DEATH STRANDINGをMGS2と哲学で解説!日本における人気の理由!
どうも百田尚樹のDEEPどす。
DEATH STRANDINGシリーズについて基礎的解説をしておく。
小島作品はゲームとは何かということから考えてゲームデザインを物語に連動させる癖がある。
このメタ構成は須田ゲーにも当てはまるが、
さて、MGS2との対比で捉えるのが一番楽なのでそうする。
MGS2は小島監督がゲームの本質とは何かを表現した作品といえる。したがってMGS2の理解がデスストを読み解く上での羅針盤となる。
MGS2の要諦はこうだ。
ゲームとはシミュレーション。
シミュレーションとは文明技術一般、すなわち舗装された道路、家などの建造物、冷暖房といったもの。
ゲーム(シミュレーション)とは戦争(競争、闘争、VR訓練)。
シミュレーションとは不確定要素を排除すること。
したがってこうなる。
MGS2
ステージ全てが人工物、自然がない。全てがシミュレートされている。ファクターにないものを排除しようとする。敵を倒す。
DEATH STRANDINGシリーズ
大自然中心。シミュレートされないむき出しの地表。ゲームが排除してきたノイズそのものをゲーム性の中心に組み込む。敵をあまり倒さない宅配。
まとめよう。
人工物→自然
不確定要素の排除→不確定要素のゲーム化
敵を倒す→配達
左項は全て、既存のゲームの本質(問題)をなす。
少なくとも小島監督はこのように考えているという読解余地がある。
右項は既存のゲームがゲームであるということのために排除してきたノイズに相当する。
デススト2では移動がテーマとなるが、小島監督は明確にゲーム概念を移動している。
念のため補足する。
ゲームがシミュレーションとは、ゲームクリエイターはプレイヤーがどのステージ(マップ)でどのような行為をとるか、予めシミュレートすることでゲームをつくっている。
またゲームプレーの快楽も現実にあるノイズ(無駄、遅延、不確定要素、身体性)がないことによる。
不確定要素、非自己の闖入を排斥して安定することが文明社会であり、その本質はシミュレーションすなわちゲームなのだ。
そしてそれは予期し、計画した通りにキャラクターを操作することに通底。
そのコントロール(シミュレート)の快楽において競争(闘争)があることが示される。
あらゆる現実の不確定要素、遅延やストレス、身体性(汗や痛み、疲れ)を排除して快楽に短絡するシステム。
それが既存のゲーム(文明社会)の本質。
それはアスファルトで舗装された道路と自然の大地の違いにもっとも典型的だ。
舗装された道路を歩いて目的地に行くとは、移動のゲーム化と変わらない。
躓く起伏もない、予定どおりのフラットな地面、こける心配もなくコンスタントに目的地に到着できる。シミュレート通りになる現実のシミュレート化こそが舗装された道路をしくこと。
それは思考と存在を一致させる理念であり弁証法。ここにヘーゲルの暴力がある。
このような現実からの不確定要素の排除がゲームの快楽そのものをなす。
そこで監督は自然の大地(非シミュレート)をシミュレーター(ゲーム)に呼び寄せる。
予期できない横転、バランスの喪失、身体の側の予期せぬとっさの反応、からの経路選択の修正、予定の変更。
こうしたことが生じる。
これらはゲーム的な目的達成をなす上での欲望の構成回路が既存のゲームから大きく移動されていることを示す。
ゲームをめぐる快楽の回路、報酬系を組み替えている。
ゲーム(欲望、社会)がゲームであるためにこそ排除してきたものをゲーム性の中心におくこと、それがデスストの狙いであり、これはそのままゲームへの問題提起をなしたMGS2に対するアンサーという構図をとる。
さて、フロイトは死の欲動を指摘する。
まず内外の触発があり興奮がおこり不快をなし、その低減欲求が生じて、不確定要素の排除行為が起こるという。
これがフロイトの描く生理学的な心的セリー。これはヘーゲルの同一、否定、区別、矛盾、廃棄の欲求-欲望モデルと対応する。
