120平米と、緑広がる目白の丘。少年時代に暮らしたヴィンテージマンションの思い出
ふとネットサーフィンをしていたら、かつて少年時代を過ごしたマンションが、画面に飛び込んできた。
新宿区下落合の閑静な高台に佇む「下落合シティハウス」。
1974年築、住友不動産分譲・鹿島建設施工の低層ヴィンテージマンションである。 半世紀近くの時を経てなお、色褪せるどころか深みを増したその姿を目にした瞬間、幼い頃の記憶が溢れ出してきた。
私がこのマンションに暮らしていたのは、小学1年から5年までの約5年間。
今にして思えば、あの空間と過ごした日々は、私の人生において特別な意味を持っていたように思う。


渋谷から下落合へ。人生最初の引っ越し
それまで住んでいた、渋谷区(40平米/1LDK)の家を出て下落合へと向かう日。それは6歳だった私にとって「人生はじめての引っ越し」だった。
興奮がある一方で、寂しさはボンヤリと押し寄せていた。引っ越しの手伝いに来てくれた友達、そしてその家族たちとの別れ。 「もう今までみたいに気やすく会えなくなるんだな」と、幼心に勘づいてはいて、今思い返せば、人生初めての出会いと別れだった。
後に親から聞いたところによると、当時で賃貸35万円、管理費も高かったらしく、まだ若かった父の収入では、だいぶ背伸びした住まいだったようだ。
通学路の景色と、西武ライオンズと、母のたこ焼き
25分ほどかけて、春から通い始めていた立教小学校まで歩いて通っていた。 その通学路は、懐かしさと、若干の切なさと共に、胸の奥にしまってある。
土曜日になると、内緒で少年ジャンプを打ってくれる近所のタバコ屋さん。2人目のスーパーサイヤ人(トランクス)の登場に、クラス中が色めき立った。
なかなか遮断機が上がらず、ヤキモキさせられた西武線の開かずの踏切。
当時、この開かずの踏切に散々苦しめられていた私は、すっかりアンチ西武ライオンズになっていた。
当時のライオンズは憎らしいほど強く、セリーグの覇者が挑戦しても、結局は負けてしまう。ついに因縁が晴れたのが、野村マジックが発動した1993年だ。
秋の夕方、下校途中に通りかかるコインランドリーのテレビで日本シリーズが放映されていると、足を止めて画面を見上げたものだ。
「頼む石井、頼む古田。清原を、デストラーデを、抑えてくれ……!」 心の中でそう念じながら、早足で家路を急いだのも、いい思い出だ。

目白駅前に出ていた、軽トラのタコ焼き屋も、思い出深い。行政の許可などは取っていなかっただろうが、90年代の古き良き時代のことだ。
スイミングスクールで級が上がった日、母は「よく頑張ったね」と、ご褒美に、そのタコ焼きを買ってくれた。母に褒められるのが嬉しくて、若干の誇らしい気分で、タコ焼きを頬張った記憶が、かすかに存在している。
おとめ山公園の冒険
マンションから出て、右側に徒歩1分。
「おとめ山公園」は、格好の冒険の場だった。 川(沼?)に糸を垂らし、夢中になって釣り上げたザリガニやフナ、そしてドジョウ。
威風堂々と家に持ち帰り、大切に飼っていたのだが、やがて小さな命は尽きてしまう。特にザリガニは脱皮を繰り返すうちに弱り、いつの間にか動かなくなっていた。
動かなくなったそれらを、植栽の土の部分へそっと埋め、小さな手を合わせた。 命の儚さと、死ぬということの重みを学んだのは、あのマンションの庭だったように思う。今でも彼ら彼女らは、下落合シティテラスの片隅に眠っている。

小学3年にもなると、チャリを手に入れたこともあり、行動範囲は一気に広がる。 東長崎や椎名町のあたりまで足を伸ばし、駄菓子屋や怪しげなゲーム屋を巡る日々。 「親の知らない遠くまで、自分たちの力でやってきた」という特有の冒険心は、令和の世の中にあっては体験できないのだろうか。もう少し年齢がいくと、雨に濡れたエロ本を見つけたりするのだが、それはまた別の機会に。
静寂が身に染みた、夏のロビー
少年時代の私は、自分が住むマンションの歴史や建築的な価値など知る由もなかった。 しかし、肌で感じていた「空気感」だけは覚えている。
夏の暑い日、汗だくでエントランスへ戻ってくる。 冷んやりとしたロビーのソファーに深く身体を沈め、ふうっと息を吐く。 そこに聞こえてくるのは、外の樹木から響く、蝉時雨だけ。
スマホや画面に集中力を奪われる昨今にあっては、ぜいたくな瞬間だったのだろう。
あの頃の我が家は、父と母、弟、そして私の4人家族だった。
その母は、もうこの世にはいない。弟にも私にも、新しい家族ができた。
少年時代に、数年間を過ごした家。今こうして振り返ってみても、恥ずかしいような、嬉しいような、思春期に入る前、少年時代特有の思い出が蘇ってくる。
下落合シティハウスで過ごした5年の月日は、これからも、私を支えてくれるだろう。

