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ミウ

百人町。雑多な街。

階段を下りて薄暗いバーの玄関を開ける。
仕事帰りの人もいれば、年金生活の人も。化粧をしてスカートを履いてウイスキーを呑んでいるおじさんもいる。
誰もがここでは分け隔てなく酒を酌み交わす。必要以上に干渉することもなく、排除することもなく。うっすらと愛が漂う、そんな店。

テーブル席の端に、ミウより少し若そうな青年がいる。最近、よく来ている。髪が長めで、前髪をピンで横に止めている。

テーブルを囲むソファーにどさっと腰を下ろすとジローさんがミウの頭に手を乗せて「お疲れさん」と言った。ミウは奥の青年に目をやりながら「うん」と答える。
ジローさんはいつもここにいる。主みたいだ。
現役時代は会社が潰れたり、結構大変だったといつも聞かされる。ミウはそんな話を満面の笑顔でするジローさんが好きだった。

ミウは多国籍レストランでバイトして、週に一回は仕事帰りにこのバーに寄って、終電までジローさんたちと飲んで帰る。
ここにいると、かろうじて生きている実感がわく。

翌週、カウンターにあの青年が座っていた。
ミウが青年の隣に座ると奥から「おーい、ミウ!こっちで飲もうぜ!」
ジローさんがミウを呼ぶ。

「今日はちびちび飲みたいんだ」
ミウが言うと、ジローさんはオッケーというようにサムアップをした。

ミウはシャンディガフを注文する。

「名前は?」
「リュウ」
「昔からその名前?」
リュウは答えなかった。
「君は?」
「ミウ。美しいに雨。嫌いな名前」
「そう」
ミウはリュウの横顔を見る。何て綺麗な顔。よく見るとリュウはピアスをしていた。
「トランスジェンダー?」ミウがそう訊くと、リュウは「バイセクシャル」と答えた。
「バイセクシャルだとそういう髪型にするの?」
リュウは「それは関係ない」と言った。

ミウは一瞬だけ、世界がすごくよく分かった気がしたけど、またすぐにそれは幻だと思った。

ここは幻のような街だ。

私はここからどこにも行けない。行き止まりをぐるぐる歩いているようで時々ミウは吐きそうになる。

「みんなどうやって生きてくのかな?」
ミウは彷徨うような言葉を口にする。

「よく分かんないけど、我慢して生きてるし生きてく」

リュウの言葉はふたりの間に共通する何かの欠落を突いていた。けれど、その言葉は曖昧なまま、優しくふたりを包みこんだ。

「よく分かんないけど、あたしは君好きだよ」とミウは言った。


二十五時、閉店のお時間です、とマスターが言った。
終電の時間は過ぎていた。

ミウはリュウと一緒に漆黒の町へ出る。
少し歩いて、自販機でハイボールを数本買った。それから小さな公園のベンチに並んで座る。

ミウはハイボール缶を開け一口飲んでリュウに渡す。リュウは一口飲んでまたミウに渡す。

「ちゃんとしようとは思ってるんだよ、毎日洗濯してさ、料理して、いつか結婚して、人生の伴侶に心から愛を伝えて、コセキとかそういうのちゃんとしてさ」
「そういうのがちゃんとするってこと?」
「分かんない」

私は生ぬるい人の温もりがほしいだけだ。
ミウはもう一度「分かんない」と言った。
目からポタポタと涙がこぼれて、鼻をすする音が夜の公園の静寂の中で響いた。
リュウは何も言わず黙ってミウを見つめている。
ミウはリュウの肩に頭を乗せ、冷めない酔いのまどろみに身を委ねた。

時々ハイボール缶を喉に流し込んで、朝までの長い時間の中で、ふたりは何度か短いキスをした。

「夫になってよ、ちゃんとするからさ」
ミウがそう言うと、リュウは小さく笑ったようだった。
朝が来たら始発電車に乗って、私たちは帰る。多分もうずっと会うことはないんだろうなとミウは思った。

遠くでバリトンサックスの音がする。どこかで誰かが練習している。

変な街。ミウは心の中でつぶやく。

少しずつ空が白んでくる。ミウはまどろみの中で目を閉じ、うっすら夢を見る。
始発まで、もう少し。

(終)


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