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和歌山城 ~西国大名を監視する「南海の鎮」、紀州徳川家の居城~

 和歌山城は、紀ノ川河口部に広がる和歌山平野の中心に位置し、徳川御三家の一つである紀州徳川家の居城として知られる名城です。平野の真ん中で虎が伏しているように見える形状の小高い山「虎伏山(とらふすやま)」に建てられたことから「虎伏城(とらふすじょう)」とも呼ばれます。

かつらぎ町(旧花園村)出身の工芸作家・角田蘇風による「虎伏像」

雑賀衆の時代から和歌山城創建に至るまで

 中世の和歌山では、「雑賀衆」と呼ばれる地縁的共同体が自治を行っており、戦国大名は生まれませんでした。雑賀衆は、普段は海運や漁業、農業に携わりながら、鉄砲を得意とする傭兵として浄土真宗一向宗)の本願寺織田信長が戦った石山合戦などで活躍しました。
 天正13年(1585年)、紀州を平定した羽柴秀吉(1537-1598)は、弟の秀長(1540-1591)に紀ノ川河口部の岡山(後の虎伏山)に城を築くよう命じ、後に築城の名手として知られる藤堂高虎(1556-1630)が手がけた最初の城郭となりました。秀吉は築城にあたり「岡山」という元の名に、万葉の昔からの景勝地「和歌の浦」の名を組み合わせました。これが和歌山城の始まりで、その後、秀長が郡山城(奈良県大和郡山市)に移ったことで、家臣の桑山重晴(1524-1606)が和歌山城代となりました。
 慶長5年(1600年)、関ヶ原の戦い後、浅野幸長(1576-1613)が和歌山城主となりました。幸長は、虎伏山の西峰に三層の連立式天守を建て、現在の本丸・二の丸・西の丸に屋敷を造営、大手門を岡口門から一の橋の方面に移し、本町通りを大手筋として城下町を整備しました。

紀州徳川家の時代

 元和5年(1619年)、徳川家康公の十男・頼宣公(1602-1671)が55万5千石を拝領し紀州藩が成立しました。紀州徳川家は、尾張・水戸とともに「御三家」と呼ばれ、西日本の大名を監視する「南海の鎮(しずめ)」としての役割を担いました。後に8代将軍吉宗公と14代将軍家茂公を輩出しています。
 紀州徳川家成立以降、初代藩主・頼宜公により虎伏山の西峰に大天守と小天守が渡櫓で結ばれた連立式天守、東峰に本丸御殿が築かれました。山上の御殿は不便で手狭なため、藩政と生活の拠点は麓の二の丸に移され、さらに西の丸は藩主が自然風雅を楽しむ場として内堀を池に見立てた庭園や能舞台、茶室などが営まれました。このとき頼宣は、城の防備を強化するために過去に築城に携わった藤堂高虎に助言を求め、南側の山地を掘り切って(現在の三年坂通り)、新たに南の丸、砂の丸を造成したと言われています。砂の丸には藩財政を担う勘定所が置かれました。 
 寛政10年(1798年)、それまで黒板張だった天守閣は、10代藩主治宝公(1771-1853)により改修され白壁塗りの白亜の天守閣となりました。後に落雷で焼失しましたが、幕府から「有形の通り」との条件付きで特別に認められてほぼ元のまま再建されています。

和歌山御城内惣御絵図(和歌山県立図書館蔵)

