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私と障害者との出会い

私の生い立ちは、すこし他の人達とは異なっていて、男ばかりの3人兄弟の次男なのですが、私が記憶している限り兄が大学に入学して東京にゆくまで、中学の2年生までの間、毎日毎日兄の暴力によって泣き暮らしておりました。男の子にとって、泣くという事は暴力に屈する屈辱と自尊心も含めて自分自身の内側から自我が屈して崩れ去るような苦しみで、毎日のドメスティックバイレンスの連続に、絶望的な日々を送らねばならない自分の運命を呪うしかありませんでした。ですから、私は、いじめにあって絶望の果に、ビルから飛び降り自殺してゆく子どもたちの心情がわかります。
 高校に入ってすぐ、私は、私の内部に存在している暗闇の中に威怒と名付けたもう一人の支配的で敵意に満ちた存在を感じていました。ある日の朝目覚めると「来るな」という声を聞いたような気がしました。あるいは本当に聞いたのかも知れません。それは、極めて強い拒否で、そのため私は太陽の光の下に出る事が出来ませんでした。中学生の時から時折、自分は世界から拒まれていると感じる事はありましたが、それは初めて感じる強力な拒絶でありました。それで2・3日学校へ登校することは出来なくなりました。そんな時、自宅に女の子が訪ねて来ました。そんな事は生まれて初めてのことでしたが、おそらく、担任からの依頼で様子を見てくるように言われて、見舞いに来てくれたのでした。
その女の子は、本当に心配そうで、心を砕いてくれているのが伝わってきました。なんて、優しい心の持ち主なんだろうと私は、立ち尽くしていました。これと言って、差し出してくれたのは牛乳瓶に差した1本の咲いた蓮華の花だったのを今でも昨日のように覚えています。そんな素朴な気遣いが、なんとなく心に染みて、こんないい子に心配かけてはいけないな。という思いで自責の念に駆られた。別れたあと部屋の机にその牛乳瓶を置くと、花の向こうに女の子の微笑が浮かぶ。きれいな澄んだ目をした子だなと思い出すと、温かいひなたの匂いがするようだった。明日から、何があっても外に出よう。学校に行こう。そう決意して、こうして私は、その子のお陰で不登校にならずにすみました。お前なんか来るなという威怒の声は感じては居たが私は、どうにかしてそれを乗り越えることが出来ました。ただ、自己を肯定できず、常に卑下して自分を責めていて、そして高校の3年間どんなに真冬で寒くても、学生服の下は夏の下着一枚のみ着ることしか、自分に対して許すことが出来ませんでした。暖かい服装をするなどということは、ついに高校時代許されませんでした。
そのおんなの対して子に私は恋に陥ってしまいました。ただ、付き合ってくださいとか好きだとか、言えるわけもなく、あの子の澄んだ目にお前の醜い姿を晒していいのかという内なる威怒の攻撃からは、自由になれませんでした。そんな、秘めやかな恋心は、2年生以降クラスが変わってしまって、ほとんど会えなくなってしまうと、更に極度に思いは募るばかりで、やがて、それは、彼女をモデルにした理想の神格化された女性像へと昇華していって、心理学では、ダンテの永遠の理想像であったベアトリーチェからベアトリーチェコンプレックスと名付けられていますが、そのような象徴的な存在になっていきました。
廊下の向こうから歩いてくる彼女の姿を認めると、威怒の攻撃によって、
私はすれ違うのを避けるように横道に逸れる以外に出来ませんでした。
人を好きになるということの痛みや苦しみに苛まれ続けた10代でしたが、自虐的な暗闇をさまよいながらそれでも彼女の存在は、私にとって憧れ、希望であり生きることへの光でした。ずっと彼女へ想いを寄せながら、私は10代の危機をその強い思いを依代(よりしろ)として心を凍てつかせることはなかったのです。

子供の頃から漫画が大好きでノートに様々な物語を描いて居ましたが高校時代の苦しい時代を、美大受験の為に美術部室でデッサンの訓練に没頭していました。1970年4月、M美大に入学した時は、道路の両側に重武装の機動隊が居て一人づつ真ん中を歩かされて入学式の体育館まで連行されるような状態で、周りは学生たちのデモと怒号が飛び交うような異様な雰囲気でした。全国の大学が日米安保軍事同盟批准阻止闘争で揺れ動く、政治の坩堝のような状態でした。

