ポケットよりも、温かいもの
手を繋ぐと、くすぐったい。
特に夫とは、照れくさい。
近所のスーパーで買い物をしている時でも、夫は手を繋ごうとしてくる。手繋ぎ魔と言っても差し支えない。「近所の人の目があるから」と私が拒否しても、夫は「いいじゃんいいじゃん」と繋ぐ。たとえ子どもがいようが、へっちゃら。ここぞとばかりに手を繋いでニヤニヤする。それを、カートを押しつけて阻止するのが定番だ。
手を繋がれると、心までギュッと掴まれた気になる。夫と出会ってもう20年が経つけど、手繋ぎはいまだに心がくすぐられるのだ。耳までカアッと熱くなり、心がキョロキョロしたりチョロチョロしたりする。恥ずかしがっているのがバレたくなくて、早足で歩こうとしてしまう。頭の中がキャーっとなって、10代女子のようなウブさが出てくるのだ。
脈は早くなり、手汗が滲む。夫は、そんな私の様子に気づいているのかわからない。ただ、ご機嫌になる。テンションがググッと上がって、ラジオのDJ並みによく喋ってくるのだ。まさに、立板に水。淀みがない。
一方、私はというと、「この小っ恥ずかしい時間、早く終わってくれないかな」と思っている。手を繋がれることで頭がいっぱいになってしまうから、買い物の内容を忘れそうになる。家に玉ねぎあるのに玉ねぎの大袋を買ってしまうとか、唐揚げ作るのに片栗粉を買い忘れるとか、味噌が足りないのに間違えて中華スープの素を買ってしまうなど、ありえないミスをするのだ。買い物は平常心でないと失敗する。だから、落ち着いて買い物をするためには、手を繋がずにいたい。
魚売り場に到着すると、手を解放してくれる。なぜなら、より良いお刺身を選ばなければならないからだ。パックに穴が開くんじゃないかというぐらい真剣に見比べて、渾身の一盛りを選んでくる間だけ、私は40代女性として冷静にいられる。その冷静タイムに、買う予定の豆腐や納豆をカゴに放り込む。そして、そのまま冷静に次の売り場へ行こうとすると、また手を繋がれそうになる。カートで阻止しながら肉や卵をカゴに放り込む。カートが重たくなってくるので、手を繋ぐ余裕はなくなり、仕方なさそうにカートを押している。買い物が終盤に来るにつれて、夫の手繋ぎチャレンジは回数が減る。それを内心ほっとしながら買い物を済ませるのが、わが家の買い物事情である。
では、買い物じゃなくてレジャーに行く時はどうか。家族で出かける時も、車を降りたらすぐに手を繋いでくる。「近所の人の目があるから」というと、「近所の人はどこにもいないよ」と言って満面の笑みを浮かべている。手は離さない。そこでも私は、耳が熱くなって心に10代女子が君臨する。10代の頃の自分に今の状況を笑われているような気がしてしまい、そっと手を離そうとすると、恋人繋ぎでがっしりガードされる。夫の顔を見ると、ハミングしそうなぐらい機嫌がいい。
こんなに手を繋ぎたがる夫。兆候は、付き合う前に一緒に出かけた日帰りドライブ中にもあった。
冬の京都。合コンで出会った私たちは、まだ恋人未満。はたから見たらカップルなんだろうけど、実際はこれからどうなるかわからない2人である。
駐車場に車を停め、清水坂を並んで登った。沿道に並ぶ土産物店には、修学旅行生や観光客が集まっている。清水坂は人でごった返していて、気をつけないとはぐれてしまいそうだった。彼は手を繋ごうか迷っている様子だった。というのも、ポケットから手を出したりしまったりしていたから、狙っていたのだろう。しかし私は手袋を忘れたせいで寒かったので、コートのポケットに手を突っ込んだまま歩いていた。おそらく彼は、手を繋ぐべきか逡巡している。雰囲気でわかっていたけど、それよりも寒さが厳しくて、ポケットから手を出せない私。この時ばかりは色気より寒気。京都の冬は厳しかった。彼はそれでも手繋ぎを諦めた様子はない。何とか私の手がポケットから出てくるのを待っている。
私がポケットから手を出したのは、お菓子店から試食を渡された時だった。思わず受け取り、その場で食べる。確か生八ツ橋のチョコレート味だった。いただいたあと、生八ツ橋の粉が手についたので両手で払っていたら、右手を彼に取られた。
「あ、繋いだ」
私が思ったのと同時に、後ろから声がした。振り返ると、修学旅行生が私たちの手を見てニヤニヤしている。「やっとあの2人、手を繋いだね」とキャッキャとしていた。その様子にカッと恥ずかしくなった私は、思わず彼の手を振りほどいてしまった。
