『平和』の意味は一つなのか?―『テクノロジカル・リパブリック』を読む(8)
はじめに
アレクサンダー・C・カーブ&ニコラス・W・ザミスカ『テクノロジカル・リパブリック』(村井章子訳、日本経済新聞出版、2026年3月)を読む。副題は「国家、軍事力、テクノロジーの未来」とある。
著者はAIエンジニアリング会社(SaaS企業というよりAI導入を担うSE企業とされる)パランティア(Palantir Technologies)の共同創業者である。少し前までは、アメリカの軍事とAIの話題でパランティアはたびたび登場していた。最近はアンソロピック(Anthropic)やOpenAIも名前が挙がるが、もともとパランティアは米軍のシステムエンジニアリングにかかわっていたという背景がある。
考えてみれば、企業が国や軍を語ることなど10年前には考えられなかった。日本では今でも考えられない。ただ、無人化、ロボット化、AI応用については20年以上前から語られていたことでもある。
そもそもシリコンバレーは民生先端技術の世界的中心地なのだが、AIの発展と普及に至って国家的な問題にも言及するようになった、ということだろうか。
また、本書のまえがきの最後に「パランティア自体〜共通の目的を持つ創造的な企業を構築する試みを続けている。行動とは、パランティアの場合はソフトウェアをはじめとする開発の成果を世界に届けることだ。そして、その理論を初めて明確な形で世に問うのが本書である」とあり、この書き方からすると、必ずしも一般市民の視点やビッグテックと同じ考え方でもないのだろう。
つまり、パランティア自身の政治的・商業的立場を背景とした主張書だと、客観的には言える。
本書は全4部、18章で構成される。今回は第一部「ソフトウェアの世紀」の第4章「核の時代の終わり」の、前回の続きから読む。
第4章 核の時代の終わり End of the Atomic Age(続き2)
こちらの軍用AI開発の有無にかかわらず、敵対する国々が軍用AI開発を推進することは確実である。(※アメリカ以外でAIを「作れる」という意味なら、中国以外は想定しにくいのだが。)
習近平は共産党幹部の息子として生まれたが、父親が失脚し、15歳で陝西省に移り、20代前半まで農業をして生活した。習近平は貧しい生活をベースにしてきたといえる。また姉がいたが、毛沢東による文化大革命の迫害の中で死亡している。
文化大革命を生き延びた習近平と同世代の人びとの多くは、「中国は立憲政治と法の支配を確立すべき」と考えた。だが習近平は「必要なのはリヴァイアサンだ」と主張したという話もある。(※旧約聖書の海の怪物、新約聖書の悪魔などだが、ホッブズの『リヴァイアサン』、つまり巨大な社会の統治体のことか?)そして、習近平はハードパワーの「増強」が欠かせないと考えており、また自由主義世界の指導者たちがそのことを忘れているのを習近平はよく知っている、と著者は指摘する。
アメリカの外交政策担当者は、中国やロシアといった国との交渉に臨む際、たびたび計算違いをしてきた。グローバルな経済的つながりが権威主義を弱め、武力行使への関心を失わせると信じていた。しかし、どれほど望んだところで「自然で自由な世界秩序」などというものは存在しない。誰かから強制されない限りルールなどないも同然であり、権威主義体制は自由主義世界の政治指導者が理解できないような方法で権力を行使・維持している。権威主義体制が自分たちのやり方を改めるなどと期待してはならないというのだ。
一方、西側の制度は、そもそも初めから成熟した形で出現したのではない。何世紀もかけて進化してきたのだ。(※啓蒙思想からの革命という意味ではなく、マルクス主義が成立した後も、さらに変化してきたという意味だろう。)
だから私たちは、敵対国の指導者たちの心理や世界観を知ろうとする関心を失ってはならない、と著者は説く。そして逆に、習近平自身もアメリカを訪れ、「自分の国とは異なる文化と文明を深く理解しようと努力することは大切だ」と講演で述べたことを示す。