1971年の5月4日に津田塾大の女子寮まで、彼女訪ねました。それは、10代最後の日だったのですが、このまま彼女を引きずっていては、自分は大人になれない。という考え抜いた末の行動でした。喫茶店では、万感の思いが込み上げてきて、言葉になりませんでしたが、分かれて、彼女の後ろ姿に心のなかでお別れを呟いていました。そうして、私は私の10代と決別して、躊躇なく武装闘争に身を投じました。リンチに遭って血だらけで大学から救急車で病院に搬送されたり、相互に相手を暴力で威嚇するような日々は、呪わしい幼い頃からの家庭内暴力の地獄の記憶と重なって、私は程なくして、精神に異常を来して敵意のある組織の放った暗殺者に襲われるという幻覚に陥るようになりました。自分が自分でなくなって、存在しないものを、まざまざと体験するということの不安な不確かさに蝕まれてゆく時、私を現実にとどまらせ、支えてくれたのはその後の連れ合いでした。同じように自己の中に暗闇を持っているがゆえに、彼女は私の苦しみを深く受け止めてくれました。思えば私の10代は、自分の内的なアンビバレンツな苦しみの中にさまよってはいたが、一番平和で、自分自身に集中できた時代であったと思います。殴られることもなく、毎日自分自身を見つめて、内的な思考力を高め
られた時代であったと思います。大学時代はあの時代の若者の多くがそうで
あったように、その後の連れ合いの自殺未遂や、私の自決未遂。逮捕・留置や、機動隊との激突や内ゲバなど、悲惨なことばかり続き、私の被害妄想の発作も酷くなる一方だった。そういう時、彼女が卒業して所沢の重度重複障害児収容施設の職員になって、その紹介で知的障害児収容施設へボランティアに行きました。そこで、重度の知的障害と自閉症・重い自傷行為を持った子供と出会いました。その子は、誰にも一切目を合わせることはなく、自分の脚の瘡蓋を自分の爪で掻きむしり血を流し始めました。見る間に足に血が流れ甲を濡らしてゆくのに私は強い衝撃を受けました。幼い頃から私は、自分の頭を爪でかいて、血を流し瘡蓋をはいでは、また血を流すという癖があって、それは今でも治らなくて頭髪がなくなった今では、ときおり額に血が流れ落ちることもあるのですが、その時は、幼いその子の自傷行為の流血に、強いショックを受けました。君の中にも威怒がいるのか。自分を傷つけるのはやめろと、後ろから抱きしめるとその子は激しく抵抗してもがきました。私は動転して、どうして良いのか分からず困り果てた末、思い切ってその子を抱えあげて、肩車にしました。肩の上にその子の血だらけの両足をかけて、意図的に傾けたりすると、その子は慌てて両手で私の頭に抱きついて、結果的に手で自傷行為を行うことは出来ないのでした。
あの時、力づくで自傷行為を静止していたら、おそらくその子は二度と私に
心を開くことはなかったと思いますが、幾度か右左に傾けてあげると、子供は皆、肩車のスリリングな遊びは大好きですけど、その子も私の頭の上でケラケラと笑い始めました。自分たちと何も変わらないのだな。ということを理解した瞬間でした。お前、自分を責めて傷つけるのなんかやめて、俺ともっと楽しいことをして遊ぼう。と思った時、私は長いこと思い悩んでいた自責の念から自由になってゆく自分を感じていました。君は、なんにも悪くない、生まれてきた命に良いも悪いもなくて、君はそのままで、代えがたい価値があるのだから。という思いの中で、私はその子の閉ざされた闇の魂に、強い共感を抱いていました。そうだ。障害者と一緒に生きてゆこう。そこに、きっと、自分の存在の意味が見つかるに違いない。そう思った時、私は長いこと私を苦しめて来た超自我から自由になって、救われてゆく感覚に包まれていました。私は、障害児の存在を引き受けた時に、初めて自分を許すことが出来ました。それから50年、私は障害者と関わって生きてきました。

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