I.L.Y.
職場を出て駅の改札に着くと、改札のこちら側とあちら側で向かい合っている男女がいた。
二人は右手を上げて、次に同じジェスチャーをした。
親指、人差し指、小指を立て、中指と薬指をたたんで、お互いに向けている。
私はさして気に留めず、隣の改札をすり抜ける。
数駅電車に揺られ、駅からスタスタと歩き、誰も待っていない静かなアパートの自室に帰る。
この静けさにもだいぶ慣れてきた。
半年前までは彼と同棲をしていた。同棲と言っても、アパートの更新が切れる彼が私の部屋に転がり込んできて始まった同棲だった。
同棲した当初は毎日部屋で一緒にいる時間が新鮮で幸せだったけど、それが毎日だと、仕事でどんなに疲れていても一緒にいないといけない、ごはんも洗濯も洗い物も二人分やらなきゃいけないのは予想より大変だった。分担してやっていたけど、お互いやり方が違って、それがストレスになって、私はだんだんと彼に辛辣にあたるようになってきた。
別れを切り出したのは彼の方だった。
いつもどおり、「バカじゃないの!?」と罵倒の言葉を浴びせる私の声を遮るように彼は「別れよう」と唐突に言った。いつもとは違う語気をもって。
あまりの唐突さに唖然としながら、私の声は彷徨い始める。
「別れるって住むとこないじゃん…」
「もう先週から別の部屋契約してる」
彼の決心は揺るがなかった。
話し合いもなく部屋まで決めて一方的に別れを告げられたことへの悲しみと怒りで私はさらに罵倒の言葉を言い続けたが、彼はもう何も言わず、部屋を出ていった。
翌日、彼は荷物を取りにきたけど、私たちは一言も口をきかなかった。
夜になると、ふいに彼とのその最後のひどい時間を思い出す。でも、誰もいない部屋で、私が声を発することはない。私はあの日から一歩も進めていない気がする。
LINEの着信音がした。
学生時代からの女友達からだった。
久しぶり。ちょっと今電話していい?
久しぶりー、いいよ。
久しぶりに話す彼女の声。この部屋で人と会話をしていることに私は不思議と安堵する。
「ねぇ、12月25日空いてる、よね?」
「よね?って何よ」
「え!空いてないの?」
「空いてます!ガラ空き!」
「ライブ行かない?一緒に行くはずの子、行けなくなってさ」
好きなアーティストだったので私は二つ返事でOKした。
その日、私たちは東京のライブホールで久しぶりに生の音楽を楽しんだ。
帰り道、興奮が冷めやらないまま私たちは駅に向かう。
「ごめんね!ほんとは呑みに行きたいんだけど、明日仕事早くてさ」
「いいよいいよ、すっごい楽しかった!誘ってくれてありがとう」
そう言いながら改札に向かうと、改札のこちら側とあちら側で向かい合っている男女がいた。
二人は右手を上げて、次に同じジェスチャーをした。
親指、人差し指、小指を立て、中指と薬指をたたんで、お互いに向けている。
「あれ?」
「どしたの?」
「この間も同じジェスチャーして改札で向き合ってる人たちがいたんだ」
「あー、あれ手話だよ」
「え?」
「うん」
「そうなんだ..どんな意味なんだろ」
「I LOVE YOU」
「へー!」
「小指がI、人差し指と親指でL、親指と小指でY、でI LOVE YOU」
彼女は右手でその形を作ってみせた。
「この手話だけは世界共通なんだって」
「へー!詳しいね!」
「ちょっと興味があってさ、講習会に行ってたんだ。だいぶ忘れちゃったけど」
次の瞬間、疑問が浮かんだ。
「耳が聞こえない人たちって、音楽、楽しめないよね…」
「あ、いや、いろんな楽しみ方があって、振動でリズムを感じたりするんだって」
振動。
「ほら、音とか声って振動じゃん」
別々のホームに向かい、彼女と別れてからも、私の頭の中はモヤモヤしていた。
振動、か...。
声が全てじゃないんだな。そんなことを思いながら、私は思い返していた。
私があの日、彼に突きつけた罵りの声は、どんな振動で彼に伝わったのだろう。
その振動は今も彼の体に残り続けているんじゃないのかな。
私は空中に向けて右手で「I LOVE YOU」の形を作り、その手を自分に向けた。
小指がI、人差し指と親指でL、親指と小指でY。
私はもう愛されていないだろうけど、あの時、心無い罵りの言葉を浴びせてしまったことは謝らないといけないと思った。心からの言葉を言わないといけない。誰に対しても。それが声であってもなくても。
スマホを手にとり、彼の番号を探す。
数秒ためらう。
心の奥の、自分の声を探す。
ホームに流れ込む電車の音の中で神経を研ぎ澄ませ、私は今まで曖昧に、そして今まで置き去りにしてきた本当の声を探す。
(私は、ちゃんと毎日を進みたい)
じとっと目に涙が滲んだ次の瞬間、発信ボタンをタップする。
ピピピピ、ピピピピ、トゥルルル、トゥルルル、トゥルルル...
電車がホームに飛びこんでくる。
目を閉じて耳を澄ます。
ホームの喧騒の中で、私からの発信が彼の声を呼び出そうとしている。
(終)
***
#モノカキングダム2024
