夏のはじまりは朝顔とともに 【終章】
祝詞に似た言葉が紡がれる。それは屋敷中に広がっていくようで、けれど決して威圧感はなく、聞いているだけで清らかな気持ちになるような響きだ。
意味は解らないが、きっと一つ一つに想いが込められた大切な言葉なのだろう。
あれから、数週間。大学も夏休みに入った頃、涼子は再びまほろばを訪れていた。
麦の時とは違い、現から他の烏天狗達に丁重に案内されて彼等の屋敷の広間に来た。そこには不思議な形をした壺や時代劇で見るような杯、何に使うかも判らない品々が飾られていた。
その中にある三宝の上に並んでいる七つの石の前に、涼子は座っている。
広間の最奥に設けられた祭壇の前で総大将の姿をしたマスターが厳かに言葉を唱え、涼子の背後で集まった烏天狗達が静かにそれを見守る。彼等を差し置いて最前にいるのは気が引けるが、それも仕方のないことだ。
涼子の中から守り石を取り出すのは難しい。その為、祭事に参加して欲しいとマスターに言われた。
たとえ人の中にあるとしても、祭事の際にそこにありさえすれば問題はない。ただそこにいるだけで良い。そう言って頭を下げたマスターに、涼子は快く承諾した。
特に断る理由もないし、相手は世話になっているマスターだ。アルバイトのことなど、普段よくしてもらっている分、力になれたら嬉しい。
また、妖怪の中には人間に歩み寄りたいモノもいると知った今、純粋にその祭事が見てみたいという好奇心もあった。
十五分くらい経った頃、滔々と述べられていた文言が屋敷の空気ごとマスターの許に収束するように終わりを告げた。
マスターが振り返り腰を折ると、烏天狗達が一斉に首を垂れる。それに合わせて、涼子も頭を下げた。
そして頭を上げると同時に、烏天狗達がざわざわと口を開き始める。まるで、全校集会が終わった後の生徒達みたいだ。
順に広間を出ていく彼等を尻目に、マスターが涼子に近づく。
「改めて、今日は来てくれてありがとう。助かったよ」
「わたし、ここに座ってただけですけどね」
「それで良いんだよ。そうしてくれとお願いしたのは、こちらなんだから。さて、儀式の方はこれでお終い。この後は宴会があるから、参加していくと良い」
そんな短いやり取りをした後他の烏天狗に呼ばれ、マスターはすぐに行ってしまった。
とりあえず涼子も外に出ようと出口の方へ目を向けると、黒々とした烏天狗達の波を縫って逆走するモノがいた。やや揉みくちゃにされながら、どうにか波を抜けて歩いてくる。
「ったく。少しくらい道空けてくれても良いのに」
悪態を吐きながらやってきた麦は涼子の前で足を止め、ちらと顔を見遣ってから気まずそうに表情を歪める。そして、深々と頭を下げた。
「この間は、ごめん。……その、ちゃんと謝ってなかったから」
言い訳のように付け加えられた言葉につい笑ってしまいそうになるのを、麦の旋毛を見ながら涼子は我慢した。
ちゃんと謝罪をしてくれたのだ。そこに変な水を差したくはない。
あれからも麦は大学に顔を出していたが、涼子とは距離を取っていて会話も交わしていなかった。友人達には喧嘩でもしたのかと心配されたが、事情を話すわけにもいかず、心苦しいが適当に誤魔化すしかなかった。
既に大学内での友人関係も形成されてしまっている今、下手に大学を去ると大きな問題になりかねない。実際に大学に籍を置いているわけではないが、卒業までは怪しまれない程度に顔を出すようにとマスターが彼に言ったらしい。
それに、当初の目的は涼子だけだったが、彼自身大学生として過ごす内にそれ自体が楽しくなっていたようだ。人間のことを勉強し、溶け込んで、学生生活を謳歌していたという。
「水野と恋人になったら、もっと近づけると思った。そうしたら、守り石を取り戻す方法も見つかるかと思って。だけど、中々言い出せなくて。そうこうしてる内に他の妖怪が現れるし、合コンなんかに水野も来るし……焦って、それで……」
「告白を?」
