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G-DRAGON、米津玄師と会社マネジメント

最初は、会社の話をするつもりなんかなかった。

G-DRAGONの作品を聴きながら、単純にこう思っただけだった。

この人の作品って、なんでこんなに他人が再現しにくいんだろう。

歌が上手い人ならいくらでもいる。曲を書ける人もいる。ラップができる人、服が格好いい人、舞台で目を引く人もいる。

でも、G-DRAGONは少し違う。

作詞、作曲、パフォーマンス、衣装、映像、人物像。それぞれを切り離せば、もっと上手い人はいるかもしれない。それなのに全部が合わさった瞬間、どうにも代替がきかなくなる。

曲調が変わっても、服装が変わっても、時代が変わっても、最後には「あ、G-DRAGONだ」と分かる。

では、これは何なのか。

私は最初、それを雑に「才能の塊」と呼んでいた。

そして、そこから米津玄師を思い出した。

米津玄師も、かなり変な人である。

作詞、作曲、編曲だけではなく、VOCALOID時代には映像やイラストまで自分で作っていた。初期の作品を見ると、一人の中に小さな制作会社が入っているように見える。

G-DRAGONとはやり方が違う。

G-DRAGONは巨大なK-Pop産業の中で、多数の人間を巻き込みながら自分の世界を作る。

米津玄師は、かなりの部分を一度自分の内部で完結させてから、必要に応じて他者との共同制作へ広げていく。

でも、二人には共通しているものがある。

できることが多い。しかも、それらがバラバラにならない。

ここで私は、少し考え方を変えた。

全能というのは、単に「何でもできる」という意味ではないのかもしれない。

何でもできる人間なら、器用な人はいくらでもいる。

もっと重要なのは、異なる能力を最後に一つの成果へまとめる力ではないか。

音楽、言葉、映像、服、演技。

それぞれを別々に上手くやるだけでは、作品は寄せ集めになる。

ところが彼らの場合、完成品を見ると継ぎ目が消えている。

G-DRAGONならG-DRAGONになる。

米津玄師なら米津玄師になる。

この「最後に一つにする力」が、もしかすると全能性の正体なのではないか。

そう考えたところで、なぜか私は次の疑問へ飛んだ。

じゃあ、音楽以外にもこういう人っているんだろうか。

たとえば、コンサル業界には?

我ながら妙な飛び方である。

でも、一度そう考えると止まらなかった。

コンサルにも「才能の塊」はいるのか

調べていくと、大前研一、稲盛和夫、野中郁次郎、竹内弘高など、複数の領域を横断してきた日本のビジネス人物が出てきた。

ここでまず面白かったのが、彼らの出発点だった。

大前研一は原子力工学。

稲盛和夫は技術者。

野中郁次郎も、最初から「世界的な経営理論を作る人」として人生を始めたわけではない。

後に名を残した領域と、若いころに学んだ専門が、そのまま一直線につながっていない。

この事実は、言語学を学んだあとITインフラの世界に入った自分には、かなり面白く見えた。

専門が変わったら、それまで学んだものは無駄になるのか。

どうも、そう単純ではないらしい。

むしろ、異なる領域を持っている人間だからこそ、既存の分野に別の見方を持ち込めることがある。

大前研一なら、技術者的な構造把握を戦略へ持ち込む。

稲盛和夫なら、技術、経営、会計、理念を一つの企業運営へまとめる。

野中郁次郎と竹内弘高なら、個人の中にある暗黙的な経験を、どう組織全体の知識へ変えるかを考える。

ここまでは、G-DRAGONや米津玄師について考えていたこととかなり似ている。

異なるものを、一つにする。

では、会社でも同じなのか。

全能型経営者とは、営業も技術も財務も人事も、全部自分でできる人なのか。

ここで、少し引っかかった。

会社は作品ではない。

芸術家と経営者では、「全能」の意味が逆になる

G-DRAGONの作品なら、G-DRAGON本人への依存が大きいほど価値になることがある。

米津玄師の曲もそうだ。

「この人にしか作れない」。

それ自体が商品の価値になる。

では会社はどうか。

もし会社のあらゆる重要な判断が、一人の天才経営者に依存していたら?

