煙の中のかすかな光
煙の中のかすかな光
駅を降りて、歩き慣れた道を並んで歩く。
都会の喧騒を抜け、突然現れる深い森に囲まれたその場所は、ある画家の名前が冠された記念館のような美術館だった。
夏の終わり、短い秋の訪れを告げるような静かな風が吹いている。
彼女はネイビーのニットに白のパンツをはいていた。
2階建て。
1階も2階も回廊のようになっていて、1階は常設展なのだが、その膨大な貯蔵数から、2階は、年に4回、作品がガラっと変わる。
美術館の中に入ると、彼女はいつものようにじっくりと一点一点絵を目に沁み込ませていく。僕は彼女のスピードに歩幅を合わせていく。
時折、彼女はちらっと僕の様子を気にする。
2階の回廊を過ぎた奥に小さなカフェがある。
僕と彼女は2人席に座って向かい合う。
「いらっしゃいませ」すぐにお水をもって、店員が来てくれる。
彼女が「アイスコーヒーを」と言い、僕は「あ、僕も」と言う。
彼女は美術大学で非常勤講師と事務を掛け持ちしながら、いつかは自分で美術教室を開きたいという夢を持っていた。
最近、その夢を彼女があまり喋らなくなってきたように思う。と言うより、僕らの間にある距離感が、ひどく頼りなく感じることが多くなってきた。
アイスコーヒーが運ばれてきた。
彼女は一口飲むと、
「どうだった?」と言う。
僕は少し間を開けてから、
「2階のすぐのところの大きな絵が良かったかな」
と言った。
彼女は、軽くうなずくと視線を僕から窓の外に移した。
趣味が合わなくたって、一緒にいられることはできる。僕はそう思っているけれど、頼りない距離感は広がるばかりで、僕はいつも、取り繕うようにその距離感から目を背けてしまう。
会話が重苦しくなって、思わず僕は言った。
「この美術館もよく経営できるよなぁ、そんなにお客さん来ないのにね」
一瞬、彼女の顔が紅潮した。
気持ちを落ち着かせるように、彼女はアイスコーヒーを一口飲んで、軽く息を吐いた。
「最近書いてないの?」
「ん、何を?」僕は聞き返す。
「小説」
「あぁ、仕事も忙しいしね、あんまり時間もなくて、そのうち書くと思う」
僕がそう言うと、彼女の目がじわっと充血した。 気まずい沈黙を破るように彼女は立ち上がり、ちょっとショップに行ってくると言って、館内のショップへ向かった。
透明の煙が、目の前をさまよう。
置き場なく、行き場のない心の中の感情が、煙の中に吸い込まれていく。
彼女は美術館オリジナルのポストカードを持って、席に戻ってきた。
僕が「ポストカード買ったの?」と聞いても何も答えず、彼女はカードを袋から取り出し、鞄からペンを出して、買ったばかりのカードに何かを書き始め、書き終えるとすっとそれを僕に差し出した。
僕はカードに書かれた短い文章に目を落とす。
私と一緒にいる時間が、君の時間を取っちゃってるのかな?
言葉を失いながら、否定しようと視線を戻すと、彼女はうつむいたままボロボロと泣いていた。
時が止まったような静寂に、ふたりは包まれていた。
*
小説やエッセイを書くのが僕の日常だった。
彼女は僕の作品を読んではいつも褒めてくれて、また書けたらいちばんに見せて、と言った。
でも、気が付いたら僕は書けなくなっていた。
もっと面白いものを、もっと彼女が喜ぶものを、常に最高のものを書かないといけない。
誰のためのでもなく、自分を心地よく表現するために書いていた文章が、いつしか彼女たった一人を喜ばせるためのものに変わっていた。
そして、もう何のアイデアも浮かばなくなっていた。
それを彼女に言えないまま、ふたりの距離は埋められないものになっていった。
*
夜にひとり、僕は考えている。
僕は何を書きたかったんだっけ?
本当にもう何も書けないのかな?
突然、彼女との、ある時間を思い出す。
まだ交際始めの頃、世界的に有名な画家の作品が東京に一斉に集まる美術展にふたりで行った時、館内で何も分からず、くるくると目を回している僕を見て、 美術館を出た後に彼女は聞いた。
「どうだった?」
僕が「何が何だか分からなかった」と答えたら、彼女は大声を出して笑った。その笑顔が眩しくて、その時間がいとおしかった。
あの時、そこから広がる世界は無限だった。
月の満ち欠けのように、静かに広がる朝焼けのように、地球の自転のように、いくら時間がかかっても、また必ず書けるはず。
あの時見た無限に広がる世界を、僕は書きたかったはずなんだ。
僕はノートパソコンを開き、小説用のエディタを立ち上げる。
更新は半年前で止まっている。
一度、大きく息をつく。
白い画面をじっと眺める。長い時間が流れる。透明の煙が、また目の前を覆う。
僕は目を凝らして、煙の中に光を探す。その光の先にある、無限の世界を。
もう一度……
書くんだ。
深い煙の中にかすかに光が見えた時、キーボードにかけた僕の指が、小さく動き出す。
(終)