※この話の流れは、中国を敵対国と見なしてしまったがゆえの疑いがあり、習近平のものの見方が、アメリカを調査しているような印象になってしまっていないだろうか。しかし、習近平は講演で語っているのであり、それ自体は友好的なものだと思える。
※西側の制度の進化が、政治指導者の心理や世界観を知ることで促されるかどうかは不明であろう。もちろん、現代の大きな集団の実効的な意見・見方、行動パターンについての一つの参考にはなるだろう。軍事的には極めて重要な情報なのかもしれない。とはいえ、指導者に注目するあまり、振り回されてしまっても良くないのではなかろうか。
アメリカと同盟国が効果的かつ自律的な兵器システムの開発に消極的なのは、武力そのものと武力支配に対する疑念に根ざしていると考えられる、という。平和主義的には武力放棄に本能的な共感がある。しかし、世界を支配する側とされる側、抑圧する側とされる側に二分しようとする安易な衝動に駆られてはならない、というのだった。
「倫理的二元論」は権力批判に使われ、そこには「力を持たないこと」を「高潔で無垢で善」と機械的に考えてしまう傾向がある。実際には、虐げられた側にも虐げる側にも、重罪を犯す可能性は平等にあると説くのだ。文明の水準が高いから虐げるというものではないのだ。
※この論理はおかしい。相手に対して、「あなたもどうせ悪いことをやっているのだろう。だから私があなたに悪いことをやるのは正しい」と言っているようなものだ。基本的に、「虐げている者」は「虐げられている者」に悪をなしていることになるだろう。倫理的には「当事者がどう思っているか」で評価するようになっているが、実際には頭数の多い方が「力を持って」しまう。
※もしかすると、戦闘で負けた側は、そもそも現地で人々に悪逆非道なことをしている、ということを言っているだけかもしれない。それは、現地の無法者を正義の軍隊が処理する話になる。ここのところは話が見通しづらい。
※なお、このあたりの話を、日常的なマウントの取り合いのような話と混同してはいけないだろう。もちろん、日常に差別はあるのだから、切り分けは難しいところもある。
著者は「抑圧される側は善だとする善悪観は深く根付いており、払拭するのは容易ではない」とし、教育学者パウロ・フレイレ『被抑圧者の教育学』を参照する。フレイレは、世界で抑圧されているのは底辺層であり、基本的には抑圧はおろか暴力を振るう能力すら持ち合わせていない、という。持たざる者は道徳的行為者として無力だというのだ。
これに対して著者は、無力とされる人々を一括りにして同一視するような単純化した主張は、彼らから道徳的行為者性を奪い、ひいては人間としての主体性を奪うという意図せぬ結果を招きかねない、と反論する。(※主体的であることは善であろうから、抑圧されていれば善である、というのはおかしいというのはわかる。しかし、抑圧することが悪であることは変わらない。)
平和主義を標榜し、軍事力増強による戦争抑止から手を引いてしまえば、世界が突きつける困難な議論から逃れることができる。しかし、いま自由主義世界が直面する難問は、AI兵器開発そのものではなく、誰がどのような目的で開発するか、ということだ。
開発できる最高の能力をもつ技術者たちは、現在、社会的な問題を一切拒絶することに安らぎを見出しているという。(※敵対国は、AI兵器開発に優れた人材を充てていると想定しているのだろう。)シリコンバレーだけでなく、アメリカを行き詰まらせているのは、アメリカ的精神の空洞化だ。アメリカの国家事業を空疎にするこの空洞化が、自由主義世界を脆弱化させ危険にさらしている、と主張するのであった。
※軍事や軍隊が動く話を、倫理という観点で論じると話がかみ合わなくなるという印象を受けた。そのうえで、平和主義だからといって軍や抑止力が不要だとか、軍事力の増強は不要とするのは違う、というのが、著者が本質的に言いたいことなのではないだろうか。
※また平和主義には、武力行使がもたらす不可逆的な被害への懸念や、軍拡競争の自己強化的なエスカレーションへの懸念など、バランスを取る機能として必要とされる側面があり、それを否定してよいものではない。
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