アイデンティティと線引きの微妙な関係―『テクノロジカル・リパブリック』を読む(13)
はじめに
アレクサンダー・C・カーブ&ニコラス・W・ザミスカ『テクノロジカル・リパブリック』(村井章子訳、日本経済新聞社、2026年3月)を読む。副題は「国家、軍事力、テクノロジーの未来」とある。
著者はAIエンジニアリング会社(SaaSよりAI導入のSE会社とされる)パランティア(Palantir)・テクノロジーズの共同創業者である。ちょっと前はアメリカの軍事とAIの話題にパランティアはたびたび登場していた。最近はアンソロピック(Anthropic)やOpenAIも名前が挙がるが、もともとパランティアは米軍のシステムエンジニアリングにかかわっていたという背景がある。
考えてみれば、企業が国や軍を語ることなど10年前には考えられなかった。日本では今でも考えられない。ただ、無人化、ロボット化、AI応用については20年以上前から言われてもいたことなのだ。
そもそもシリコンバレーは民生先端技術の世界的中心地なのだが、AI発展と普及に至って国家的なことに言及するようになった、ということだろうか。
また、本書のまえがきの最後に「パランティア自体~共通の目的を持つ創造的な企業を構築する試みを続けている。行動とは、パランティアの場合はソフトウェアをはじめとする開発の成果を世界に届けることだ。そして、その理論を初めて明確な形で世に問うのが本書である」とあり、この書き方から必ずしも一般市民の視点やビッグテックと同じ考え方でもないのだろう。
つまり、パランティア自身の政治的・商業的立場を背景とした主張書、と客観的には言える。
本書は全4部、18章で構成される。今回は第2部「アメリカ的精神の空洞化」の第6章「テクノ不可知論者」を、前回の続きから読む。
第2部6章 テクノ不可知論者 Technological Agnostics(続き2)
現在のテック企業の(軍事や政府、国家などに対する)沈黙は、誰かを怒らせたくないとか、自分や周囲の人間に誤りを犯させたくないといった気持ちの表れと解釈できる、と著者は言う。つまり、警戒しているのだ。どこに誰がいて聞き耳を立てているかもわからない、という心理になっている、という見方だ。
このことは、市民的には、監視国家が出現したり、シリコンバレーのビッグテックが新しい仕掛けを発明して、プライバシーや私的な瞬間までも奪われるという感覚にも肯定的になるだろう。
問題はこれを可能とする技術なのではない(※もう個別の道具はあるだろう)。問題は私たち(アメリカ社会)自身だ、という。信念を持ち、大胆な行動を取ることができないようになっている。誰かが違反や過ちを犯したと感じたらすぐさま激しく攻撃し、規範からわずかに逸脱しただけで、すかさず互いに糾弾するといった文化は、前へ進む力を萎縮させるだけである。
教育者、政治家、経営者は権利の主張には熱心であったが、善悪や徳について真剣に議論してこなかった結果として、倫理の空白地帯が生まれ、右派左派を問わず扇動家の入り込む余地ができた。
善悪について議論したがらないのは、あらゆる価値観を調和させたいと考えるからだろう。
※包摂性のせいで倫理が語られない、というロジックになってしまっているが、これは本当なのだろうか。差別をしないためには、そのような言動が必要と思われる。無言では差別が進むだけだと思えるが。
だが、すべてに寛容であることは、結局のところ何も信じないのと同じである。現代の言論は人畜無害を旨としており、ゆるぎない正義の信奉が常に優勢ではあるものの、何が善かということになるとひどく用心深い。(シリコンバレーの会社としては、)大衆を怒らせたくない、阻害したくない、拒絶されるリスクを犯したくないという姿勢の表れにほかならない。
※ここにおいて、若干だが、状況が見えてくる。どうも、シリコンバレーの会社と大衆の間には、ほぼ確定的な格差があるということだろう。ここで、会社の方が倫理的に積極的な姿勢を見せれば、大衆からの総攻撃を食らうことになる、と解釈すればよいのだろうか。そのことを、シリコンバレーの会社は「包摂性」という言葉を使っているようだ。
善き生活についての倫理的判断も、美についての審美的判断も、今日では多くの人が避けている、という。規範的な主張を嫌うポストモダン的傾向は、真理について記述的主張をする社会としての能力をも蝕んでいる。