いずれにせよ、不快な不確定要素を排除して原初的安定に回帰すること、すなわち死へ向かうことが生の本質とされているのが分かる。
したがってゲームとは、あらゆる遅延を排除する快楽、短絡回路の設定にある。それは死に向かうことにほからない、そのように描写されている。
絶滅へ向かうこと、その絶滅への経路を遅延すること。このとき自己遅延を排除するゲームから遅延をつくりだすゲームへとゲームを移動している。
絶滅を迂回し遅延し続ける経路を構成すること。
本作が死と絶滅を主題とするのもこのあたりに狙いがあるかもしれない。
ようするにゲームにおけるロードは短く、というのもそうで、
また、ふつうのゲームではキャラは息切れもしないし地形も予期可能なプレーヤーに所有される機能(弾よけなど)としてシミュレートされている。
このとき人間は意識を誕生する遅延を排除している。
意識とは自他の区別による。
そして区別とは、待つこと、すなわち時間の生成においてある。
まず人は待つことなしに時間を意識することなどできず、時間なしには自己も意識されえない。
エロス的予期-不安なくして、自他の区別なしといってよい。
たとえば、カップ麺を待つとき、食べる行為はお預けされる。
このおあずけ、すなわち思考と存在との差違としての遅延が、
予期による欲望のノイズに耐えるという待ちが、
自身の欲求を自身に意識させる自己差違(対象化)を構成し自他を分節する。
対象のエロス性と内的衝動とによって意識される待つこと、差違、遅延、この自己条件は抹消することを幻想してしまう不可能なプロジェクトを欲望(弁証法)と呼ぶ。
遅延(ノイズ)のない世界には自己も他者もない。
したがってゲーム(文明、社会)は本質的に死に向かっていゆくものといってよい。
したがって、デスストは欲望主体に不可欠の遅延をこそゲーム性に組み込むわけだ。
むしろ遅延を欠如ではなくポジに楽しむこと、したがって欲望から他なる享楽へ、という後期ラカンのテーゼをなす。
これは排除されたものの組み込み、意味するものの側を中心にすることを意味する。
後期ラカン的、フーコー的といえる。日本人でいえばデスストは竹田青嗣より山本哲士に近いだろう。
さて、
重要なのはデスストは道路を建築するゲームでもあること。
もしたんに人工物VS自然として、
MGS2的な舗装道路建築(シミュレーション)がなかったならどうなるか?たんに国道へのアンチとしての自然のゲームならば何が起きるか?
その場合、デスストシリーズはハイデガーの頽落論ないしは、スケプシス主義のアタラクシア思想に等しいだろう。
一挙に東浩紀の幼稚なエセ哲学擬きまで劣化する。
東浩紀はビジネスに哲学は役立たない。役立つということの質がビジネスとは違うとほざき狂うことで、ビジネスを実定化するのだった。
あからさまな哲学のハイデガー化だが、これと全く同じことになる。
自然はゲームのアンチではない。
アンチ的でもあるが、そもそも道路は自然なしには産まれない。
この点はスコアリングやいいね!といった経済合理化の統治技芸が実装されている点にもいえる。近代国家を実定化するのではない、ハイデガーではない。
言表を出来事化し、異なる実定性、規則性へと移動しているのだ。
また、いうまでもないがデスストの道路は劣化するのでメンテナンスが欠かせない。これはあからさまな農耕のメタファーであり、日本人にとっては田んぼや畑のことに他ならない。
農地は手入れなしにはすぐに雑草まみれで風化してしまう。あらゆる近代文明の起源は農耕(カルチャー、文化)にその起源をもつ。
道が人を繋ぐということを、農耕が集住と都市をなすということに接続している。
彼岸、他界が構成されたのは農耕による定住化のためだという。
定住により日常的な農地と大自然の他界とに分離したわけだが、最初の、あるいは二番目の生死の分離は農耕によるのだった。
この点であまりに外傷的なゲームだともいえる。アレーテイアではないが、文明によって隠された文明自身の本質を剥き出しにしている。
ハイデガーではないが忘却したものを取り戻している。
