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包摂性と無関心は紙一重―『テクノロジカル・リパブリック』を読む(11)

はじめに

アレクサンダー・C・カーブ&ニコラス・W・ザミスカ『テクノロジカル・リパブリック』(村井章子訳、日本経済新聞社、2026年3月)を読む。副題は「国家、軍事力、テクノロジーの未来」とある。

著者はAIエンジニアリング会社(SaaSよりAI導入のSE会社とされる)パランティア(Palantir Technologies)の共同創業者である。ちょっと前はアメリカの軍事とAIの話題にパランティアはたびたび登場していた。最近はアンソロピック(Anthropic)やOpenAIも名前が挙がるが、もともとパランティアは米軍のシステムエンジニアリングにかかわっていたという背景がある。

考えてみれば、企業が国や軍を語ることなど10年前には考えられなかった。日本では今でも考えられない。ただ、無人化、ロボット化、AI応用については20年以上前から言われてもいたことなのだ。

そもそもシリコンバレーは民生先端技術の世界的中心地なのだが、AI発展と普及に至って国家的なことに言及するようになった、ということだろうか。

また、本書のまえがきの最後に「パランティア自体~共通の目的を持つ創造的な企業を構築する試みを続けている。行動とは、パランティアの場合はソフトウェアをはじめとする開発の成果を世界に届けることだ。そして、その理論を初めて明確な形で世に問うのが本書である」とあり、この書き方から必ずしも一般市民の視点やビッグテックと同じ考え方でもないのだろう。

つまり、パランティア自身の政治的・商業的立場を背景とした主張書、と客観的には言える。

本書は全4部、18章で構成される。今回は第2部「アメリカ的精神の空洞化」の第6章「テクノ不可知論者」を読む。


第2部6章 テクノ不可知論者 Technological Agnostics

現代人の生活を成立させる技術を開発して巨大帝国を築いたシリコンバレーの現在の経営者たちの大半は、正義の要求を「建前上は」尊重する文化の中で育ってきた。しかし、平等や権利の尊重という基本的なこと以外にも、道徳的な問題は存在する。そこにはシリコンバレーの経営者は立ち入ろうとしない。善、徳、国家といった問題に足を踏み入れることは、議論の許容範囲を超える。選択に制限を設けたり、他人の意見を排除することを避け、イデオロギーや政治的立場を表明しない。プライベートだろうがビジネスでも何でもオープンにしておくことが優先される。彼らは自分たちが築き上げたビジネスのみに帰属する。国家理念の崇拝は疑うということを教えられてきた背景を持っており、それは自由主義世界を賛美することを疑うという意味だ。(※自分たちの活動ができている段階で、自由主義世界という概念を否定することはないだろう。ただ自由主義世界である現実を肯定しているとも思えない、ということだろう。)

この考えは20世紀終盤のプリンストン大学の政治学者エイミー・ガットマンの言葉「私たちの道徳的忠誠は如何なる社会にも捧げられない」の論理がよくあてはまる、という。忠誠が捧げられるのは抽象的な「正義」という概念なのだ。

しかしこれには無理がある。テック・エリートたちはどの国の市民でもなく、財産とイノベーション創出能力があればいいと考え、選択肢をオープンにしておこうとする。それでいて敵対することをしないし、またすべてをなげうって無謀な試みに身を投じることがない。しかし、次につながる失敗をするためには、敵も無謀も必要だろう、という。

今日のアメリカに出現したテック系のエリートたちは、宇宙の創造主であり、ソフトウェアとAIが人類を救うと考えている節がある、という。そのうえで現代の重要な問題には立ち入らない。彼らは目的もなく、ただ作るのだ。

1961年、アイゼンハワーは退任演説で「軍産複合体の台頭」と「公共政策自体が科学技術エリートに乗っ取られる危険性」を警告した。しかし、今日のイノベーション時代は、ソフトウェア技術者が手当たり次第に作るものに支配されている。目的は自由だ。(※つまり、主義思想が技術エリートに乗っ取られることはないのだが、資本はそうはいかなかった。)

