【旅行前に】サグラダ・ファミリア予習ページ③ガウディの生涯編 〜カタルーニャが生んだ奇才〜
※このページは随時追記、編集しています。
アントニ・ガウディは、幼い頃からリュウマチに悩まされていました。
強い痛みのため、子どもらしく走り回ったり、スポーツをしたりすることができなかったといいます。
その代わりに彼が過ごしたのは、ひとりで自然を観察する時間でした。
花の形、枝の分かれ方、虫の動き。
誰も気にも留めないようなものを、じっと見つめる時間。
この幼少期の体験が、のちに「自然から建築の答えを得る」というガウディの姿勢につながっていったのかもしれません。
建築学生だった頃のガウディは、生活のためにアルバイトをしながら学業を続けていました。
そのひとつは、バルセロナのシウタデリャ公園にある噴水の設計です。
彼はあくまで補助的な立場でしたが、水の流れや装飾の構成には、すでに後年のガウディを思わせる自然へのまなざしが見て取れます。
若き日の彼は、この噴水の仕事を通して、「都市の中に自然をどう溶け込ませるか」という問いと、初めて本格的に向き合うことになりました。
建築学校を卒業し、建築家として独り立ちし始めたガウディが手がけた初期の作品に、レイアル広場の街灯があります。
鋳鉄製のランプポストには、王冠や翼を思わせる装飾が施され、すでに当時の一般的な街灯とは一線を画していました。
ガウディの人生を大きく変えたのが、実業家エウゼビ・グエルとの出会いでした。
きっかけとなったのが、パリ万博に展示された革手袋店コミーリャスのショーケースでした。
それを目にしたグエルは、強い関心を示したといいます。
その後にグエル邸、グエル公園、そしてコローニア・グエル教会の建築を依頼することになります。
グエルは、ガウディの才能をいち早く見抜き、経済的にも精神的にも彼を支え続けた人物です。
これらの建築は、単なる施主と建築家の関係を超えた、深い信頼の上に成り立っていました。
グエルの存在によって、ガウディはようやく「自分の建築を、制限なく追求できる環境」を手に入れたのです。
晩年のガウディは、建築そのものを、ますます自然に近づけていきます。
カサ・バトリョの波打つ外壁、骨のような柱。
カサ・ミラの直線を拒んだかのような曲面。
そこには、もはや「装飾」という言葉では捉えきれない、有機的な思想がありました。
建築は、人のための器であると同時に、自然の延長でなければならない。
その考えは、彼自身の生き方と同じく、最後まで揺らぐことはありませんでした。
同じ時代、同じカタルーニャに、もう一人の天才がいました。
ルイス・ドメネク・イ・モンタネール。
彼が手がけたカタルーニャ音楽堂は、合理性と装飾美を融合させた、モデルニスモ建築の傑作です。
都市の中で完成された美を追求したモンタネールと、自然と信仰の中に建築の答えを求めたガウディ。
二人の建築は、同じ時代に生まれながら、まったく異なる方向を向いていました。
その違いこそが、ガウディという人物の特異さを、より際立たせているのかもしれません。
ガウディは、カタルーニャ地方にあるタラゴナ付近の街レウスに生まれました。
彼は生涯にわたって、自らを強く「カタルーニャ人」だと意識していた人物でもあります。
当時のスペインは、スペイン継承戦争後の流れを引き継ぎ、さらにプリモ・デ・リベーラ政権下において、スペイン語(カスティーリャ語)の使用が事実上強要されていた時代でした。
そうした状況のなかでも、ガウディは日常会話にカタルーニャ語しか用いなかったといいます。
治安警察隊に対してもカタルーニャ語しか話さず、その結果、官憲侮辱罪で逮捕されたというエピソードも残っています。
国王アルフォンソ13世がサグラダ・ファミリアを視察に訪れた際でさえ、彼はカスティーリャ語を使わず、あくまでカタルーニャ語で応対したと伝えられています。
ガウディは若い頃、服装にもよく気を遣い、モーニングコートにシルクハット、そしてコミーリャス製の手袋を身につけた、いかにも紳士然とした人物でした。
その頃、彼は人生で一度だけ、情熱的な恋を経験します。
相手は、ペピータ・モレウという女性でした。
快活に笑い、自由奔放な性格を持ち、短く整えた金髪が印象的な人物だったといいます。
二人のあいだに漂う親密な雰囲気から、ガウディは両思いだと信じ、神父に仲立ちを頼もうとしました。
しかし彼女はすでに再婚の話が進んでいる段階にあり、その恋は虚しく片思いのまま終わります。
それ以来、ガウディが再び恋をしたという記録は残っていません。
その生き方は、奇才という言葉以上に、徹底した頑固さと呼ぶべきものだったのかもしれません。
その頑固さは、不幸にも彼の最期にも影を落とします。
晩年、リュウマチによる激しい痛みを抱えながら、ガウディは杖をついてバルセロナの街を歩いていました。
彼は、晩年ゴシック地区にあるサン・フェリペ・ネリ協会のミサへ出ることが日課でした。サグラダ・ファミリアからいつも決まって同じ道を、同じ時刻に歩く習慣がありました。その日は、コルツ・カタルーニャ大通りを渡り、雨上がりの石畳にできた水たまりを避けながら、ポケットに片手を入れたまま、リュウマチで痛む足を杖で支え、小刻みに進んでいました。
また彼は、片目がほとんど見えておらず、医師からは眼鏡をかけるよう勧められていました。しかし、「冷たい水で毎日目を洗えば必ず回復する」と頑なに信じていたガウディは、眼鏡を持とうとしませんでした。
ふと顔を上げると、カタルーニャ広場方面から猛スピードで迫ってくる市電に気づき、彼は一度、その市電を避けました。
しかしその直後、反対側から来た別の市電にはねられてしまいます。
それが、アントニ・ガウディの最期でした。
ガウディは、生涯にわたって同じコートを着続けていました。ポケットや袖が破れるまで修繕しながら使い、帽子もまた、毎日同じものを被っていたといいます。
数々の名建築を生み出した成功者とは思えないほど、彼の身なりは質素なものでした。実際、彼はほとんどお金を持っていませんでした。自らの資金のすべてを、サグラダ・ファミリアの建設費に充てていたからです。
そのため、事故のあと病院へ運ばれた際も、彼は浮浪者として扱われ、すぐにガウディ本人だと気づかれることはありませんでした。