ともあれ、自閉症のサムは移動主体ではない。
自閉症はそもそも非主体であり、主体のタームを解体しうる。
アスペルガーの言説編制は主体のタームだが、主体の解体を構成してもいる。
経路が分散しているということ。
というより本作では、主体化(道路空間)と主体なき述語行為(自然の場所)の連動の次元が示されている。国家と国家以前が重なっている。
MGS2では空間だったものは、デスストでは場所として構成されているともいえる。
まとめると目的とその達成を反復する快楽をなすゲームにおいて、
その目的と達成の経路を組み換えて、快楽系に遅延を構成することで人間の欲望システムを社会空間編制(シミュレーション回路)から異なるレベルへと移動することがなされている。
エディプスコンプレックスを中心としたヘーゲル的、フロイト的なmgs2から、
全く異なるフーコーチックなデスストへと移動している。
と、このように読むと作家主義的、弁証法的な読解となるのだが。
我々の関心としては、シミュレーションとは無機的な知(数値化)ではなく、競争関係を内在する、という洞察が潜在している点が肝要だろう。
この点はフーコーの理解が必須となるが、規律規範化が競争(序列化)と空間構成をなすということ。
ともあれ欲望の回路を組み換えるとは、権力関係、自己関係、道徳、時間構成、空間性を組み換えるのと同義。
そこで移動主体の解体に近い水準が描かれている。
このように、これまでゲームがゲームであるゆえに排除してきた非自己の闖入と分散する諸行為を中心とするゲームデザイン(欲望-快楽システム)は、
サム(サムワン)が複数形の主体(非主体)として、つまりポリフォニー化されることとも連動していると読むこともできる。
以上が人文学的に教科書通りの普通の解説になる。
次に日本におけるデススト流行の構造を解説しよう。
まず我が国は疫学的にみて世界一の発達障害帝国とされる。
頭抜けて発達障害人口および非定型発達人口がでかい。
じつはこのことと国内におけるデススト流行とには密接な関連があると思う。
ところで奇しくもデスストの主人公サムは自閉症(発達障害)的であった。
ともあれ国内のアスペルガータイプの発達障害についてのもっとも普遍的な定義は統覚の規制の絶対化(自己同一性の逆説的解体)にある。
言い換えればそのつどの存在者の存在す、が自己同一性であり自己性に完全従属して非自己域を持たない障害といえる。
つまり他者を構成しない。
なおこの定義は科学的点から厳密にいって自然主義的、生物学的、脳解剖学的定義より高い直接性をもつ。
というのも意味や価値、心の位相での物質からの規定は全て二次的規定にならざるえないからだ。
存在体制の障害とみなすこの規定は一次的規定をなすため科学的により優位である。
さて、この場合、デスストは我が国において、どのように消費されるだろうか?
答えはあまりに簡単。
自己性に存在が隷属するということは、そのゲームの体験流(存在す)の全てがデスストという対象ノエマの言語的意味(権威)がもつ同一性によって、予め規定される。
ようするに、ラーメンが好きな人は賢いということが統計的に権威付けられたときは、ラーメンの味など度外視でラーメン好きになり、ラーメンを好きだとバカというレッテルが権威付けられたらラーメンを不味いと感じだすということ。
そう、まさに日本人の生来的な特徴そのもの。
なおこの特徴は僕の知り合いの発達障害の人にも物凄くよく当てはまる。
もう少し科学的に話そう。
有名な実験心理学の実験で、全く同じ匂いを被験者に嗅がす。
このときスクリーンに花の写真を写したときと香水を写したときとで、まったく同じはずの匂いの感想(体験意味、存在す)が真逆になることが知られている。
これは対象ノエマの側の一般意味の規制、すなわち自己同一性が、つどの存在を純粋統覚的に隷従させる事実を示す。
つまり言語を話す(社会秩序に同化す)タイプ(アスペ型)の発達障害においては、ゲームの体験流はそのゲームタイトルの権威に従属する傾向が強い。
