バルセロナからメッシーナへ 500年前と重なる地中海の航路 ─ドン・フアン・デ・アウストリアの物語
今回の旅の中心は、地中海。
この海に数えきれないほどの歴史があることは、言うまでもない。
だが、スペインの歴史を少し調べていたとき、ある違和感に気づいた。
今回のクルーズ航路が、
1571年10月7日に起きたレパントの海戦に至るまでの流れと、あまりにも似ているのだ。
偶然とは思えなかった。
およそ500年前と現在で、同じ港が、同じように地中海を支えている。
バルセロナ、ジェノヴァ、ナポリ、メッシーナ。
それぞれの街には、長い時間をかけて積み重ねられた役割がある。
そして気づいた。
この航路は、歴史を再現しているわけではない。
それでも同じになるのは、この海そのものが変わっていないからだ。
MSC CruisesのMSC World Europaで巡る今回の旅は、
結果として、500年前と同じ地中海の黄金ルートをなぞることになるのかもしれない。
それを、この目で確かめに行く。
① 地中海をめぐる対立構造

オスマン帝国 vs 神聖同盟
16世紀後半、地中海の西には
「太陽の沈まない国」と呼ばれる国家があった。
その名は、スペイン帝国。
1492年の統一、そしてコロンブスの新大陸到達をきっかけに、
スペインの支配は海を越え、世界へと広がっていく。
地球のどこかには常にスペインの領土があり、そこには必ず太陽が昇っている。
それが、この国の異名の由来だった。
ただし、その絶頂期は1580年、ポルトガルを併合してからのこと。
今回の物語は、その少し前夜にあたる。
当時の国王が、フェリペ2世である。
彼の名は、現在のフィリピンにも残っている。
遠く離れた島々にまで、その影響力が及んでいた証だ。
さらに彼は、首都をバリャドリッドからマドリードへ移したことでも知られる。
スペインはイベリア半島だけの国ではなかった。
ナポリ王国、シチリア王国を支配し、西地中海世界をほぼ掌中に収めていたのである。
しかしその海に、もう一つの巨大な力が迫っていた。
東方から現れたのは、オスマン帝国。
かつて711年から1492年までイベリア半島を支配していたイスラーム勢力の系譜を引くこの帝国は、首都コンスタンティノープル(現在のイスタンブール)から西へと進出している。
1538年、プレウェザの海戦でキリスト教側の連合艦隊は敗北する。
この一戦によって、東地中海の主導権はオスマン帝国の手に渡った。
そして1570年、ついにヴェネツィア共和国の領土キプロスを占領する。
イタリア諸国、特にヴェネツィアなど地中海貿易を生業としている国家にとっては由々しき事態である。
そこで、教皇ピウス5世に依頼し、キリスト教の一大牙城を西地中海世界に築くスペインも加えて、神聖同盟を締結した。
だが、プレウェザでの敗北があり、教皇領での正式決定は難儀を極めた。
そして、侃々諤々の議論の末、艦隊の陣容、軍費などあらゆることが決定し、残すはただ一つ。
総司令官の選出のみである。
② 指揮官の誕生(マドリード)

悲劇の若き英雄
「神が遣わされた人物、それがドン・フアンだ」
教皇ピウス5世の推挙により、24歳の若者が総司令官に決まった。
この人物は、誰なのか。
スペイン国王フェリペ2世は父カルロス1世とポルトガル王女イザベル・デ・ポルトガルとの間に生まれた子であり、スペイン国王を継承した。
カルロス1世はカール5世として、神聖ローマ帝国の国王も兼任していた。
そこで出会ったバルバラとの間に生まれたのが、ドン・フアン・デ・アウストリア。
つまり、どちらもカルロス1世(カール5世)の子であり、母親が違う兄弟なのである。
ただ、父カルロス1世、異母弟フェリペ2世を含めたハプスブルク家特有の下顎の突起、いわゆる「しゃくれ」がなく、美男なのだ。
私生児であるドン・フアンは母親にも見捨てられ、3歳半からカルロス1世のもとで長年働いていた楽師によって隠されて、マドリードから離れた田舎で育てられた。
そして、カルロス1世が崩御する一年前に療養中のユステ修道院で初のお目見えが行われた。カルロスは息子の成長に大いに喜んだという。

