ワンダー☆リング
【あらすじ】
主人公の景山英世(はなよ)は、29歳の誕生日目前で恋人に意味不明な別れを一方的に告げられ、傷心の日々を過ごす。悲しみを乗り越えようと同僚の神谷葵(あおい)の助けも借りつつ切磋琢磨の日々の中、さらに衝撃的な出来事に襲われる。もうメンタルは八方塞がりかと思われた矢先、偶然、里親募集の犬(サスケ)と出会い、同居することに。やがて傷心の彼女はサスケに癒されゆっくりと心の色彩を取り戻す。そんなある日、英世とサスケは不思議な指輪を見つけ、サスケはあり得ない体験をすることに。
英世もまた偶然を重ね、本当の幸せを見つける。
【本編】
「……はぁ、はぁ、はぁ、はぁ……」
走る、走る。ああ、息が上がる。でもそんなの、かまっていられない。
とにかく走る……カッ!カッ!カッ!カッ!と鋭い音のそれは女性のハイヒールだ。休むことなくその音は、住宅街を駆け抜ける。
やがて駅から8分ほどの所で”駆け抜ける靴音”は一旦リズムが狂った。
彼女は視線をちらりと手首へ向けるためにスピードダウンしたのだ。腕時計の時刻は午後6時55分。
「待ってて……もうすぐだから……」
吐く息にかき消された呟きに込められた想いは強い。
程よく閑静な住宅街に再び強い靴音が響き渡る。通り過ぎる家々から夕餉の匂いが立ち込めていた。その匂いが更に彼女へ急ぎの帰宅を促している。
その彼女が帰宅を目指す『駅から徒歩15分』という立地の賃貸マンションは、ベージュの外壁にモスグリーンの玄関という佇まい。リフォーム工事済でぱっと見、築40年を感じない外観だ。思えば引っ越して来て、かれこれ1年が経とうとしていた。
引っ越し前の、以前入居していた賃貸アパートはバス停が目の前にあって通勤に便利だったのだが、そのバスで痴漢被害に何度も遭い、このことを恋人に相談したら「じゃ、引っ越そう?もっと安全なとこをさ。それとも…」
「やっぱりそうだよね!」
彼が何か言いかけたのを遮り、先の提案に同意した。善は急げとばかりに早速、彼女は通勤に便利な電車沿線沿いの物件を、平日の仕事終わりと休日の度に見て回る。そんなに頑張らなくたって今はスマホでなんでも検索できるのに、と恋人からは不満を含んだ声を聞いていたものの、やはり自分の目で確かめなければ落ち着かない性分が彼女を動かしていた。
そんな努力の甲斐があってか、ぽっと出て巡り会えた賃貸物件。これは絶対にご縁あるぞ、と爆速で彼女は内覧希望の予約をする。
「いいとこ見つけたよ」と恋人にメッセージを入れ、内覧についても知らせておこうかと数文字入力したところで手を止め、削除した。きっと彼は忙しいだろうから、付いてきてもらうのも申し訳ないよな、と慮ったからだ。
それから数日経った内覧当日、彼女は「しっかりね!」と鏡に映った自分に喝を入れて家を出た。
案内人と二人で訪れた内覧物件は、階段を上って一番奥の部屋。何軒かのドアを通り過ぎたところで、なぜかそれらに動物のステッカーが貼ってあるのが目に入った。そういえば1階エントランスあるポストにも動物のステッカーが貼ってあったような。彼女が不思議そうにお隣さんの玄関のそれを見ていたら「あ、ペットはワンちゃん、それともネコちゃんですか?」と彼女の視線の先に気づいた案内人が声をかけた。”ネコちゃん”というワードに、気まぐれで子どもっぽいところもある恋人の顔がふと浮かび、思わず顔がほころんだ、が直ぐにそれを隠した笑顔で「ペットはいませんよ」と答える。