和歌山大空襲による焼失と市民による再建

 戦前は、江戸時代初期に建てられた貴重な遺構として国宝に指定され、姫路城や松山城と並ぶ構成美を誇っていましたが、昭和20年(1945年)7月9日の和歌山大空襲で天守閣をはじめ大半の建築物が焼失しました。
 戦後、街の復興が進む中、以前は毎日お城を見上げて生活を営んでいた市民の間で「お城がないと和歌山ではない」「紀州徳川家の象徴であったお城をもう一度」といった再建を望む声が高まり、多額の寄付金が集められました。募金活動には子供からお年寄りまで大勢の市民が参加し、小中学生がおやつ代を削って1円・5円を持ち寄った記録まで残っているそうです。
 当時の防火基準や耐久性を考慮し鉄筋コンクリート造となりましたが、「元の姿に戻してほしい」という市民の強い願いを受けて、外観は戦前に撮影された古写真や江戸時代の図面をもとに極めて忠実に再現されました。昭和33年(1958年)の落成式には「自分たちの手で城を建て直した」という思いを胸に数十万の群衆が詰めかけ、提灯行列や祝賀行事で城下町が沸き返りました。

忠実に再現された外観を持つ天守閣(本丸御殿跡)

現在に残る3つの門

 大手門は、城の北東に位置し、内郭に入る正面の門にあたり、当初は「市之橋御門」とよばれていましたが、寛政8年(1796年)に「大手門」へと改称されました。
 かつては登城する武士たちが身なりを整える威厳ある場所で、堂々とした高麗門形式で土塀や多門が連なり、西側の石垣上には月見櫓が建っていました。

和歌山城の正門にあたる「大手門」と「一の橋」

 城の南東に位置する岡口門は、羽柴秀長から桑山重治時代は主要街道の熊野街道につながる門であったことから大手門(正門)とされていましたが、徳川期の元和7年(1621年)に城を拡張し大手(城の正面)を一の橋に移した際に改修されて搦手門(裏門)となりました。
 城外に接するため厳重な櫓門形式で、片側にくぐり戸をつけ、2階壁面は防禦のため柱型、長押型を漆喰で塗り出しています。戦災を免れて江戸時代の和歌山城の姿を今に伝える貴重な遺構の一つです。

戦災を免れた数少ない江戸期の遺構として貴重な「岡口門」

 岡口門とともに重要文化財に指定された北側の土塀には、12か所の銃眼が設けられています。

岡口門とともに重要文化財に指定された北側の土塀

 追廻門は、城の南西に位置する朱塗りの門で、門を出て道を隔てたところに馬術を練習する追廻があったことからこの名がつきました。藩主が居住する二の丸御座之間の裏鬼門(南西)にあたることから、除災のために朱色に塗られたと考えられています。岡口門とともに空襲で焼けずに残った数少ない江戸期の遺構です。

「赤門」と呼ばれ親しまれる追廻門

御橋廊下:西の丸と二の丸をつなぐ斜橋

 藩主が風流を楽しむ場である西の丸と生活の場である二の丸大奥とをつなぐ御橋廊下は、両岸の高低差のため斜めにかけられた全国的にも珍しい橋です。風雨を避け外から姿が見えないように設けられた屋根や壁、滑らないようにと鋸歯状に組まれた床版の廊下が特徴的で、藩主とその随行者のみが通ることができました。

両岸の高低差のため斜めにかけられた「御橋廊下」

石垣の博物館:三つの時代の変遷

 和歌山城の石垣は、時代ごとに異なる積み方を観察できる「石垣の博物館」とも呼ばれる貴重な遺構で、大きく分けて三つの時代の変遷が見られます。
 最も古いのは羽柴秀長による築城期(1585年頃)の「野面積み」です。地元和歌山で産出される紀州青石を自然石のまま積み上げており、荒々しくも力強い表情が特徴的です。

羽柴秀長による築城期の「野面積み」

 浅野幸長が城主となった慶長期(1600年頃)には、石の接合部を加工して隙間を減らす「打込接(うちこみはぎ)」へと進化しました。この時期には、和歌山市内の加太などで採れる和泉砂岩が主に使われるようになります。

