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すんで社での5年を振り返る

先日、すんで埼玉(岡野)がこんな投稿をしていた。これを機に、私とすんで社との、5年間の歴史を振り返ってみようと思う。

すんで社の歴史

創業は2020年、私は2021年よりジョインしているが、5年間、いろいろあった。ざっくりいうと、以下の通りである。ただし、私の記憶に基づくものなで、正確ではない可能性があることをお断りしておく。

2021年6月〜2022年5月(2期目) 
売上0.2億、社員7名
→暗中模索、アイドリング期間
雰囲気「夢は大きく、なんとかなるだろう、最初は赤字で突き進もう」

2021年5月、岡野と出会う。埼玉関連の投稿で、面白いことやってる若者がいるな、と思い、DMを送り、会うことにした。岡野はちょうどその時、宅建業のスタートを模索していたらしく、今思えばいいタイミングだった。新宿の韓国料理屋でランチを共にし、まずは宅建関連の仕事をすることで合意した。同時期に、すんたまハウス開業。
しばらくは基本給+(重説、契約書作成+重要事項説明)のインセンティブ計算だったように思う。
私としては、すんで社(当時は住んで埼玉社)は、果たしてどんなものなのかな、と様子見していた。岡野の営業力や突破力はすごいものの、会社としてまだまだ未完成で、売上含め、見るべきところは少なかった。(私も含め)社員同士もお互い、あまり厳しく要求し合わないから、なんとなく売上は上がらない。オレたち面白いから、いずれなんとかなるっしょ、という甘い見通しばかりだった。男子校のノリで楽しくはあったが。

2022年6月〜2023年5月(3期目) 
売上0.8億、社員10名
→キャッシュアウトの危機、本気になる
雰囲気「ヤバい、カネがない。週に1件、年間50件は契約しようぜ」

6月だったと思うが、富士宮市でのワーケーションで、キャッシュがヤバいということ、本気を出そうという決意表明(年間50件=約売上7500万/年)をした。赤字を掘って夢見させて出資を募ろう、という方針から、しっかり自分たちで売上を立てて、食い扶持を稼ごう、黒字化を果たそう、と進路変更したのである。当時としては高すぎる目標で、簡単ではなかったが、少しずつ戦える組織に変化していった。マインドが変化すると、行動も変化するのである。当時は3ヶ月に1回、ワーケーションをしていて、日本各地を飛び回ることができ、これはこれで楽しかった。静岡のしきじでサウナに入ったり、長野の岡谷で鰻を食べたり、福島の二本松でボルダリングをしたり、いい思い出である。

個人的には、すんで東京ラインをまさしから引き継ぎ、営業マンデビュー。1日に1件、物件情報を配信することをひたすら繰り返す、地道な作業を繰り返し続け、おかげさまで一定の支持を得るに至った。今ではすんで城南ライン等、さまざまなラインに派生し、集客のひとつの柱になっている。
※すんで社では地域ごとの公式LINEで物件情報の配信やチャットで問い合わせ対応をしている。
6月に家購入を果たす。賃貸の更新時期が迫っていたのと、家のスペックが低かった(寒い暑い)ので、重い腰を上げて内見に行き、数軒目で決めた。3年経ち、さらに相場は上がっているので、よい決断だったと思う。
10月、取締役に立候補し、就任。動機としては、サラリーマンやフリーランスはやり尽くしたので、いちど経営というものを経験してみたかった。人間、40年近く生きていると、ルーティン業務だけで満足するようになる。1年に1度くらいは、主体的に役割を変えないと、何かが澱んでくるという、カンもあった。

