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【ダークファンタジー小説】 17歳。いい子でいるための「嘘」が限界だった日。

親の機嫌を損ねないための進路。 先生に褒められるための優等生の顔。 友達の輪から外れないための愛想笑い。

もしあなたが、そんな「誰かにとっての都合のいい正解」を演じることに息苦しさを感じたことがあるなら、これはあなたのための物語です。

今回は、ダーク・メンタルファンタジー『剥き出しの更紗(さらさ)』第1巻より、主人公がすべてを投げ出して雨の中へ逃亡するまでの「第1章(前編)」を特別に無料公開します。


第一章:雨の駅、山羊頭の紳士と「逃げる」ための切符

放課後の教室には、独特の匂いがある。乾いたチョークの粉と、誰かの汗、そして「将来」という名の、かび臭い期待の匂いだ。

「――で、ここ。第一志望が白紙だけど」

担任の指先が、机の上の進路調査票をトントンと叩く。
乾いた音が、静まり返った放課後の教室に響いた。窓の外は、梅雨の始まりを告げるような鈍色の雲が垂れ込めている。

「まだ迷ってるのか? 先日の小論文、面白かったぞ。『正解のない問いへの耐性』について。国語科の先生も、黒河なら文学部や哲学の専攻でもやっていけるんじゃないかって言ってたが」

心臓が、嫌な音を立てて跳ねた。

見られていた。気づかれていた。
私が図書室の隅で、受験には何の役にも立たない哲学書を読んでいたことを。

「……そうですか」

私は口角を十七度上げ、反射的に「照れ笑い」を作った。
ここで『いい子』の更紗(さらさ)が「はい、興味があります」と言えばどうなる?
親は困った顔をするだろう。「そんなもので食べていけるの?」と。先生は「茨の道だぞ」と脅すだろう。
その空気の淀みを想像しただけで、肺がぎゅっと縮こまる。
だから私は、息をするように裏切ることにした。私自身を。

「あの小論文、実はネットの受け売りなんです。私、本当はああいう理屈っぽい話、苦手で」

声は震えなかった。あまりにも滑らかに出てきた嘘に、自分でも驚く。
担任の眉がピクリと動く。「そうなのか?」という落胆の色。それを見て、私は胸の奥が冷たく凪いでいくのを感じた。
これでいい。期待なんて、最初からへし折っておく方が楽だ。

「はい。それより私、もっと実用的で、両親も安心するような勉強がしたいんです」

私はペンケースから黒のボールペンを取り出した。
ためらいはなかった。
白紙だった第一志望の欄に、ペン先を押し当てる。

『K大学 経済学部』

インクが紙に滲む。
それは私が一番興味のない、けれど私の偏差値なら「間違いなく合格(せいかい)」判定が出る場所だ。
最後の画数、「部」の字を書くとき、力が入りすぎて紙が少しだけ破れた。

「……なるほど。まあ、黒河らしい堅実な選択だ。ご両親も喜ぶだろう」

担任の声が、安堵の色を帯びて明るくなる。
その「安堵」こそが、私が彼に提供した商品だ。私は対価として「いい子」という居場所を受け取る。完璧な取引だった。

「はい。家に帰って、母にもそう伝えます」

椅子を引いて立ち上がる。
「失礼します」と一礼し、背を向けた瞬間、ふっと表情筋の電源を切った。
頬が重い。瞼が重い。
たった数文字書いただけの右手が、鉛のように重たくて、うまく振れない。

ガララ、と教室のドアを開ける。
廊下に出た瞬間、背後で担任が赤ペンを走らせる音が聞こえた。きっと私の調査票に「済」のハンコを押しているのだろう。
私という人間が、システムの一部として処理された音だ。

(気持ち悪い)

胃の奥から、熱いものがせり上がってくる。

走った。

上履きのまま、昇降口へ。靴を履き替える時間すら惜しい。
ここではないどこかへ。私を知っている人が誰もいない場所へ。
重たい鉄の扉を蹴破るようにして外へ飛び出す。

ザアアアアアアアアッ――!!

