悪戯心が豊富で、ことある毎に周囲を驚かせるのが好きだった。

 まんまとびっくりしてしまった涼子は、跳ねた心臓を戻すように手で押さえて竦めた肩を落とす。

「もう……やめてよ。心臓に悪い」
「あはは、ごめんて」

 後頭部に手を遣って笑う麦に反省の色は見えない。それもいつものことなので、涼子は抗議を諦めることにした。

「それより、一人でどしたの? サークルにでも入るつもり?」
「え?」

 掲示板を見上げながら言う麦に、涼子は視線を戻した。しかし、さっきまでそこにいた蕣花の姿はなかった。辺りを見回してみるが、それらしい影もない。
 まるで、最初から何もなかったみたいだ。
 知らず、自身の二の腕に手を当てる。
 麦の相手をしている間に行ってしまったと考えるのが妥当ではあるが……。

(……まさかね)

 涼子は微かに頬を引き攣らせた。

   *

 紙と木とコーヒーの匂い。そのどれもが好きな香りだから、嗅いでいると安心する。

「すみません」
「あ、はーい。今、行きます」

 少々ぼんやりしていた涼子は、テーブル席の青年に声をかけられてはっとし、伝票を手にそちらへ向かった。

 涼子がアルバイトをしている喫茶店は、小さな店構えだった。
 最寄りの駅から徒歩十分ほどの場所に聳える雑居ビル。その一階に看板を掲げる店内は、落ち着いた空間を提供している。
 木板を組み合わせた床とクリーム色の壁紙をレトロな意匠を施した照明が照らす。明る過ぎず暗過ぎない光は淡く、温かさが感じられる。
 カウンター席が四席、四人掛けのテーブル席が二つと一度に入る客の人数は限られるが、その分静かで居心地が良い。

 天井から下がったチランジアの緑に顔を上げると、店の最奥が見える。
 そこには、壁一面の本棚があった。小説を始め、絵本に実用書、漫画とジャンルは多岐にわたり、背表紙を眺めるだけでも目に楽しい。これ等の本は、店で注文したメニューを口にしながら自由に読んで良いことになっていた。
 最初は店のマスターが私物を数冊置いていただけだったが、いつしか客が本を置いていくようになり、それに合わせて本棚も作りつけたら、ちょっとした図書館のようになってしまった。そう言ってマスターが笑っていたのを、いつも思い出す。

 注文を受けた涼子は、カウンターの内側にいるマスターに伝票を見せてそれを伝える。

「はいよ」

 マスターは短く返事をして、手早くコーヒーを淹れ始めた。

 すっかり真っ白になった髪を丁寧に撫でつけた彼は、見た目は良いお爺さんといった雰囲気だ。しかし動きが機敏で、時々二十代と見紛うほどの若々しい行動を取ることがある。
 以前、好奇心から年齢を訊いてみたことがあるのだが、のらりくらりとはぐらかされてしまった。常連客も知らないらしく、年齢不詳で皆納得しているらしい。

 サイフォンのコポコポというお湯が沸く音と共に、新たなコーヒーの香りがふわりと香る。
 この店のコーヒーは酸味と苦みのバランスが良く、とても美味しい。狭い店内ながら常連客が多くいるのにも頷ける味である。

 かくいう涼子も、中学生の頃からここに通っていた。
 当時は苦みが苦手でカフェオレにしてもらわないと飲めなかったが、今ではブラックの良さも解り、注文は気分で半々といったところになっている。
 何より、注文さえすれば自由に本を読める環境というのは、小遣いの少ない中高生時代には夢のような場所だった。図書館ほど蔵書は多くなく、出たばかりの新刊もないが、自分から行かないようなコーナーにある本もあるので、この店に出会ってから世界が広がった気がする。
 悪いとは思いつつもカフェオレ一杯だけで何時間も居座ったこともあったが、マスターは笑って許してくれた。身も心も落ち着けるこの空間は、涼子にとって今も昔も大好きな場所である。