2022年 富士宮市でのワーケーション



2023年6月〜2024年5月(4期目) 
売上1.3億、社員13名
→黒字化達成、日本橋オフィスオープン
雰囲気「クッソ忙しい。やるしかない。寝れない・・」

このときくらいになってくると、売上が継続的に上がるようになっていた。営業をやりつつ、重説を年間80本くらい作成、説明する。日中に営業で飛び回り、夜に3本重説を読むことも珍しくなかった。この時期が個人的に一番忙しかったし、同時に苦しくもあった。法的なリスク(契約不適合責任や修補請求、ローン解除など)は私しか専門的な知見がなく(岡野もとりも経験がなかった)、イライラも募っていたように思う。「なんで俺にできることができないんだ!?」と雰囲気を悪くしていたように思う。私には、彼らがわからないであろうことを整理し、丁寧に教える努力を、または仕組み化して、ミスが起こりにくい方策を取る知恵がなかったのだ。
このころ難しかったのが、社長よりもNo2である私のほうが不動産に詳しく、その方面においては、危機管理能力が高いことだった。例えば、ある社員が、岡野社長に許可を取って契約書に一文を追記したとする。しかしそれはリスクのある条文なので、発見した私は、修正するよう働きかける。
そのとき、社員の感情としては「社長から許可とったのに、なんで南さんがストップかけるんだよ」という気分だっだろうし、指示系統があいまいで混乱もしただろう。
一方、私としては、指示に従ってくれない社員に対して良い感情を持たず、安易にOKを出す(ように感じた)岡野への不信感も持ってしまう・・そんな繰り返しが、組織の不協和音を生んでいた。
岡野は楽観主義者で、稟議のルールも明確でなかった。それが大らかさという魅力でもあるが、「なんとかなるっしょ」という思考回路が、悪い方に出ていた局面もあった。私もまだ岡野に対し、遠慮していた部分があり、大きくなりつつある図体に、社内ルールが追いついていない局面だった。
11月にこうだいが入社を決意してくれ、実務という意味では一息ついた。
ちなみに9月単月で個人として1,800万円以上売上げ、これはいまも破られていない記録である(自慢)。
ほどなくして、有償にて株を取得。人生でも家購入に次ぐ大きな買い物となったが、リスクをとって、夢を見る(岡野と自分自身にベットする)決意をした何も言わずに応援してくれた妻と、大事な株を譲ってくれた岡野には感謝している。
この時期、苦しみながらも、すんで社の収益基盤ができあがった。12月にベトナム出張。岡野と腹を割って話せた時間だった。
この時期、営業マンとしても一定の成果を上げ、自信もついたが、体力的な面含め、限界も感じていたのも事実である。特に会ったことのない、信頼関係が醸成できていないお客様に対する重説は感情を揺さぶられることも多く、骨が折れた。もちろん営業をしていてお客様に寄り添い、相場を知れるのも楽しかったが、夜遅くまで働いているとイライラも募り、妻との細かい諍いも絶えなかった。やはり健康と家族の安定あっての仕事である。

2024年6月〜2025年5月(5期目)
売上3.3億、社員20名
→ノリノリで拡大、大宮オフィスオープン
「黒字になったし、どんどん採用しよう。でも、社員の気持ちは・・?」

母親の体調が悪くなり(10月逝去)、営業から距離を置くことに。組織が大きくなってきたこともあり、人事周りを担当することとなった。
今振り返ると、そこそこうまくいっているベンチャー企業の経営者、という自己意識があり、岡野ともあまり話さなくなった。話さなくてもうまくいってる=カッコいいと思い込んでいたのだ。今となっては恥ずかしい限りである。
人事を担当してから、新しい壁にぶつかった。社員への要求が厳しくなり、やる気を削ぐような発言をしていたように思う。当時のスラックを読み返すと、報告遅いよ、なんで⚪︎×なんだよ、オレが仕切るから口出さないで、というニュアンスの表現が多く、これじゃ社員も居心地悪くなるのも当然だよな、と反省することしきりである。
そしてこのころ、キャッシュに余裕もでき、大量採用に踏み切っていた。悪くない人なら、まず採用しよう、選べる立場でもないし、なんとかなるっしょ、という方針で、実際選考に落ちた方もほとんどいなかった記憶がある。そんな方針のツケは、後で回ってくることになる(後述)。
メンターさんの法律上の扱いについて、改めて弁護士と顧問契約を結び、法的にも矛盾のない体制を整えた。このあたり、かずきさんが入ってくれて、やりとりがスムーズになった。
その際、ANRIさんに紹介していただき、弁護士面談を六本木ヒルズで行ったのだが、当社の見解をまとめたペーパー作成に、集中して取り組んだ。宅建業法や国交省ガイドラインを読み込み、当社のメンター制度をどのように定義づければ100%ホワイトだと言えるのか。打ち合わせを重ねた結果、弁護士のお墨付きを得て、現在の運用に至っている。
2024年5月にツバメ村上さん、かずきさんとベトナム出張。かずきさんのお兄さんは現地で会社経営をしており、刺激となる出張となった。
また、2024年1月には、自分自身が新入社員の頃(2007年〜2011年)に勤めていた日鉄日本橋ビルに東京支店をオープン。辞めた会社にテナントとして戻ってくるという、個人的に感慨深い経験となった。当時の同僚と話す機会もあるのだが、誇れている仕事ができていることが嬉しい。日本橋の街並みはすっかり変わってしまったが、縁というのは不思議なものである。当時の当社にとっては大きな出費となったが、チャレンジしたいという気持ちに、OKを出してくれた岡野にも感謝しているし、日本橋や東京イースト界隈で知り合いができたり、お客様と出会えていることもありがたい。主体的に動き、リスクを負い、チャレンジし、縁をつくる。結局のところ、人に決められるより、自分で決める人生のほうが楽しいし、やりがいもあると思っている。