13歳のとき、初めて異母兄である国王フェリペ2世と対面。
その才覚と人柄を認められ、「ドン・フアン・デ・アウストリア」と名乗ることを許される。
影の存在だった少年は、公の歴史へと姿を現した。
やがて彼はスペイン国内で起きたモリスコの反乱、アルプハーラスの乱を鎮圧し、武将としての才能を示すことになる。
そして今、その若者が、地中海の命運を背負おうとしていた。
③ 艦隊は海へ(バルセロナ〜ジェノヴァ)

すべての視線はドン・フアンへ
神聖同盟の決定を受け、ついにドン・フアン・デ・アウストリアが率いる艦隊が全艦隊の集合地メッシーナに向けて動き出す。
6月、スペインの港町バルセロナから出航した艦隊は、地中海を東へと進んでいく。
その目的地の一つが、ジェノヴァ共和国であった。
この都市は、単なる寄港地ではない。
ジェノヴァ共和国は、当時ヨーロッパ有数の金融国家として、スペイン帝国の戦費を支える存在だった。
莫大な軍費を必要とするこの遠征において、彼らの資金なくして艦隊は成立し得なかったのである。
金融国家ジェノヴァの繁栄の名残は、現在の街並みにも刻まれている。
ジェノヴァ旧市街にあるガリバルディ通り。
ここには、当時の富豪たちが競うように建てた、バロック様式やマニエリスム様式の壮麗な宮殿が立ち並ぶ。
出航からおよそ50日。
長い航海を経て到着したジェノヴァで、艦隊は熱烈な歓迎を受けた。
ドン・フアンの美質と風格、人を惹きつける会話と物腰の柔らかさに加えて、見事な踊りでジェノヴァの貴婦人方の心を捉えたという。
艦隊は、次なる目的地ナポリへの向かっていく。
④ 祈りの場所(ナポリ)
神に捧げられた出陣
ジェノヴァを出航して、およそ20日。
艦隊はスペイン王の支配下にあったナポリ王国へと到着する。
当時のナポリは、フェリペ2世によって統治される地中海最大級の拠点のひとつであり、軍事と信仰が交差する都市であった。
総司令官であるドン・フアン・デ・アウストリアの到着を知ると、国王の弟君の姿を見るために、多くの人々が港へと押し寄せた。
その凛々しい姿と気品ある振る舞いは人々を魅了し、艦隊の前途に大きな期待を抱かせた。
しかし、この地における最大の目的は歓待ではない。
出陣を前に、神の加護を求めることであった。
艦隊は サンタ・キアラ教会にてミサに与る。
荘厳な聖堂に祈りが満ちる中、司祭の声が静寂を切り裂く。
「冷酷非情なる敵に対し、神が勝利の栄光をもたらし給うように。
汝の手により、敵の高慢は懲らしめられよう」
その言葉に導かれるように、聖堂に集った人々は一斉に応える。
アーメン。
そしてこのとき、ローマ教皇より授けられた神聖同盟の旗が、ドン・フアンに託された。

