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口止め料でもらった初任給をバンコクで使い切った話

初任給の使い道という言葉には、少しきれいな響きがある。

親にご飯をごちそうした。
祖父母にプレゼントを買った。
自分へのご褒美に財布を買った。
将来のために貯金した。

たぶん、そういう話が一般的だと思う。

でも、私の初任給の使い道は少し違う。

私は新卒で入った会社を、1週間で辞めた。

理由を簡単に言うと、いわゆるブラック研修を受けて、研修の最後にそのまま救急車で運ばれたからだ。

今思い出しても、なかなかすごい始まり方である。
社会人生活、開幕1週間で救急車。
チュートリアルにしては難易度が高すぎる。

普通なら、1週間で辞めた人間に初任給なんてもらえないと思う。

でも私は、その会社から3ヶ月分の給料をもらった。

おそらく、口止め料のようなものだったのだと思う。

もちろん、正式に「これは口止め料です」と言われたわけではない。
そんなにわかりやすく悪役みたいなことは言わない。

でも、こちらとしてはそう受け取るしかなかった。

私はそのお金を、すぐには使わなかった。

なんとなく、普通の生活費に溶かしたくなかった。
コンビニ代や家賃やスマホ代に消えていくのは、あまりにも悔しかった。

これは普通の給料ではない。

私が壊れかけたことと引き換えに、なぜか手元に残ったお金だった。
ならば、普通には使いたくなかった。

当時はまだコロナ禍だった。

少しずつ世の中が動き始めていたとはいえ、まだ閉塞感はあった。
マスク、消毒、制限、空気の重さ。
どこへ行っても、何かがずっと薄く曇っているような時期だった。

私は会社を1週間で辞めたあと、個人でやっていくことにした。

正直、かっこいい独立というより、会社員ルートから落下したあとの着地に近かったと思う。
それでも、自分で仕事を取って、自分で稼いで、自分で生きていくしかなかった。

その時、私はこのお金の使い道をこう決めていた。

「個人でやっていく中で、本当にしんどくなった時に使おう」

つまり、非常用の豪遊資金である。

生活防衛資金ではない。
貯金でもない。
意識高い自己投資でもない。

メンタルが地面にめり込んだ時、無理やり自分を引き上げるためのお金。

そういう名目で、私はそのお金を残していた。

そして、その時は来た。

その年の10月だった。

個人で受けた仕事があった。
ちゃんと仕事をした。
でも、報酬が支払われないまま飛ばれた。

金額は30万円くらい。

今でも思う。
30万円は大きい。

金額としても大きいけれど、それ以上に精神的なダメージが大きかった。

個人で仕事をしていると、お金を払われないことは、ただの未払いでは済まない。
自分の時間が雑に扱われた感じがする。
自分の労力がなかったことにされた感じがする。
「あなたの仕事には払う価値がありません」と、勝手に判決を下されたような気分になる。

しかも、私は会社を辞めて個人でやっていくと決めたばかりだった。

そこで30万円を飛ばれる。

かなりきつかった。

お金がないというより、心が折れた。

社会に対して、ちょっと普通に引いた。
人間、こんなに平気で人の仕事を踏み倒せるんだと思った。

その時、幸運なことに、コロナワクチンを3回打っていれば海外旅行に行けるようになっていた。

私はすぐに航空券を取った。

行き先はタイ。
バンコクだった。

たぶん、考えるより先に身体が動いていた。

もう日本にいたくなかった。
踏み倒された30万円のことを、同じ部屋でずっと考えていたくなかった。
このまま日本で節約して、落ち込んで、我慢して、まともな顔をして過ごすのが嫌だった。

だから私はバンコクに行った。

そして、2週間ほど過ごした。

豪遊した。

好きなものを食べた。
飲みたいものを飲んだ。
行きたい場所に行った。
買いたいものを買った。
友達と遊んだ。
夜のバンコクを歩いた。
暑さと湿気と屋台の匂いの中で、少しずつ自分が戻ってくる感じがした。

日本で受けたダメージが、バンコクの熱気で少しずつ蒸発していくようだった。

もちろん、未払いの30万円が返ってきたわけではない。

現実的には、何も解決していない。

でも、心が完全に折れる前に、自分を別の場所へ運べた。
それはかなり大きかった。

私はその時、初任給というものは、必ずしも立派に使わなくていいのだと思った。

親孝行に使ってもいい。
貯金してもいい。
欲しかったものを買ってもいい。

でも、自分を救うために使ってもいい。

私の場合、それはバンコクだった。

1週間で辞めた会社からもらった、よくわからない3ヶ月分の給料。
ブラック研修と救急車のあとに、なぜか手元に残ったお金。
普通に考えれば、あまり気持ちのいいお金ではない。

でも私は、それをただの嫌な記憶の証拠品にはしたくなかった。

だから、バンコクで使った。

トムヤムクンに変えた。
マンゴースムージーに変えた。
バイタクの風に変えた。
ホテルのベッドに変えた。
友達との笑い声に変えた。
夜の熱気に変えた。

あのお金は、私の中でようやく別の意味になった。

会社に壊されかけたお金ではなく、私が自分を立て直すために使ったお金になった。

だから、私は自分の初任給の使い道をけっこう気に入っている。

きれいな話ではない。

新卒で入った会社を1週間で辞めて、口止め料みたいなお金をもらって、個人の仕事で30万円飛ばれて、傷心のままバンコクで豪遊した。

履歴書には絶対に書けない。

でも、人生には履歴書に書けない使い道の方が、あとから効いてくることがある。

私の初任給は、将来のための貯金にはならなかった。
親孝行の美談にもならなかった。
堅実な社会人デビューの記念にもならなかった。

でも、あの時の私を救った。

だから十分だと思っている。

私が初任給で買ったのは、2週間分のバンコクだった。
そしてたぶん、あの時ギリギリ失いかけていた自尊心だった。

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