作るために作りたいという欲求は、純粋ではある。彼らを突き動かしているのは創造という行為そのものであって、いかなる世界観とも政治的意見とも無縁である。本質的なことは知り得ないとする点で、彼らはテクノ不可知論者と呼ぶべきだろう、と著者はいう。

※もはや著者は切り捨てているといった感じでもあるだろう。「不可知論」という思想はあり得るような気もするが、よって「何か」から逃れている感じもある。というのは、実際には巨大な権力を持つ技術を開発し世界に影響を与えているからだ。またアーレントの「悪の凡庸さ」にあるように、行為・手段を目的化するのは、実は公共的、道徳的ではないのだ。

この新種のリーダー群は何事にも中立で、不可知論の立場を取りたがり、自分自身の本物の世界観を形成する能力に乏しい。そのせいで、他人の計画や設計の道具になりやすい。シリコンバレーの人々は兵器や宗教への執着を軽蔑しているが、彼らも別のものに執着している。思想の仮面をつけた底の浅い貧弱なイデオロギーである、と著者はシリコンバレーの考え方一般に対抗する。またアメリカ精神のこうした製品化(※シリコンバレー流の創作指向の普及のことだろう)と閉鎖性は警戒すべきだ、ともいう。

シリコンバレーの人びとは、あらゆる意見を容認すべきというが、宗教の信仰みたいなものが企業の役員や一流大学の講堂で見つかろうものなら、産業革命以前の時代錯誤だとして軽蔑するのだ。イェール大学教授スティーブン・L・カーター『不信心の文化』には、アメリカ高学歴の指導者層が「宗教を真面目に信じるのは過激な狂信者のする事」と書いてあるという。

宗教を批判したのはフロイトが始まりらしく、宗教を一種の脅迫神経症と見なしたのだ。罪悪感と贖罪を意識させるものだからだ、と。エリート文化には宗教に対する行き過ぎた敵意が見受けられ、これが現行世代の信念の形成を妨げているかもしれない、と著者は考察する。

結果で決着する科学的精神というのは議論を不要にするものだ。欧米が科学を信奉し続けたことは奇跡的な(良いこと)なのだが、この科学信奉は証拠がなくても信じる知的勇気を持つことを失わせてしまったのではないかともいう。(※実際のところそのような勇気を持たないことには多くの物事は達成されないと思える。つまり、人によって実行できているが、おおむね感情や価値観の表明はしないし、そんなことも気にしていない、ということなのだろう。)

アメリカの高学歴層はアメリカの国家理念に関与せずに済ませてきており、アメリカの価値観やそのよりどころとするものに関わろうとしなかった。公的領域からの宗教の組織的排除は包摂性(インクルージョン)にとっての勝利と考えられた。だが、これは宗教だけでなく、あらゆる信念を抱く余地を奪った。国民としての価値、価値観や規範的な観念を表現する場も失われた、という。包摂性という考え方、すべてを許容することとは、何についても信念を持たないということになっているのではないか、という指摘である。

※包摂性は、多様な価値観の承認こそが新たな道徳的合意形成の基盤になるという観点で、独裁や偏見を排除することなので、「包摂性」がすなわち悪いことというのではない。ここでは包摂性という概念が実際には価値観や規範を失わせているという著者の指摘である。

あらゆる文化的価値観は尊重すべきであるという立場から、いまでは文化の如何なる面も批判することができなくなった。「あらゆる信念が正しいとすれば、善悪を判断する上位の道徳的立場もない。……。ポストモダニズム自体の認識論的基礎も存在しない」と、政治哲学者フランシス・フクヤマの言葉を引用する。

国家への信頼を一掃しようとする戦後の動きは行き過ぎであって、結果としてアメリカ社会は脆弱化した、というのが著者の見方である。(世の中一般において)あらゆる信念に対する攻撃が進行する中、多くのアメリカ人は態度を決めかねている、という。他のことを信じているわけでもなく、単に問題に参加することに疑心暗鬼になっているだけだ。それは、あらゆる考えを監視し、常に勝敗が付かないようにするという態度となる。


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