視界が真っ白に染まった。
天気予報になかったゲリラ豪雨が、アスファルトを叩きつけている。
激しい雨音が、校舎の中の「正しさ」と、外の世界を断絶するように轟いていた。

私は雨の中に踏み出す。
冷たい水が、制服と、さっきついたばかりの嘘を濡らしていく。
不思議と、傘を開く気にはなれなかった。


雨は、空から落ちてくるというより、地面から湧き上がるように視界を白く埋め尽くしていた。
制服のブラウスが肌に張り付く。冷たさよりも、重さ。
さっき教室で吐いた嘘が、水分を含んで鉛のように全身にのしかかっているようだ。

「はぁ、はぁ、っ……!」

どこをどう走ったのか、記憶がない。
肺が焼けつくように痛い。コンクリートの感触が消え、いつの間にか足裏には砂利の感触が混じり始めていた。
視界の端に、古びた木造の屋根が見えた。
バス停ではない。もっと大きな、どこかの駅舎のようだ。こんな場所に駅なんてあっただろうか? 思考するよりも先に、体が生温かい闇のようなその場所へ滑り込んだ。

「……っ、寒い」

屋根の下に入った瞬間、世界から音が消えた。
外は激しい豪雨のはずなのに、ここでは雨音が分厚いガラス越しのように遠く、くぐもって聞こえる。
埃と、湿った木材の匂い。
蛍光灯が一本だけ、チカチカと瀕死の蛾のように明滅していた。

私は震える手でポケットからスマートフォンを取り出した。
母からの連絡が来ているかもしれない。「進路はどうなったの」という、呪いのようなメッセージが。
画面をタップする。

『圏外』

アンテナのピクトグラムが、×印になっている。
それだけではない。時刻表示が『――:――』と点滅していた。
故障? 水没したのかもしれない。
そう思ったのに、なぜか安堵している自分がいた。これで誰とも繋がらなくて済む。この「圏外」の文字は、私を守る結界だ。

「すいません、電車……まだありますか」

無人の改札口に向かって声をかける。
返事はない。
自動改札機は電源が落ちているのか、黒い口を開けたまま沈黙している。駅員室の窓ガラスは曇りガラスで、中の様子は窺えない。

ふと、改札の脇にある掲示板に目が止まった。
色褪せた観光ポスターや、期限切れの指名手配写真の中に、一枚だけ妙に新しいポスターが貼られている。
写真はなく、真っ黒な背景に白い明朝体で、一行だけ。

『行き先:あなたが捨てた場所』

心臓が跳ねた。
捨てた場所。

それは、さっき教室で私が塗り潰した「本当の第一志望」のことか。それとも、ゴミ箱に捨てた書き損じの小論文か。
文字が、じわりと滲んで見えた。まるで私を嘲笑っているようだ。

(帰ろう)

本能が警報を鳴らす。ここは駅じゃない。もっと別の、入ってはいけない「隙間」だ。
踵を返そうとした、その時だった。

カツ、カツ、カツ。

硬質な音が、ホームの奥から響いた。
革靴のヒールが石畳を叩く音ではない。もっと硬く、重く、乾いた音。
蹄(ひづめ)の音だ。

霧が立ち込めるホームの向こうから、一つの影が近づいてくる。
逆光で表情は見えない。けれど、そのシルエットは明らかに異様だった。
仕立ての良い燕尾服を着ている。手にはステッキ。

そこまでは人間だ。
けれど、首から上がおかしい。
長い顔。ねじれた二本の角。
横に切れ上がった瞳孔。

「――おや」

影が、改札の向こう側で立ち止まった。
人間のものではない、けれど理知的で深いバリトンボイスが、私の鼓膜を優しく撫でる。

「迷子のお嬢さんですね」

霧が晴れる。

そこに立っていたのは、豪雨の中でも濡れていない漆黒の毛並みを持つ、山羊の頭をした紳士だった。


次回、中編は3月5日(木)22時ごろ公開予定


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