2025年6月〜2026年5月(6期目)
売上10億(買取再販含む予定)
→離職者続出、人事組織刷新、日本橋新オフィスオープン
「うまくいかないやん・・。みんなの気持ちをひとつにしよう」

夏に数名の離職者が出た。
辞めていった方には申し訳なく思うが、これも試練だと思うしかない。もっとも組織はスリム化し、良い意味でヒマな時がなくなり、仕事=コトに向かう姿勢ができ、足元の業績は上がっている。
すんで社は、社員個々の成長を重んじ、自己研鑽を怠らず、社内の人間関係にかまけず、矢印を自分に向け、お客様の決断を支援する。そんな会社であり、それを明確に定義づけるきっかけとなった出来事だった。
いま思えば、よくない時期は「あのひとにこんなこと言われた」(モヤモヤ😣)みたいなことばかり社内に充満し、お客様のことを全然見ていなかった。私自身、マイクロマネジメントに陥っていたように思うし、起こった事象は、すべて私と岡野の責任である。経営というのは難しい。

これから

2025年年末、私は育休を取得している。ありがたいと思う反面、自分がいなくても会社は回っている・・むしろ順調・・という状況に、存在意義というか、複雑な感情も持っている。子どもが独立した後の親の気分というか・・。
今の私は、特に社外の人とコラボし、すんでスクール、キャリア塾、スペース、リアルイベントといった、すんで社を認知はしていて何かがあれば参加したいけど、まだそれには至っていない・・という層にアプローチしている。郊外にすんでハウスみたいな別荘をつくったり、すんで婚活で出会いをプロデュースしたり、ベトナム進出したり、したいことはいろいろある。もちろん、自分自身、大金を投じてすんで社の株を取得しているので、それを結実させる、というのも、岡野(もちろん私自身にも)には求めていきたいところである。難化しつつある宅建を取得したのは、素直にすごいと思うし、社員も巻き込み、複数の合格者を出したことも、当たり前の基準を上げるという意味で、ナイスチャレンジだった。

結びに

数字だけ見ると右肩上がりではあるが、振り返ると、辛かった思い出も多い😭 もちろん、それと同じくらい楽しかったし、成長もした。メンバーもかなり入れ替わっている。ざっくり言うと、初期は売上がない、中期は忙しい、後期は一体感がない、という整理になる。
自分自身で誇れることがあるとすれば、お客様に嘘を付かない姿勢を貫いたこと、プロとして恥ずかしくないクオリティの仕事をしてきたこと、いろいろな仕事にチャレンジし、動機はささいなものであっても新しい仕事や役割にチャレンジし、自らを変革させ続けたこと、そして、岡野を信じて支えてきたことだろう。彼はすごい才能の持ち主であり、いるだけで場を明るくさせる、太陽のような存在だ。ただ、よく言えば鷹揚、悪く言えばおおざっぱなところがあり、人に厳しく接することを、実は苦手としている。私自身も足りないところだらけだが、特徴が違う者同士が組むから楽しいし、成長する。それが組織であり、すんで社というものなのだ。


守りたいこの笑顔