 コーヒーが出来上がるのを待ちながら、何気なくカウンター席に目を留める。世間話に花を咲かせる女性客二人の隣で、どちらかの息子であろう幼稚園生くらいの少年が本を広げていた。
 まだ文字は読めないようだが、描かれたイラストを眺めて楽しんでいるようである。ニコニコと楽しそうなので、何を読んでいるのかと広がったページを見遣り、涼子は一瞬息を止めた。
 カラフルでポップに描かれてはいるが、それは妖怪の本だった。幼児向けの妖怪図鑑らしい。

(……本物は、そんなに可愛くないけどなぁ)

 生まれつき、涼子は一般に妖怪と呼ばれるモノの姿を見る力があった。
 幼い頃は他人にはそれ等が見えないことが解らず、周囲の人間からしてみれば相当気味の悪い発言や行動をしていたと思う。
 幸い家族はそういったことに理解があり、育児放棄や冷遇といったことにはならなかった。

 ただ、妖怪のことを口に出してはいけないと理解し始めたのは小学校低学年の時で、それまでは友人という友人はできなかった。
 涼子が気味の悪いことを言わなくなって一年が過ぎた頃、徐々に話しかけてくる同級生が増え、放課後や休み時間に一緒に遊ぶ友人ができた。

 思えば、それまで友人がいなかった分、一人で過ごす時間を埋める為に読書をしていたから、本が好きになったのだろう。今では人並みに友人もいるが、読書自体は好きで続けている。
 その延長で、大学も文学部に進んだのだ。お陰で課題は大変だが、講義の内容は興味深いものばかりで面白い。

 今まで、妖怪に自分達が見えると悟られて追いかけられたり、食べられそうになったり、怖い思いを沢山してきた。
 だが、そういった経験を重ねる内に見えないふりをしていればほとんど害はないと判ってもきたので、現在は見てしまっても存在はないものとして扱うことにしている。
 それでも怖いことには変わりないので、変に身体が強張ったり小さく悲鳴を上げてしまったりすることもあるが、大半は回避できている。

 ふと、今日大学で会った新入生を思い出した。
 彼は友人に会えただろうか。他の誰かに助けを借りたのだろうか。

 そして――彼は、他の人間の目に映っていたのだろうか。

 少し目を離した隙にいなくなってしまったし、麦には涼子一人しか気づかなかったという。
 エントランスの端は照明が遠くて少し暗いので、陰になって見えなかったという可能性もある。しかし、真相は判らない。

 妖怪の中には、人に近い姿をしたモノや人間に化けるのが得意なモノがいる。
 そういった場合、人間か妖怪かの判別の方法を知らない涼子は、知らずに声をかけてしまうことが何度かあった。

 果たして、彼は本当に人間だったのだろうか――。

「水野さん?」
「あ、はい!」

 急にマスターの顔が目の前に現れて、思わず大きな声が飛び出す。視線を感じて店内を見渡すと、客の全員が涼子を見ていた。
 涼子は耳まで真っ赤になって、慌てて頭を下げる。客達はすぐに各々自分の世界に戻っていったが、頬の火照りはもう少し続きそうだ。

「もしかして、どこか具合でも悪い? だったら今日はもういいから、早退して良いよ」
「いえ、大丈夫です。すみません」

 どうやら、マスターに何度か名前を呼ばれていたらしい。ぼんやりと考え事をしてしまっていて、全く気づかなかった。

(今は仕事中。しっかりしないと)

 いくらアルバイトとはいえ、時給も発生しているのだから、仕事を蔑ろにしてはいけない。
 涼子は気合いを入れ直して、マスターに託されたコーヒーカップをテーブルに運んだ。

 その日は少年が帰るまで、彼が広げている図鑑を目に入れないようにしながら職務を全うした。


【第二章】
https://note.com/preview/nbcfb0abd6435?prev_access_key=6c935d66ad5e22cbc2dc66ea67aeae94

【第三章】
https://note.com/preview/ndbb0cda0dff7?prev_access_key=08d915ab92fcc48ebd17a9703a6b2874

【第四章】
https://note.com/preview/na52483e429da?prev_access_key=a02697fabaa505ce646a2b4f4867dc8e

【第五章】
https://note.com/preview/n3733f3751b49?prev_access_key=503965d288fd14b0c96f6120b359138e

【終章】
https://note.com/preview/ncc758e9c7ec2?prev_access_key=7157a50bff695de7d63f882fb22df14b


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