歴史家のモリス・バーマン『アメリカ文化の黄昏』には、次のように言われる。学術的に行われた客観的調査とされるものが客観的でなかった場合には、脱構築主義は正しい。この立場を極限まで推し進めて、真理の探究を放棄し、真理の存在自体を疑い、歴史や知的伝統さえも否定する場合には問題が生じる、と。意見を持つことがなくなってしまうことが危険なのだという。
目立った、センセーショナルな政治家の言動に魅了されてしまうのは危険なのだ。政治家に対して抵抗せず、アメリカ的精神の空洞化に抵抗していないのは大衆自体なのだ。今日重要なのは、国家とは何か、国民とは何かについて知的議論を続ける良識ある姿勢を公に認めることである、と説く。
この議論は1世紀前に始まっている。包摂的なアイデンティティと帰属意識を求め、自由主義世界をオープンにして理想を追求するすべての人が(この思想、もしくはアメリカに)流入できるようにする、という議論だ。
この崇高な議論は、時を経るにつれ、集合的アイデンティティ自体を拒絶する結果に行きついてしまった、というのが著者の見方だ。この拒絶は広く政治思想や共同体への帰属意識の拒絶につながる。共同体への帰属を拒絶した現代人は、進む方向が定まらなくなっている。
第2部7章 糸の切れた凧 A Balloon Cut Loose
1976年12月、フレドリック・L・シェイエットはアメリカ歴史学会で、学部必修の西洋文明の講座を打ち切る提案をした。第二次世界大戦以降、西洋文明概論の要否については議論されてきたのだった。
問われたのは、アメリカの大学学部生が西洋文明について学ぶべきか、ということである。これは古代ギリシャ・ローマからヨーロッパ各国の誕生と変遷、アメリカの新しい共和制までの歴史である。さらに根本的には、西洋文明という概念自体が、教育的文脈において重視される一貫性を持つのか、ということでもある。
西洋文明概論が必修から姿を消したことは、シリコンバレーの技術者にとって、今日の究極の根本原因を暗示しているように思えてならない、と著者はいうのだ。大学に通える幸運な学生に、もっと金持ちにする以外に、教育する目的はないのか、ということだ。今後シリコンバレーを担い、コンピュータ革命を推進することになる世代は、国家や自由主義世界の価値の再評価が行われていた時期に成年になったのであった。
伝統主義者は西洋文明を必修科目にすべきだとした。アメリカは共通の歴史的遺産やアメリカ人のアイデンティティをエリート層に根付かせる必要があるという理由である。歴史学者ウィリアム・マクニールは「共通の市民意識、理性をよりどころにする社会への参画、能力主義的なキャリア形成への信頼、将来的な真理の追求と改善への信奉」を養成するとした。ナショナルアイデンティティを作るという一種の民間宗教である。
西洋文明の講座に反対する学者の筆頭はシェイエットであった。西洋文明概論というのは壮大な虚構であって、排他的で不完全なものである、とした。哲学者クワメ・アンソニー・アッピアは、西洋文明は、根本的には個人主義、民主主義、自由主義、寛容、進歩主義、合理主義、科学を志向するという結論に向けて、反証を無視して物語を盛り上げてきたのだ、と主張した。
※著者は、国民はアイデンティティを持つこと(国家・軍事に協力的であること)という考えを持っているのだろうから、西洋文明という物語化を良しとしないだろう。ただ、物語を強化すれば、包摂性は崩れるだろう。一方で、包摂性という無関心状態は良くないだろう。著者の考えはともかく、このあたりを突っ込んでいる点は本書の面白いところと言える。
この流れから、「西洋」はどこに存在しているのかということが議論の対象になった。サミュエル・ハンチントンが1993年に世界を7つか8つの文明に分類した。ヨーロッパにおいては1500年ころに示された西方教会の限界線(東方教会およびイスラム教との境界)がある。単純すぎると批判されたが、多くの規範的な議論がそのような区分で行われていたのだ。
国民の利害や、国家の果たすべき役割を論ずることは文化の境界を扱わざるを得なくなる。終身在職権を狙う研究者は、こうした問題に手を出せなくなった、という。
【人文・産業データ構造】禅や製造現場、料理など、散在する情報を横断的なオントロジーで知識化し、システムやライブラリで提供。属人的なノウハウを共有可能なコンテンツに変え、生産性と心の健やかさを両立する創作・生産の新たな知流通を実装で支援します。
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