京都街歩き:御霊神社〜上善寺~天寧寺~西園寺~阿弥陀寺~十念寺~本満寺~梨木神社
御霊神社(上御霊神社):八所御霊を祀る御社
御霊神社は、平安京を築いた桓武天皇により政争で亡くなった八柱の御霊「八所御霊」を鎮めるために創祀されました。主祭神の早良親王は桓武天皇の実弟で、次期天皇となる皇太子の地位にありましたが、桓武天皇が進めた長岡京遷都において造宮使(総責任者)を務めた藤原種継の暗殺事件への関与を疑われ、無実を訴えながら絶食の末に非業の死を遂げました。都を襲う疫病や身内の相次ぐ死を早良親王の祟りと恐れた桓武天皇は、早良親王の御霊を慰めるために「崇道天皇」の尊号を贈り、手厚く祀りました。

現在の御霊神社は上京区の人々の氏神として信仰を集め、毎年5月1日に催される御霊祭の還幸祭(かんこうさい)は、祭礼として最古の御霊会の姿を現在に伝えています。

御霊神社の境内は、かつて「御霊の杜」と呼ばれ、応仁・文明の乱の戦端が開かれた場所としても知られています。
鞍馬口通:平安京の最北端の通り
鞍馬口通は、かつて平安京に採用された条坊制において最北端に位置する東西の通で、鞍馬口通より北は明治・大正期まで田園地帯が広がっていたといいます。
寺町通:豊臣秀吉が洛中の寺院を集約した通り
奈良時代の教訓から仏教勢力から距離を保とうとした桓武天皇により平安京の内に公式に建立が許された官寺は東寺と西寺の二寺のみに限られていました。その後、鎌倉時代から室町時代にかけて新仏教が登場する過程で、武家の信仰を集めた禅宗や農民の信仰を集めた浄土真宗は東山や北山、伏見など洛外の地に寺院を建てましたが、町衆の信仰を集めた浄土宗や日蓮宗は洛中に寺院を築くようになりました。
洛中に無秩序に建てられた寺院を市街地から移転させ、鴨川の西側を鞍馬口通から十条通まで南北に走る「寺町通」に集約したのが豊臣秀吉です。当時は約100の寺院が寺町通の西側に隙間なく並べられ、鴨川から御土居、墓地、寺院、そして寺町通の順に、市街地を守る形で配置されました。
現在の寺町通には約30の寺院が残っています。御所周辺の北側は、今も多くの寺院が立ち並ぶ閑静な佇まいで、古美術店や茶舗などの老舗が点在する落ち着いた雰囲気が漂います。一方、御池通から四条通にかけては寺町京極商店街として賑わい、飲食店や衣料品店などが軒を連ねる活気ある繁華街となっています。

上善寺(浄土宗):六地蔵の一つ「鞍馬口地蔵」
寺町通に並ぶ寺院の最北端に位置する上善寺は、平安時代初期に小野篁(おののたかむら)によって千本今出川に創建され、文禄3年(1594年)に現在の鞍馬口の地へと移されました。
小野篁は、朝廷において参議の要職を務める一方で、夜な夜な東山の六道珍皇寺にある井戸を通って冥府へ赴き、閻魔大王の補佐官を務めていたという伝説が残る人物です。
小野篁は、冥府で出会った生身の地蔵菩薩の姿に感銘を受け、一本の桜の木から六体の地蔵を彫り出しました。「六地蔵」と呼ばれ、当初は伏見の地に安置されていましたが、平安時代末期、外部からの邪気の侵入を防ぎ、旅人の安全と都の安寧を図るために後白河天皇の命を受けた西光法師によって、都へ通じる主要な6つの入口に分置されました。
上善寺の鞍馬口地蔵は、そのうちの一体で、かつては深泥池の近くにあって「深泥池地蔵」と呼ばれていたものが、明治の廃仏毀釈で移転を余儀なくされ、若狭街道から都へ入る玄関口であった鞍馬口に移されたものです。

上善寺の墓地には、禁門の変(蛤御門の変)で戦死した長州藩士が葬られた「長州人首塚」があり、松下村塾の四天王の一人であった入江九一ら8名の首が埋葬されたと伝わっています。

天寧寺(曹洞宗):比叡山を望む「額縁門」
天寧寺の表門は、門枠を額縁に見立てて景色を切り取る「額縁門」として知られています。寺町通に立って門に向い合うと、まるで計算し尽くされた一幅の絵画のように門の向こう側に比叡山の雄大な姿がぴったりと収まって見えます。