その人がいる間は強いかもしれない。

でも、規模が大きくなれば、すべての判断がその人を待つようになる。

本人がボトルネックになる。

本人が間違えば、組織全体が同じ方向に間違える。

本人がいなくなれば、判断そのものが止まる。

あれ?

ここで初めて、芸術家と経営者では「全能性」の方向が違うのではないかと思った。

優れたアーティストは、自分自身が統合装置になる。

しかし、

優れた経営者は、組織そのものを統合装置にしなければならない。

これは、私の中ではかなり大きな発見だった。

経営者本人が何でもできる必要はない。

むしろ会社全体として、

問題を発見し、

問題を定義し、

判断し、

実行し、

結果を確認し、

次に学ぶ。

この回路が動けばいい。

すると、次の疑問が出てくる。

じゃあ、人をどうやって動かすんだ?

人って、本当に「激励」できるのか

ここで私は、かなり強い違和感を持っていた。

マネジメントについて調べると、「モチベーションを上げる」「社員のエンゲージメントを高める」「使命を共有する」という話が大量に出てくる。

でも、本当にそんなに簡単なのか。

仕事に興味のない人間に、

「もっと当事者意識を持とう」

と言えば、明日から急に仕事が速くなるのだろうか。

私はあまり信じていない。

学生時代に生徒会や委員長をやった経験はある。でも、そこには本当の意味での人事権も評価権もなかった。

そして当時から、やりたい人は勝手にやるし、やりたくない人は何を言ってもやらない、という感覚がかなり強かった。

だから私の最初の発想は単純だった。

仕事に熱心がある人を集めれば、高効率なチームになる。

逆に言えば、やる気のない人間はどうしようもない。

いわば、「寝たふりをしている人を叩き起こすことはできない」。

でも、ここでさらに考えた。

本当に必要なのは、その人を目覚めさせることなのか?