なお発達障害では今しかないことがしばしば指摘されるが、これは癲癇的なイントラフェストゥムとはまったく異質の、つまり圧倒的に躁鬱病チックな罪なき躁の今をなすといえる。
さて、一貫性があって自己同一性が強いのが発達障害と勘違いされるだろうが、真逆である。
逆生産的に自己同一性が解体し、アイデンティティを全く措定できない人格解体を構成するのが多くの発達障害の最大の特徴。
彼らについては、メタ人格域からしか記述可能性がない。人格や性格を特定することが原理的にできない。
内面のタームが機能しない。
また彼らの生活習慣の一貫性とは対照的に、その自己同一性は、それが無限に強まった結果として同時に完全に解体してしまっている。
僕自身が発達障害の論文を読み出したきっかけも、いくら既存の心理学理論をつかっても知人を説明できなくなったためで、ようするに知人について自己同一性、人格といった一切のものを措定不可能となった極めてカオスな状態に対応するためだったりする。
逆にいえば多くの発達障害の人は相手に自己同一性も人格も措定しえないということ。
不適応を構成しないタイプの発達障害には、まず他者がないためこれが必然的に生じる。
ともあれ、すべての発達障害に当てはまるわけではなく、欠如(不適応)を構成しないアスペルガー型の発達障害については、理論上は、ほぼ当てはまるはず、という程度の話。
なおこれは現象学をベースに内的な本質観取とそこから想像される純粋に論理的な帰結で物語はつかっていない。
極めて科学的。
分かりやすくまとめよう。
ようするに日本人(ほぼ全員発達障害傾向)は、そのつどの存在すが、非自己性をもたず、つねに自己性にある。
といって一貫した連続性もあるレベルでは完全に喪失する。
だから相手の目線などの感情も、自己の側の都合というか、自己感情によって妄想される傾向が強い。他者の視線が闖入を構成しないともいえる。
これを砕くのはこのことによる不適応であり、不適応こそが去勢代理、〈父の名〉代理をなす。
だから適応し過ぎたアスペルガー型の発達障害は、競合関係を避けられず、似非科学妄想や選民思想を愛好するのがしばしば確認される。
つまり障害が障害にならない発達障害がもっとも問題となる。訓練による適応主義は、その目的構成プラチックのために、このことをまったく理解していない。
彼らは社会規範すなわち言語秩序と自己との完全な同化がなされているといってもよい。
のび太を発達障害的とするのが一般的だが、むしろスネ夫的な権威主義として国内では作動しうる。
また彼らの推論は説話的、物語的な恣意的因果の短絡をなすことが多い傾向にある。この推論モデルそのものも自己同一性の不在を意味する。
たとえばひろゆきや宮台、成田の考察を参照せよ。ただちにその意味がよくわかる。
また発達障害ではないが表現者クライテリオンのロジックもこの傾向が強く、もとより日本人全般の特徴であるのが分かる。
それは、つど今の反復をなす。
ヘーゲルにおける普遍、特殊、個別のうち、個別の段階、すなわちヘーゲルのいう自己意識(ブランケンブルクでいうパースペクティブの自己限定)の段階が存在しない。ゆえにアイデンティティがない。そのうえで国家編制をなす。ここには、究極の頽落、あるいは究極の妄想しかない。
なお、不適応を構成する発達障害はこの限りではない。
そのため発達障害を現代ユング派は心理学的未生性と呼ぶ。これは極めて適切な洞察をなす。
いわば非自己をもたないゆえ、近代編制においても適応していれば何も排除されない(逆に他者をしばしば競合から排除する)。
かつ大他者と融合するために恣意的に秩序を組み換えることも多くある。
つねに可疑性のないノエマ(同一性)を構成する。
ここに無欠なる近代主体=主体解体をなす日本人が誕生したわけだ。
この増殖はおさえきれず、国も文明も完全に消え去るまで止まらないと予測する。
新しい世界では完全なる全体主義が完成し、全てが窒息するだろう。
主語言語をいますぐ述語制に是正しないともう手遅れになると思う。
近代言語は競合的想像を免れない。