さあ、いよいよお目当ての部屋だ。玄関ドアを開けると、リフォーム仕立ての真新しい壁と床が目に飛び込んできた。全室フローリングで掃除がし易そう。玄関開けたらすぐキッチン…でない間取りも気に入った。8帖のダイニングキッチンは収納スペースであったであろう扉が取り払われた形跡があり、その開放感に8帖以上のお得感があった。それにあと2部屋もある。憧れの書斎とか作れちゃうじゃない?お風呂、トイレ、洗面所はセパレートで使い易そう。そんなポジティブな新生活のイメージが溢れ出てくる。
手にしている資料通り、この2階の角部屋は陽当たりも風通しもよい2DKで明るい。玄関ドアの色も好き。それに恋人が泊まりに来ても部屋に余裕があるのも嬉しいな、などとまた顔がほころんだ。
金銭的なこと、マンションの設備やルール、買い物できるお店や公共施設などなど一通り説明を受けてから、改めて契約の意向を聞かれたとき、彼女は最後の質問をした。
「ここにお住まいだった方はなぜ引っ越しを?」
「ご結婚と伺ってます」
なるほど、善き風を感じる。
彼女は「ここに決めます」と満面の笑みで返事をした。
「はぁ~……」やっと”我が家”のモスグリーン色の玄関前にたどり着いた。
鞄からゴソゴソと鍵を取り出し、急いで開錠する。
既にドアの内側をカリカリカリと滑る爪音とクゥ~ンと鼻にかかる声が騒々しい。ガチャリとドアが開放されると「遅いぞ」と言わんばかりにその場で足踏みして全身で喜びを表現するワンコが彼女の帰宅を迎えた。
「ただいま!サスケ、いい子にしてた?すぐごはんにしようね~」
顔を近づけて話しかけると歓迎のキスの嵐はいつものこと。鞄を置き、手洗いに向かうも、尻尾が千切れそうなほどブンブン振り回しながらサスケが足元にまとわりつくのでなかなか前に進めない。それでも何とか部屋着に着替え、足元のサスケに「おいで!」と両手を広げて声をかけると、待ってましたと言わんばかりのジャンピングダイブに彼女は押し倒されてしまう。
そして歓迎のキスの嵐が再開された。
「あ、そういえば、ポスト覗くの忘れてたわ!」と身体を起こしてサスケにそう告げながら彼を抱きかかえた。一昨日、通販サイトでサスケにどうかなとお試しサイズのドックフードを注文したのだった。「一緒に見にいく?」
1階のエントランスホールにあるポストを開けると、残念ながら今日はDMのみ。「景山英世様……。」と宛名を読み上げてみる。『景山』という苗字だけ太字で書かれているんじゃないか?と圧迫感のようなものを感じるのは、実家からの“結婚はどうなった”という類の度重なるプレッシャーからだろうか。私、29歳。現代ならいろんな人生があっていいと考えるが、両親にとっては“結婚”が娘の幸せなのだと思い込んでいる節がある、と思う。
部屋に戻り、サスケと同じタイミングで夕食を摂る。食後に緑茶をすすりながら、今日は”結婚について”をサスケに語り、問う。この会話タイムは彼がこの部屋に同居することとなった日から、いつの間にかルーティンとなっていた。サスケからアドバイスの言葉はないけれど、英世の声を聞き逃すものかと、ちゃんと耳をこちらに向けている。どんなときも、どんなことも、必ず。そして絶妙なタイミングで返事をするサスケに英世は絶大な信頼と安心を感じている。通いあう心を確信しているのだ。
そんなサスケは英世の“心のオアシス”という唯一無二のポジションをおよそ半年前に獲得し、現在に至る。
思い起こせば、それはおよそ半年前の出来事だった。英世は突然に恋人から別れを告げられた。28歳、あと1週間で29歳というタイミングに。
それは、ある日のこと。「あ、2週間ぶりだ」
英世は恋人から久々のメッセージを受け取った。
『今週会えない?話がある』
『いいよ。いつ?何か作るよ。』
『いや、外で』
ん?いつもどちらかの家でまったりなのに?