浅野幸長が城主であった慶長期の「打込接」

 そして、紀州徳川家の入国後(1619年以降)は、石を精密な角柱状に整えて密着させる最高技術「切込接(きりこみはぎ)」が登場します。

江戸初期の最高技術「切込接」で築かれた「松の丸櫓台高石垣」

 和歌山城の石垣のうち、2110個に刻印があることがわかっており、新裏坂周辺の坂の西方に続く石垣にそのうち854個と約4割が集中しています。デザインは多種多様で40種以上が確認されており、家紋やその省略文字であったり、方位や日付、人名と考えられるものもあります。
 石垣の刻印は、全国的に慶長から寛永の時代(1596~1644年)に築かれたものが多く見られますが、石材提供者の表示、石質を示すもの、呪術的な使用など諸説があり、何のために施されたものかはっきりとは分かっていません。 
 和歌山城では、浅野家が城主であった時代(1600~1619年)に修築された和泉砂岩の石垣にのみ刻印が見られることから、浅野家の家臣が主家の城普請に協力した証として刻印したと考えられています。

新裏坂周辺に集中する石垣の刻印
施された理由に諸説がある刻印
和泉砂岩の石垣にのみ刻印が見られる

西之丸庭園:歴代藩主が遊んだ大名庭園

 西之丸庭園は、初代藩主・頼宣公によって築かれた大名庭園で、紅葉の美しさから「紅葉渓庭園」の別名で親しまれています。
 和歌山城が立つ虎伏山の起伏を巧みに利用した立体的な構造となっており、山から流れ落ちる滝や力強い石組みが巧みに配置された池泉回遊式の庭園は歩くたびに景色が変化し、訪れる者を飽きさせません。
 池の護岸や石橋、さらには滝に至るまで、和歌山特産の美しい紀州青石が使われており、紀州徳川家の権威と自然美が融合した独特の空間を作り出しています。

江戸時代初期の池泉回遊式庭園「西之丸庭園」

大楠:和歌山城の隠れたパワースポット

 大手門近くの石垣上に立つ大楠は、樹齢約450年と推定されます。江戸時代後期に出版された「紀伊国名所図会」には周囲とは一際異なる大きなクスノキが描かれています。
 昭和20年(1945年)の和歌山大空襲により天守閣をはじめとする多くの建造物が焼失しましたが、大楠は激しい火災にさらされながらも奇跡的に生き延びました。
 石垣の裏手には、大楠を御神木とする樟守大神と大楠に住むといわれる白蛇の伝承に由来する白龍大神が並んで祀られ、和歌山城随一のパワースポットとなっています。

大楠を御神木とする樟守大神と白蛇伝承に由来する白龍大神の社

岡公園:和歌山城のバックヤード

 和歌山城に南側に位置する岡公園は、かつて紀州藩の造営や修繕を担う役所である御作事所(おさくじじょ)が置かれた場所で、石材を切り出す石切丁場でもありました。
 和歌山城の石垣や石畳を特徴づける紀州青石は、地質学的には結晶片岩の一種である緑泥片岩(りょくでいへんがん)にあたります。石材を切り出した跡には、石を割る際に刻まれた矢穴が今もなお残っています。 

石材を切り出した石切丁場跡、右手前の岩に矢穴が残る。

刺田比古神社(岡の宮):和歌山城の守護神

 地元で「岡の宮」の愛称で親しまれる刺田比古神社(さしたひこじんじゃ)は、和歌山城の南側に位置し、かつては城の守護神としての役割を担っていました。
 紀州徳川家出身の第8代将軍徳川吉宗公が誕生した際、厄払いのために「捨て子」とし神主が拾い上げる儀式が行われたという伝承があり、安産や子育ての御利益を求めて今も多くの参拝者が訪れます。
 参道脇には、吉宗公が将軍に就任した際に、お礼として寄進した白馬を形どった神馬(しんめ)像が祀られています。
 この神馬像は、吉宗公が幼少期から可愛がっていた白馬を形どったもので、人気時代劇「暴れん坊将軍」で、吉宗公が乗っていた白馬のモデルにもなりました。

将軍就任の際に吉宗公から寄進された白馬を形どった神馬像

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