今思えば、恥ずかしがらずに堂々としていればよかった。でもその時は、まだ付き合っていないのに手を繋いでしまったという恥ずかしさでいっぱいになっていた。自分のことで精一杯で、彼の気持ちまで考える余裕がなかった。
恐る恐る彼を見てみると、何事もなかったかのように私を待っている。傷ついていないかな、と、この時初めて思ったが、時すでに遅し。私が合流すると、そのまま並んで清水寺を目指した。
この日はそれ以降、手を繋がなかった。結局私は、寒さだけでなく気まずさもあってポケットから手を出せなかった。彼も、無理にしてこなかった。しかし、繋いだ時の手の温かさは忘れられなかった。
ポケットよりも、彼の手の方が温かい。
そんなことはわかっている。でも、この日の私は恥ずかしさが勝ってしまって、自分から手を繋ごうとできなかった。
男性と手を繋いだのは、彼が初めてではない。なのに、彼と手を繋ぐことに思いきれなかった。手を繋いだとき、想像以上に彼の手が優しかった。ただ温かいだけじゃない。冷えた手を芯からほぐしてくれる温かさだった。温泉のお湯のように、じわじわと温かい手。あのとき掴まれた感触だけは、なぜか今でも忘れられない。
本当は、もう一度繋ぎたいと思っていたのに、プライドが邪魔をして未遂に終わった。
家に帰ってから、やっぱり手を繋げばよかったのだろうかと後悔した。しかし、過ぎ去った時間はもう戻らない。今度会うときは、ちゃんと手を繋げるようにしようと、心に決めた。
次に彼と会ったのは、仕事帰りだった。飲みに行き、たくさん話をした。帰り道、酔いが回った勢いで手を繋いだ。今度は茶化してくる学生もいない。そのまま手を繋いで、家まで送ってもらった。別れ際に、彼がささやいた。
「もう、手を離さないでね」
それからお付き合いするようになり、堂々と手を繋いで過ごすようになった。若い頃はそれが当たり前だと思って過ごしていた。だからそんなに恥ずかしくなかった。
結婚して子どもをもうけてからは、しばらく手を繋がなかった。子どもの手を離さないことで精一杯だった。夫と手を繋ぐことまで考えが及ばなかった。それより、目の前の子どもを育てるのに必死だった。お互い子どものことを気にかけて、2人の距離は半歩遠ざかったかもしれない。
子育てがひと段落したころ。
気づくと夫がまた手を繋いでくるようになった。
しかし、年齢を重ねた今、手を繋いで歩いている夫婦はそんなにいない。たまに見かけても、おしゃれで絵になるような夫婦である。絵になる夫婦とは程遠い中年男女が手を繋いだら、何だか恥ずかしい。
なので、手を振り払おうとした。しかし、恋人繋ぎは簡単に解けない。ガッツリ掴まれた私の手は、なす術もなく繋がれたままだ。
「恥ずかしいからやめようよ」
そう言っても、夫は手を離してくれない。手を繋いだまま、近所のスーパーも繁華街も突っ切って行く。子どもが隣にいても、夫は迷いなく手を伸ばしてくる。遊覧船に揺られた日も、産直で野菜を大量買いした日も、酔っ払ってずっこけた日も、私たちはずっと手を繋いでいた。
回数を重ねても、やはり恥ずかしいものは恥ずかしい。夫の手の温かさがそうさせるのだろうか。日々の生活の中で、不意にあの温かさに触れると、恥ずかしくてどうしたらいいかわからなくなってしまうのだ。
昨日も夕方にスーパーへ出かけた。その時、近所の人がいたにも関わらず、やっぱり手を繋いできた。周りの目が気になって仕方がない私に、夫は言った。
「恥ずかしいとか関係ない。繋ぎたいから繋ぐの」
「そうは言っても、やっぱり恥ずかしいよ」
「大丈夫。そんなに周りは僕たちのことを気にかけていない」
「そうだとしても、井戸端会議のネタにされたらどうするの」
「言いたい人に言わせておけばいい」
夫は、手を繋ぐことに全く羞恥心がないようだ。手を繋ぎたいから繋ぐというシンプルな理由しかない。仕方なく私はソワソワしながら、手を引かれてスーパーを回った。
もしかしたら、私の気にしすぎかもしれない。自意識過剰と言われれば、それまでだ。でもやはり、どうしたって恥ずかしさは抜けない。しかし、夫は構わず手を繋ぎ続けるだろう。これから先、子どもが成人して家を出ることになったとしても。年金生活になって、近所を連れ立って散歩するようになったとしても。
この恥ずかしさに、慣れるのだろうか。
遠い未来のことはわからない。
でも、きっと明日も手を繋ぐだろう。
あのときと同じ温かさを、確かめるみたいに。
