人生で一番おいしかったリンゴは、長野・佐久の、消えかけている畑にあった。
人生で一番おいしかったリンゴを、はっきり覚えている。
長野県・佐久市。あるリンゴ農家を訪ねた帰りに、「持っていきなよ」と袋に入れてもらった一個だ。その場でかじったわけではない。後で食べて、思わず手が止まった。蜜が芯の周りにたっぷり詰まっていて、甘さが舌に残る。それまで「リンゴはリンゴだろう」と思っていた自分が、少し恥ずかしくなるくらいの味だった。
スーパーで同じ品種を買っても、たぶん、あの一個には届かない。
そのリンゴと出会ったのは、観光や旅の仕事ではない。農業の現場に通っていた時期のことだ。
当時の自分は、農業ビジネスに関わる仕事をしていた。大手企業が農業に参入するのを手伝ったり、リンゴ農家やぶどう農家を回って課題を聞いたり、トマトやピーマンの農家の経営をどう立て直すかを一緒に考えたり。新しいサービスの試作品を持っていって、現場で使ってもらってダメ出しをもらう、そんな仕事だった。
要するに、畑に足を運んで、生産者の話を聞き続けた数年間だ。
その中で食べた、佐久のリンゴ。味が忘れられないのは、たぶん味だけの問題ではない。それを作っている人の顔と、畑の景色と、苦労話を、全部セットで覚えているからだ。
現場に通って、はっきり見えてきたことがある。
おいしいものを作っている産地ほど、担い手がいない。
佐久のリンゴ農家も、佐賀で出会ったレンコン農家も、技術はすごい。でも、次にそれを継ぐ人がいない。生産者は年々減っていく。日本中どこでも聞く話だが、現場で当事者の口から聞くと、重さが違った。
特に印象に残っているのは、山あいの農地の話だ。平地と違って、機械を入れて一気に効率化する、という戦い方ができない。土地が狭く、斜めで、まとまっていない。だから「規模を大きくして儲ける」という、ビジネスの教科書どおりの答えが、そもそも使えない。
そこで多くの農家がたどり着くのが、専業ではなく兼業だった。農業一本で食べていくのではなく、別の仕事を持ちながら、それでも畑を手放さずに続ける。「どうやって農業で稼ぐか」ではなく、「どうやって農業を続けられる人生を組み立てるか」を、みんな模索していた。
土地が変われば、抱えている課題も変わる。これは、ヒアリングシートをいくら眺めていても分からない。実際にその土地に立って、その人の話を聞かないと、肌でわからないことだった。
佐賀で出会ったレンコン農家のことも、書いておきたい。
その人は、レンコンを作って売るだけの人ではなかった。「もっと多くの人に、農業そのものに関心を持ってほしい」と言って、自分の本業の合間に、人を畑に呼ぶような取り組みを次々とやっていた。
生産者が減っていく時代に、自分の代の収穫だけを考えるのではなく、その先の担い手を増やそうとしている。畑の外に向かって手を伸ばしている人だった。あの背中は、今でも自分の中に残っている。
なぜ、こんな昔の畑の話を書いているのか。
今、まちーくという小さな会社で、地域の食べものを選んで届ける仕事をしている。そのときの選び方の基準が、あの数年間で固まったからだ。
まちーくには、ひとつだけ譲らないルールがある。知らないものは、売らない。
カタログを眺めて、数字を見て、「これは売れそうだ」で仕入れることはしない。誰が、どんな土地で、どんな顔をして作っているのか。それが見えないものは、扱わない。手間はかかるし、品ぞろえは増えにくい。それでも、この順番だけは崩さないと決めている。
理由は、佐久のリンゴが教えてくれた。
人は、味だけを食べているのではない。**その背景にある人と土地ごと、味わっている。**作り手の顔が見えた瞬間に、同じ一個のリンゴが、まったく違う食べものに変わる。あの体験を一度してしまうと、顔の見えないものを「おいしいですよ」と他人に勧めることが、どうしてもできなくなった。
中山間地の畑は、たぶん今日も、誰かが続けるかどうかの瀬戸際にある。
その全部を救うことは、自分のような小さな会社にはできない。けれど、「おいしい」と「作っている人がいる」を、セットで誰かに手渡すことならできる。それを受け取った人が、産地の名前をひとつ覚えてくれて、いつか旅先で「あ、ここか」と思い出してくれたら——畑を続ける理由が、ほんの少しだけ増える。
食べることは、いちばん身近な、産地への応援だ。
次にリンゴを選ぶとき、値段と品種の隣に、「これは誰が、どんな畑で作ったんだろう」と一度だけ想像してみてほしい。それだけで、同じ一個が、少し違う味になるはずだ。
自分は、あの佐久の一個から、まだその先を歩いている。
まちーくが「知っているものだけ」を選んで届ける理由は、プロフィールリンクから。