別に目覚めなくてもいいのではないか。

普通の人が、普通の状態のままでも一定の結果を出せる仕組みを作ればいい。

ここでマネジメントの見え方が、かなり変わった。

人を変える問題ではなく、環境を設計する問題として考えればいい。

組織も、ある意味ではインフラである

ITインフラの言葉で考えると分かりやすい。

CPUがどれだけ高速でも、I/Oが詰まり、ネットワークが遅く、ロック競合だらけなら、システム全体は遅い。

それを見て、

「CPUにもっと責任感を持たせよう」

とは誰も言わない。

ボトルネックを探す。

構成を変える。

待ち時間を減らす。

自動化する。

では、組織も同じように考えられないか。

優秀な人を集めることは重要だ。

でも、優秀な人間さえいれば高速になる組織は、設計としてはかなり脆い。

むしろ、

誰が決めるのか。

誰が責任を持つのか。

どこまで自分で判断していいのか。

情報はどこにあるのか。

どのタイミングで相談するのか。

仕事が詰まったとき、どこで問題を表に出すのか。

そういう構造の方が、個人の精神力より再現性がある。

ここから私は、チーム運営のルールを考え始めた。

たとえば、「午前中に仕事を決める」というルール

最初に考えたのは、大げさな経営理論ではなかった。

一日の使い方である。

たとえば、

仕事の分配と見積もりは午前中に終える。

午後は、新しい仕事の分配ではなく、実行と成果の確認に使う。

もし午前中の時点で、

「この仕事に何時間かかるか分かりません」

となったらどうするか。

ずっと議論するのではなく、とりあえず少しやってみる。

翌朝になれば、

「ここまでは分かった」

「ここが難しい」

「たぶんあと二日必要」

くらいの情報は増えている。

つまり、

判断できないなら、判断材料を作るために先に少し動く。

これだけでも、午後に新しい依頼や判断が次々と飛び込んできて作業が分断される状態をかなり減らせるかもしれない。

もちろん、このルールが正しいかどうかは分からない。

実際にチームを率った経験がほとんどない人間の仮説にすぎない。

でも、私が面白いと思ったのはそこではない。

この発想には、

「みんなもっと集中しよう」

も、

「もっと責任感を持とう」

も出てこない。

人間の人格を改善しようとしていない。

仕事の流れを変えようとしている。

この違いが、だんだん重要に見えてきた。

効率がいいチームに必要なのは、たぶん少数の強いルールだ

そこから、いくつかのルールを考えるようになった。

一つの仕事には、一人のOwnerを置く。

開始前に、完了条件、期限、優先順位を決める。

責任を持たせるなら、権限と情報と時間も渡す。

分からない仕事は、小さな実験へ変える。

問題は、手遅れになる前に表へ出す。

そして、仕事が終わったら、人だけでなくルールも評価する。

予定と実績がずれたとき、

「誰が悪かった?」

だけを聞かない。

なぜ待ったのか。

どこで判断が止まったのか。

誰の承認が必要だったのか。

情報は足りていたのか。

そもそも、そのルールは必要だったのか。

こう考えると、マネジメントはだんだん「人を叱る仕事」ではなく、「組織のOSを書く仕事」に見えてくる。

ここで、あることを思い出した

会社には、「〇〇10カ条」と呼ばれる行動規範がある。

体調とか、挨拶とか、身だしなみとか、自分に責任とか、学び続けるとかがある。

最初に見たときは、「まあ、そうですね」としか思わなかった。

どれも悪いことではない。

むしろ社会人としてはかなり重要だと思う。

でも、組織設計について考えたあとにもう一度見ると、少し違って見えた。

これは、効率がいい組織を作るルールというより、組織を壊さないための行動規範ではないか、と。

笑顔で挨拶することは、人間関係の摩擦を減らす。

約束を守ることは、信頼を作る。

正直に話すことは、情報の歪みを減らす。

他人を尊重することも、助け合うことも必要である。

でも、

笑顔は、仕事の優先順位を決めてくれない。

感謝は、責任の範囲を決めてくれない。

助け合いは、誰がいつ誰を助けるべきかを決めてくれない。

学び続けるという言葉は、学習に必要な時間や予算を確保してくれない。

ここを混同してはいけないのだと思う。

よい文化は、組織の摩擦を減らす。

よいシステムは、仕事を前へ進める。

どちらも必要だ。

でも、役割が違う。

文化だけで仕事量の過多を解決することはできない。

「責任を持とう」と言うだけでは、権限不足を解決できない。

「助け合おう」と言うだけでは、人員不足は消えない。

もし仕組みの不足を、社員の責任感や善意や残業で埋め始めたら、それはかなり危険だと思う。

では、自分は会社の中で何をすればいいのか

ここまで考えて、話がようやく自分に戻ってきた。

私は言語学の修士を出て、ITインフラのエンジニアとして働き始めたばかりである。

経営者でもない。

マネージャーでもない。

まともな意味でチームを率いた経験もない。

だったら、こんな話を考えて何になるのか。

最初はそう思った。

でも、逆に言えば、今の段階からできる実験がある。

自分の技術仕事を、全部「問題解決」として捉え直すことだ。

単に、

「設定変更をしました」

「資料を作りました」

「調査しました」

で終わらせない。

何が問題だったのか。

その問題は誰に影響しているのか。

どういう選択肢があったのか。

なぜその案を選んだのか。

何を実施したのか。

結果として何が変わったのか。

次に何を改善できるのか。

この順番で考える。

そうすれば、技術をやりながら、同時に問題定義、判断、説明、価値評価の練習ができる。

いわば、日々の仕事を小さなコンサル案件として扱う。