西園寺(浄土宗):金閣寺ゆかりの寺院
鎌倉時代初期の太政大臣・西園寺公経が北山の山荘に仏堂を建立したのが西園寺の始まりです。後にその地を気に入った足利義満に所望されて譲り、その跡地に建てられたのが鹿苑寺(金閣寺)です。西園寺は室町に移転し、さらに豊臣秀吉の京都改造によって現在の寺町通に移されました。
境内にある地蔵堂に祀られている「槌止地蔵(つちとめじぞう)」は、鎌倉時代の作で、「地獄に落ちるような悪事は打ち止めにして極楽浄土に生まれるよう善い行いを積もう」という恵心僧都(えしんそうず)の教え「清流を土留めて」からこう呼ばれます。お堂内部の壁には地獄・極楽の様子が描かれています。

安楽光院切通と疱瘡神を祀る末菊大神
鶴山公園がある場所にはかつて安楽光院というお寺がありました。寺町通には隙間なく寺院が並んでいたことから、元禄6年(1693年)に境内の土地を使って、市街地から鴨川に抜ける新道が作られました。御土居を切り崩して作られた道であったことから「安楽光院切通」と呼ばれ、御土居のあった場所には、疱瘡(天然痘)が町中に入ることを防ぐために疱瘡神である末菊大神が祀られました。


阿弥陀寺(浄土宗):織田信長が葬られた墓所
元の阿弥陀寺は天正年間(1532~1555年)に清玉上人によって近江坂本に創建され、後に織田信長の支援を受けて西陣に移転しました。
本能寺の変が起こった際、清玉上人はすぐさま駆けつけ、焼け跡から見つかった遺体を全て引き受けて阿弥陀寺に葬ったと伝わっています。
織田信長の墓は、全国に30カ所近く、京都だけでも数カ所はあるといわれていますが、遺骨が葬られているのはここ阿弥陀寺のみです(他は供養塔)。

本能寺の変の際、二条御殿に立てこもって自決した長男の織田信忠、後に柴田勝家と組んで羽柴秀吉と争って敗れ切腹に追い込まれた三男の織田信孝の墓も建てられています。
信長の墓の左手には、信長の小姓であっ森蘭丸・力丸・坊丸の3兄弟の墓があり、江戸時代に大名となった森家が代々の菩提寺としてきました。

十念寺(浄土宗):鳳凰と四天王が飾られた本堂
十念寺は、室町時代の永享3年(1431年)に6代将軍・足利義教が創建した寺院です。1991年に再建された本堂は、大阪十念寺の住職でもある高口恭行氏が設計した現代建築で、屋根の頂上に鳳凰、四隅に四天王が飾られています。

本満寺(日蓮宗):武士の鑑・山中鹿之介の墓所
本満寺は応永17年(1410年)に近衛家によって創建された寺院で、戦国時代の京都にあった日蓮宗の大寺院「法華二十一箇本山」の中心的存在でした。
境内の墓地には、戦国時代から安土桃山時代にかけて衰退した出雲の尼子氏の再興に生涯を捧げた忠臣として知られる山中鹿之介の墓があります。
三日月に向かって「願わくば、我に七難八苦を与えたまえ」と祈ったという逸話は戦前は教科書に採用されたほど有名で、毛利氏によって尼子氏が滅ぼされた後も、鹿之介は遺児である尼子勝久を擁立し、織田信長の支援を得て各地で抵抗を続けました。しかし、播磨国の上月城で毛利軍の大軍に包囲されて落城。勝久は自害し、鹿之介も捕らえられた後に備中(現在の岡山県)で暗殺されました。主家再興の夢は叶いませんでしたが、その愚直なまでの忠義と不屈の精神は、江戸時代以降も「武士の鑑」として語り継がれ、現代でも多くの歴史ファンに愛されています。

墓地の一角には、豊臣秀吉による京都改造の一環で造られた御土居が残り、その上には本満寺の奥之院のお堂が建っています。

梨木神社:「萩の宮」と称される萩の名所
梨木神社は、京都御苑の東隣に位置する神社で、幕末から明治維新にかけて活躍した三条実万・三条実美父子を祭神として明治18年(1885年)に創建されました。

萩の名所として知られる梨木神社は「萩の宮」とも呼ばれ、境内には約500株の萩が植えられています。毎年9月には約500株の萩が咲き誇る「萩まつり」が開催されます。

参道脇には、かつて京都三名水の一つに数えられた「染井(そめい)」の水が現在も湧き出ており、茶の湯や書道、日々の生活用水として多くの人々に親しまれています。