というわけで、発達障害を個体の存在体制の側のみで規定するのでも不足で、ここでラカンを組み合わせる必要が出てくる。
言説編制、ディスクールの側(合成他者言語)がその自己性、享楽のウロボリックな自他循環をなして競合化させているのは明白なのだ。
止まらない、言っても聞かない、理解しない、理屈が通じない。スネ夫の国ではどうしようもない。
この国では言論は一切の意味を持たない。
誰が言ったかのみで予め評価が決定しているからだ。パトリオットはもう古い、スネ夫ットなのだ。
最大の問題は人権が消し飛ぶということだろう。主権の法も自然権もなにもかも形骸化して消し飛ぶ(絶対化する)。
これはいかに欲望が短絡(自壊)しているかを示す。
差違(自己遅延)を構成し、迂回する欲望の経路を近代主体編制(欲望)とは異なる場所レベルから賦活する、それがデスストのゲーム性の組み換えであると読み解くこともできる。
発達障害を悪者にしたり英雄にするのとは根本的に違う。そうした主体レベルを解体する非ヘーゲル的アプローチをなす。
これは弁証法とは明確に異なる自己関係モデルをなす。
以上から、デススト2の国内での人気は分かりやすい。まずデスストは舶来品としての確固たる地位(権威)を築いた。
主演は有名な海外の俳優、また欧米で数々の権威的承認を欲しいままにする。
この時点で国内で売れるための下地が完成。
もちろんクオリティがなければそれでも売れないが、この権威付けのベクトルに適った適切なコンテンツ特性を持っている。
高尚な哲学性、最高レベルのグラフィック、芸術性、社会的テーマ性、体験の希少性、これらは小島ゲームに付与された権威の質と見事に一致する。
小島ゲームは我が国では、ひとつのステータスなのだ。
ようするにこういうこと。
ほんの10~20年前だったか、ファッKONAMI事件の頃、
このときは海外ゲーマーは小島監督を擁護し、国内ゲーマーは叩いた。
偉大なるお上のKONAMI様に生こいたということで小島を叩くのがイキとされた。
小島監督への捏造によるバッシングも当たり前だった。
この愚劣な国民性がこんなに短期間で変わるわけないだろう。
現在、小島監督といえば日本の文化英雄でYouTubeをはじめTV他、あらゆる媒介であらゆる権威から称賛されている。
この豹変は海外で認められていること、とてつもないセールス(ワンタイトルのみで2000万本以上)を叩き出すことによる。
まずTV屋はコナミがソシャゲ事業で東ポカ危的なポカをかまして、メタルギアシリーズに頼らざるえなくなり小島監督と和解したことによる影響があるだろう。
もしコナミがソシャゲ王化していたらマスゴミの大手スポンサーとして小島下ろし、小島パージの勅令を発動していた可能性もある。
そうなればテレビ依存の芸能人は小島との接触を回避していた可能性もあるのかもしれない。
いつでもそうで権威に諂うのが日本人。
ケツナメになれきった権威者はそのことに気づくことすらないだろう。
というわけで変わったのはプレーヤーではなく、小島監督のネームバリュー(権威)だと予測する。
なお、このことの根拠は上げだすと終わりがない。モンドセレクションの統計とか、舶来品の成田イエール商法とか、人文学書の本の帯が東大生に一番読まれている!が定番だったりとか。そもそもこの10年で以前よりスネ夫濃度が濃くなっているのは明らかと感じる。
これだけでは物語でしかないが、これら物語のコンテキストを構造主義的に示すことができる。構造のレベルでは間違いなくスネ夫が濃くなっている。
もう権威によってつどの存在がデキレースで規定されつくして全体主義化が完成している。
ともかく、そのうえで主人公が発達障害なのは、繰り返すが、その言説編制を、発達障害言説において移動することを示すからと読むこともできる。
ここでは移動主体を解体することがベースであって、だから場所ゲーなんだけど、それはつまり発達障害という非主体を主体化して、それが奇抜な行動をして云々という宮台的な幼稚な話にはなりえない。
そのように読みだすと身体関係の回復の意味がなくなってしまう。