この旗は1616年にスペインのフェリペ3世によってトレド大聖堂に贈られ、宝物とされていたが、1961年にサンタ・クルス博物館に移された。
現在はどこで見られるのかは不明である。
⑤ 集結の地(メッシーナ)
地中海最大の艦隊、ここに集結
無事にナポリで出陣式を終え、メッシーナに到着したのは8月24日。
当初の計画では、海が穏やかになる5月に集結する予定であったが、大幅な遅れである。
最も遠方から来るスペイン南部マラガの艦隊は、なおナポリに留まっていた。
その艦隊の中には、後に『ドン・キホーテ』を著すことになる
ミゲル・デ・セルバンテス の姿もあった。
このとき彼はまだ無名の兵士に過ぎず、一人の歩兵としてこの戦いに身を投じようとしていた。
そして9月2日、ついに全艦隊のガレー船がメッシーナ港に集結した。
しかし、各国から集まった艦隊は装備や統制にばらつきがあり、とりわけヴェネツィア軍との間には編成や指揮の違いが見られた。
このままでは足手纏いになりかねない。
そこでスペインは約4,000人の兵をヴェネツィア艦隊へと編入し、連合軍としての体制を整えていく。
異なる国家、異なる思惑を持つ軍勢が、ひとつの目的のもとに再編されていく瞬間であった。
そして9月19日。
200隻を超える艦隊が一斉に錨を上げ、メッシーナを出航する。
その先に待つのは、地中海の覇権をかけた決戦――レパントの海戦である。
⑥ 開戦(レパント)

結局、ドン・フアンの艦隊が出航できたのは一夜明けた20日の朝だった。
波止場の突端には教皇大使の一行が姿を現し、右手を掲げて祝福を送っている。
神聖同盟の旗が海風に揺らめく。
荒くれの兵士たちも、この時ばかりは甲板に膝をつき、静かに祈りを捧げていた。
連合軍はイオニア海へと進み、コルフ島を経て、やがてレパント湾を望む海域へと到達する。
水平線の向こうに、オスマン帝国軍の艦隊が姿を現す。
ドン・フアン・デ・アウストリアは、ただちに戦闘開始の合図を命じた。
緑の旗が掲げられ、全艦隊にその意志が伝わる。
その頃、セルバンテスは発熱による目眩と吐き気に襲われていた。
隊長からは戦闘の邪魔になるから船底にいるように言われていたが、頑なに拒否した。
それどころか、最も危険な場所へ自分を配置するように懇願したという。
ドン・フアン・デ・アウストリアは小舟に乗り移り、各ガレー船に漕ぎ寄せては兵士に檄を飛ばして回る。
「勇敢なる兵士諸君、待ち望んだ時は来た!敵の鼻っぱしをへし折るのだ!」
「諸君の司令官はキリスト御自身である!神が我々の働きを見ている!」
「今日こそキプロスの仇を打つときだ!」
熱意を込めて心からなる言葉をかける司令官に兵士たちは船端を叩き、銃を掲げて応える。
それから一同はその場に膝をつき、神に勝利を祈った。
海は束の間の静寂に包まれた。
その静寂を切り裂くように、ラッパとトランペットの音が高らかに鳴り響く。
10月7日午前11時、開戦。
⑦ その後

レパントの海戦は、キリスト教国連合がオスマン帝国に対して収めた、初めての決定的な勝利であった。
しかし、この勝利によってオスマン帝国の勢いが完全に失われたわけではない。
その後も地中海は、なお彼らの艦隊や海賊の脅威にさらされ続けることになる。
それでも、この戦いが持つ意味は決して小さくない。
それまで無敵とさえ思われていたオスマン帝国を打ち破ったことは、ヨーロッパ諸国に大きな精神的変化をもたらした。
恐怖は揺らぎ、やがてそれは対抗する意思へと変わっていく。
そして、この戦いを指揮したドン・フアン・デ・アウストリアは英雄として称えられ、メッシーナの港には、今もその姿を刻んだ像が静かに佇んでいる。
あの日、祈りとともに出航した艦隊は、確かに歴史を動かしたのである。
※この戦いの詳細、そしてセルバンテスがこの戦場でどのような運命を辿ったのかについては、紹介する本を読んでほしい。
この戦いの全貌を、ここで語り尽くすことはあえてしない。
無数の艦隊がぶつかり合い、刻一刻と変化する陣形の中で繰り広げられたレパントの海戦は、言葉だけでその壮大さを伝えるにはあまりにも複雑で、あまりにも激しい。
だからこそ、その臨場感と緊張感は、ぜひ一冊の本を通して体験してほしい。