「……ああ」
唐突な告白には驚いたが、あの強引さの裏にはそんな焦りがあったのかと納得せざるをえなかった。
涼子自身、麦にそういった感情は抱いていないので構わないのだが、生まれて初めてされた告白に気持ちがなかったというのは、少々淋しさを覚える。
涼子が思わず息を吐くと、麦は渋い顔をした。再び笑いそうになるのを堪えて、肩を竦めてみせる。
「もう良いよ。その代わり、大学では前と同じように接してちょうだい」
「……良いのか? 怖くないのか?」
「他のみんなも心配してるし、一緒に学生生活を送る誰かとギスギスしたままっていうのも嫌だしね。それに、田中君なんて怖くないよ。あの時はびっくりしたけど、もうあんなことしないでしょ?」
「ああ……」
頷くと同時に、麦の纏う雰囲気が柔らかくなる。そして、久し振りに真っ直ぐその黒い瞳で涼子の顔を見た。
「礼に、一つ教えてやる」
*
屋敷を出ると、庭では既に宴会が始まっていた。
提灯に照らされた砂利の上に敷物を敷いて、酒瓶や料理を囲んだ烏天狗達が楽しそうに笑い声を上げている。中にはもう酔いが回っているモノもいるようだ。赤ら顔で腹踊りをしているのが遠目に見える。
「水野さん」
門のところにいた蕣花が涼子の姿を見つけて駆け寄ってくる。
彼も心配してついてきてくれたのだが、祭事の儀式は一族だけで行うのが習わしらしく、中には入れないので外で待っていたのだ。涼子は守り石の関係で例外ということになるらしい。
涼子は蕣花の顔を見上げて、ふふっと微笑んだ。
「道弓君は、いつも先にわたしを見つけてくれるね」
「え?」
小声だったので、蕣花には聞こえなかったようだ。だが、それならそれで構わない。
尋ね返す蕣花に、涼子は首を振った。
「ううん、何でもない。無事に終わったよ」
烏天狗達が出てきたことで儀式が終わったことは既に判っているとは思うが、一応報告をしておく。
蕣花は頷いた。
「また十五年後、ですね」
「うん」
涼子の命が絶えるまで、守り石はこの身体の中にあり続ける。その為、祭事には毎回立ち会わなければならない。
十五年に一度だ。数百年、数千年と時を生きる妖怪ならともかく、人間の涼子にとっては数回のことである。そこにいるだけだし、大した労力にはならないだろう。
それに、人間がまほろばに足を踏み入れることはそれなりの危険が伴うようだが、行き来には烏天狗がついていてくれるし、この山には彼等しかいないから心配も要らない。
蕣花は学生として大学に来るのはやめるそうだが、マスターの喫茶店でアルバイトを始めるらしい。彼の許で人間についてもっと勉強をしたいのだという。
基本的に一度に店に立つのはマスターとアルバイト一人という体制になっているから、シフトが涼子と被ることはまずないだろう。それでも会える時間はできるだろうし、そうでなくても会いにきてくれると約束してくれた。
幼い頃の記憶は、残念ながら思い出せない。
けれど、共にこれから思い出を重ねていくことはできる。きっと楽しい未来が待っていると思ったら、自然と笑みが零れた。
大学も夏休みに入ったし、早速色々なことができる。それを考えたら、楽しみが胸を高鳴らせる。
離れたところでどっと笑いが起こって見てみると、烏天狗達が腹を抱えていた。何か面白いことがあったらしい。
あの輪に入りたくて、涼子は蕣花の手を取った。
「わたし達も行こう――蕣花君」
『妖怪に苗字の観念はない。おれも〝田中〟ってのは適当に自分でつけたし、アイツもそうだろう』
先刻、麦に教えてもらったことだ。
人間に溶け込む為につけた苗字で呼び続けるより、本当の名前で呼んだ方がきっと仲も深まる。
そう思ったが、いきなり呼ぶと少し気恥ずかしい。
頬を赤らめる涼子に驚いた表情をした蕣花だったが、すぐに嬉しそうに目を細めた。
「――はい」
現のものとは違う、大きな月。
その光に照らされながら、二人は楽しげな空気の中に飛び込んでいった。
終