ただし、「俺がやった」を主役にしない

ここでもう一つ問題が出てきた。

成果を数字で表現するのは、かなり強い。

応答時間が10秒から3秒になった。

作業工程が8ステップから4ステップになった。

障害検知までの時間が短くなった。

数字があれば、仕事の効果が伝わりやすい。

でも、職場で毎回、

「私はこれだけ価値を生みました」

とやっていたら、まあ、普通に鬱陶しい。

そこで考えたのが、

自分を小さくし、改善を大きく見せる

という書き方だった。

「私がシステムを高速化しました」ではなく、

「改善後、応答時間が10秒から3秒へ短縮した」。

「私の施策でチーム効率が上がりました」ではなく、

「従来発生していた待ち時間を削減でき、調査工程を短縮できた」。

主語を「私」から、

システム、

プロセス、

チーム、

顧客、

改善結果、

へ移す。

成果の意味も、自分の優秀さではなく、

チームの作業負担が減った。

顧客への回答が速くなった。

会社のリスクが減った。

次回以降も再利用できる。

という形で説明する。

要するに、

自分の存在は薄くする。でも、成果の存在は薄くしない。

これは結構大事だと思っている。

数字にできない価値は、どうするのか

もちろん、仕事の価値は全部数字にできるわけではない。

設計書を整理した。

曖昧だった責任範囲を明確にした。

次の担当者でも作業できるようにSOPを作った。

障害が起きる前に危険な条件を見つけた。

こういう仕事を「売上何円」と正確に換算するのは無理がある。

だから、成果評価も数字だけで考えない方がいい。

前後の変化。

再現性。

リスク低減。

手戻りの削減。

意思決定の速度。

知識の共有可能性。

顧客やチームの行動変化。

そういうものも成果である。

数字が必要なら、無理に「効率が37.2%向上しました」と作るのではなく、測れる部分だけ測ればいい。

たとえば、一回の作業で30秒短縮した。

一日20回やる。

5人が使う。

なら、おおよその時間削減量は計算できる。

厳密な統計ではない。

でも、仮定を明示したフェルミ推定なら、改善の大きさを考える材料にはなる。

数字は、自慢の道具ではない。

判断を助けるための道具である。

ここまで来て、最初のG-DRAGONに戻る

不思議なものである。

最初は、

「G-DRAGONってなんで他人がコピーできないんだ?」

という話だった。

そこから米津玄師へ行き、

全能型クリエイターを考え、

経営者を考え、

コンサルタントを考え、

組織設計を考え、

人は激励できるのかを疑い、

最後には、仕事のOwnerや見積もりや成果評価の話をしている。

ずいぶん遠くまで来た。

でも、自分の中では全部つながっている。

G-DRAGONや米津玄師が特殊なのは、単に能力の数が多いからではない。

何を自分でやるか。

何を他人に任せるか。

何を取り入れるか。

何を捨てるか。

どこまで変えてよくて、何だけは変えないのか。

その判断基準がある。

だから、多くの人間と仕事をしても、作品から作者が消えない。

一方、会社では、その判断基準を一人の経営者の頭の中だけに置いてはいけない。

それを、

責任範囲、

意思決定権、

会計、

情報共有、

評価方法、

業務ルール、

組織文化、

として外へ出していく。

そうしなければ、会社は一人の天才の作品で終わってしまう。

天才は、自分がいなければ生まれないものを作る

今のところ、私の結論はこうなっている。

天才的なアーティストは、自分がいなければ生まれない作品を作る。

そして、

優れたマネジメントは、自分がいなくても仕事と改善が続く仕組みを作る。

一見すると正反対である。

でも、その根には同じものがあるのかもしれない。

異なる能力を見つける。

関係を設計する。

一つの方向へまとめる。

そして、成果として外に出す。

違うのは、その統合装置をどこに置くかだ。

アーティストは、自分の中に置く。

経営者は、組織の中に置く。

では、自分はどうするのか。

まだ分からない。

私は今のところ、会社を経営したこともなければ、世界を変える作品を作ったこともない。

この文章に書いた組織ルールだって、大半は仮説である。

実際に人を率てば、簡単に壊れるものもあるだろう。

「人間を変えなくてもシステムで解決できる」と言っていた自分が、数年後には「いや、人間めちゃくちゃ重要だったわ」と言っているかもしれない。

それでもいい。

むしろ、その方がいい。

今の自分に必要なのは、完成した経営哲学を持つことではなく、仮説を持って仕事を見て、結果によって修正することだと思う。

この文章自体も、ある意味では最初のPoCである。

言語学とITインフラ。

文章と技術。

技術とビジネス。

個人の才能と組織の仕組み。

今はまだ、かなり離れて見える。

でも、G-DRAGONや米津玄師について考えたあとでは、少し見方が変わった。

能力を何個持っているかより、

それらを最後に何へまとめるか。

たぶん、問題はそこにある。

私は、才能の塊を眺めて終わるつもりはない。

自分の中にあるものは、作品へ。

仕事の中で見つけたものは、方法へ。

組織の中で有効だったものは、他人でも使えるルールへ。

そうやって少しずつ外に残していく。

G-DRAGONから始まった疑問が、なぜ会社マネジメントまで来てしまったのか。

今なら、一応説明できる。

私が最初から知りたかったのは、「才能とは何か」ではなかったのかもしれない。

異なるものをどうまとめれば、一つの強い成果になるのか。

ずっと、その話をしていたのだと思う。

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