主体ではなく言説場所が転移するレベルを物語(イメージ)の形式で描いている。
僕を含めて今の社会に生きる以上、アスペ言説の外など存在しない。いかに僕が一人で転移しても人と関わったとたんに引きずり落とされるだけだ。
誰も逃れられないこの言説を暴いて転移すること。
ようするにつど転けそうになったり、傾いたりっていう場所との対話もデスストの醍醐味だけど、このとき計画行為する移動主体(プレイヤー)は解体して、場所が諸行為の分散として身体において発現している。
明らかに主語文法(シミュレーション主体)を解体したゲームデザインになっている。そもそもがゲーム性プラチックを問題構成する真理モデルであって、この時点で言説レベルにあり主体のタームから外れている。
主体分析からプラチック分析へ移行している。
そのような主体の外しによって主体を可能にしているということ。主体なるものの先験的条件をヘーゲルを外しつつ構成して組み込んでいるわけだ。
道路を経験的なものに、自然の大地を先験的条件として、自然と人工物との絶えざる相即を実現している。
ともあれ、国内ではデキレース的な権威消費に飲み込まれて非シミュレート的なはずのゲーム体験そのものが、完全なシミュレートと化してゆく恐ろしいスネ夫システムにあることも予測される。
他にも似た事例で、ニコ動は述語性が顕著だが、といって誰にもこのことは意識されないので、とくに有効に機能するわけでもない。
この国は西部邁がいったように言語化すること無意識を意識化する内省ができない。
だから批評みたいなものはそもそも成立しないし、したこともない。
現代の批評家を観よ。
三宅、東浩紀、浜崎,,,
オナニスト、としか言えん。
人文学は亡くなった。
抗いようもない。YouTubeとやらに完全破壊されたと見てよい。
海外の哲学系YouTubeも参照したが、あまりにレベルが低く腰を抜かした。
なにかカッコつけのトークで内容がない。
成田の無内容でかっこだけつけてるクッソ痛い演説をすごくマシにした程度のレベル。海外で人気の進撃の巨人やDEATH NOTEの哲学批評もみたがバカすぎて呆れた。
進撃はプエルノイローゼ、DEATH NOTEはドストエフスキーから読み解くのがセオリーだが、
ChatGPT的で、作品に固有の体系を取り出すという基礎がなっていない。
YouTubeによって恐ろしく大衆の人文学のレベルが下がっているのが分かる。
もっともコジプロとしては、歴史に残る生存戦略として、三宅や浜崎、東ヘボ危にこそデスストの哲学を批評してもらいところではあろうが。
シミュレートしてみよう。
三宅がデスストを広告したら。
このゲームは安部公房でぇ!
棒ゲーから縄ゲーへのチェンジザワールド!
戦争ゲームの暴力による快楽をたちきって、そういう報酬系の報われを外して、宅配便で繋がるゲームでぇ、SNSによる繋がりがもたらしたコクーン化による分断問題を扱って、これを乗り越えるための緩い繋がりが意識されていてぇ
革新的なゲームなんですぅ!
ネットによる接続のオルタナティブでぇ!
新しいコミュニケーションの可能性を開いていてぇ
とくにVTuberの兎田ぺこらを筆頭にー
私のようなSNSのキラキラインフルエンサーが持つ繋ぎの可能性を予感させるものでぇ~
ポストコロナ時代における新しい繋がりの形態、繋がり2.0を構想する云々,,,
なんかこんなカスレベルだろ、三宅って。
東ヘボキの場合
デスストを語るにあたっては、俺のゲンロン創世記、その神話をお披露目せねばなるまい!
俺はかっこいい伝説の英雄だ!
俺はこの分断された新世紀にその分断をつなぐブリッジとなるべく、世界を架橋する思想集団、ゲンロンを勃起した!
俺こそが新たなジーザスとして降臨し、分断をつなぐ架け橋となる!
その俺のパトスにシンクロニシティしてできた俺の撒いたシード、そのひとつがデスストだ!
旅に出て世界を繋ぐ、この構想は奇しくもこの神に選ばれたジーザスヒロキの観光客の哲学!そして平和本に重なる。
この俺がまず大事で俺が脚光をあびるために世界はお膳立てされている!
東ならこんな感じでデスストについて語るという体裁で自分の話しかしないだろ。観光客本もそうじゃん。結局、自分大好き!みたいな自分騙りだけだろこいつ。
キモいウンコ。こいつは実際にはひろゆきとつるんで口からウンコもらすだけ。
誰があの動画観てんの?本読めよ。脳が鍛えられるとあの手のYouTube観れなくなるから。
浜崎の場合
関係が大事だ。人が繋がって国家をなす。
国家という基盤が繋がりを支えること、その喜びをこのゲームは伝えている!
一人でイケると思い上がったオナニストにメスイキの喜びをもたらすカイラル通信の繋がり!
これこそが国家に包摂される喜び、国家あっての関係!
そして我々が文明にのまれて忘れてしまった身体性、ハイデガーでいう存在忘却から存在の根源を取り戻す身体的直感!そのような自然の身体性を取り戻す契機に溢れている!
ガナビーセクシー!
キルケゴール的に素晴らしい!
超越項としての死者の世界とのつながり、これは我々保守の美学ではないか。
そしてサムの背中に私はあの偉大な父、藤井聡の面影を直感する!
不眠不休に近い過酷な配達業務に献身して国のために身を粉に労働する。これはまさに我がボス、藤井聡ではないか!
国家と、そして家族の絆を守るためにたちあがる勇姿!まさに藤井聡!
おしむらくは大学が出てこないこと。
ハマーは国家と大学と信仰と関係と直感と身体性と死者さえでてくればどうでもいい人。この人の批評は自分の予めある結論から絶対に動かず、その結論にあわせてこみ作品を読むスタイル。
これだと、まったく批評の意味がない。
何が言いたいかというと、
何を語るかなど関係がなくて、誰が語るかだけだってこと。
名越のゲーム実況的なヤツとかさ、すごいやん
ゲームに無関心で自己アピールでいかに自分を大きく見せるかに熱中してるのモロバレでしょ。
せやから予言者ごっこの占いにまで手を出す。禁忌やんそれ。
詐欺師のテクニック。
だからもうバカをどれだけ騙すかって世界で、バカをだまくらかさないと絶対に無理なんだって。異論があるなら権威なしからバカほざかんでインフルになった人、一人でもいいから言ってみろ。
一人もいないのでいえないだろ。
すげぇから猿の民度。
たとえば、未来に残したい授業、の人もさ。
公共的発信いうてたのがプライベートのピアノとか個人的発信を途中から混ぜだして、港区アピールやりだしたからな。
モザイクに港区だけオープンにして、
なんか知らんけど港区ってイケてる住所?なんでしょ。
港区女子という謎ワードあるくらいだから。港区ってどこかも知らんけどさ。
ボランティアで色んな著者に動画で講義してもろうて、それで知名度つけた頃合いで謎のプライベートアピール連打。
なんかさ、ボラティアの人ら、出汁につかわれたな。
公私混同が当たり前で、こういう人が日本では善い人って設定になるんだって。
最初から社会問題になーんも関心も興味もない。人から褒められるからそれをネタにやってるだけ。
当事者研究に熱心で、自身も発達障害?だとか。
当事者研究は賛同するけど、現実に行われているのは多くの場合、自己愛肥大というか。
他者を迂回しないウロボリックな疎外(真理生産)なんじゃねぇの?
フーコーでいうキリスト教の告白のファイナルフェーズというか。
宮台の弟子の西田亮介とかいうキモいやつ。
ひろゆきとリハック?だったかに感謝とかほざいててさ。
なんかもう、学問ってオナニーのオカズだったんだなと。
ひろゆきと論破芸バトルして、そんなことしたらますます学問がバカにされるわけだが、
それで自分が売れて大学にも強気に出れるとかなんとか
もうさ、大学の文系はなくして欲しい。
芸能人ごっこすると文系の教授は出世するんだと。
なにこれ?
なめてんのか?
こんなんもう成立してないから
このことについて誰もなにも言わないのかよ。
死んでくれ日本猿。不快すぎる。マジにテポドンで絶滅しろ。