そのとき、ふと壁に掛けてあるカレンダーが目に入った。
あ、私、今月誕生日だ…。
少しの期待を込めつつ、のんきで浮かれた解釈をした英世は、いつもよりずいぶんと短い彼の文面の異様さに全く気付くこともなく、金曜日の夜に会う約束をした。
昔はけっこうお互いマメに連絡を取り合っていたが、7年目という付き合いの歳月に安定を覚えたのか、その回数はだんだんと減っていった。
物理的な距離が離れていようとも、気持ち的には一緒にいるのが当たり前、こういう、まるで熟年夫婦のような感覚を英世はいつの間にか持っていた。彼は自分にとって良き理解者。安定したパートナー。そして彼もそう思っているはずだと全く疑うことはなかった。
彼ー『木田裕也』と英世の出会いは大学生時代。バイト先のカフェで、同い年で同期ということもあり、すぐに気の合う仲間のひとりとして仲良くなった。彼は優しい雰囲気の好青年という印象そのままに、実際にムードメーカーであったので、大学でもバイトでも、人間関係において円やかな対応が好感を持てた。彼の周りはとにかく明るい。生真面目な英世が心をほだされたのも、彼の性格とそんな人徳があってそこだ。また裕也も努力家で速攻足趾、しっかり者の英世に一目置いていて、当時はお互いがお互いを補い合える、バランスがとれている関係でもあった。
だからこそ、ふたりがお互いに好意を持つことに時間はかからなかった。バイト終わりに裕也から話があると呼び出され、恋人の関係になった瞬間から、目にする世界全てがフルカラーに色づいたことを、英世は忘れていない。“今も”。
裕也が『会おう』と指定した場所はカフェでもレストランでもなく、駅前だった。どうやら車で来るらしい。約束した19時の5分前に到着した英世は、たぶん裕也はまだ来てないだろうな、などと思いながら周囲を見渡す。するとロータリーの入口付近の、少し広いスペースの隅っこに馴染みの赤いコンパクトカーを発見した。嬉しくて駆け寄ると、少し俯いて運転席に座る裕也がいる。なんか、いつもの雰囲気が違うかも、そう思いながら助手席側の窓をコンコンとノックした。その音に反応した裕也がハッとしてこちらを見る。目が一瞬だけ合って、俯き加減な苦笑いへ表情が変化する。手招きで「乗って」と合図され、英世はいつものように助手席に収まった。シートベルトを締めようと手を伸ばすと、しなくて大丈夫だからと制される。
今夜はなんか、なんか、ピリピリしてる。
「お、お待たせ。」
「…うん。」
あれ?うんって言った。いつもなら笑って、全然、とか言うのに。
「移動しないの?」
「………うん。」
しばらく沈黙が続く。どうにも居心地が悪い。何か言いたげな裕也。
どうしよう、元気ない。
「……何か、調子悪いの?疲れてる?」
英世は裕也の顔を心配そうに覗き込んで言った。
このひと言を聞くや否や、ピリついた空気を纏った裕也が声を荒げた。
「そういうとこだよ!」……え???何が?
「性格の不一致!もうダメなんだ!」……だから何が?
「別れよう。」は?
英世はそれを聞いた瞬間、思考と呼吸が何秒か止まったが、次の言葉を紡ぐために何とか、何とか声を絞りだした。
「な、何で?…意味が…分からないんだけど……」
またしばらく沈黙の後、興奮気味に結論を言い放った裕也が冷静さを取り戻し、ぽつりぽつりと話を始めた。
「…何でって、こっちのセリフだよ。いつだって何でもかんでも勝手に決めちゃって。いつだって事後報告、俺のこと本当に必要?!」
彼は何のことを指していっているのか、英世には青天の霹靂である。最早パニック状態の頭では何も思い浮かばない。
「英世は会えなくたって平気なんだろ?」え?そんな話どこから出たの?
「え?今日はすごく、楽しみにしてたよ?」
「ホントかよ。もういいって…」
裕也は英世を見ない。こんなに近くにいるのに、透明な壁があるとはっきり分かる。彼の明らかな拒絶が、彼女の心拍数をどんどん悪いほうに上げていく。今にも過呼吸で倒れそうになるのを、気力でなんとか持ち堪えながら会話を続けた。
「仲良くしてた、よね?」
「そっちの思い込みだろ?大体、今のマンションだって事後じゃん。」
「え?引っ越し手伝ってくれて、いい部屋だねってほめてくれたよね?」
裕也の言わんとしていることが全く解らない。引っ越しのことを怒っているの?その事後報告が不満で別れる原因になるの?と英世が口に出したところで裕也が声をまた荒げた。
「付き合って何年になる?僕は一緒に住みたかった!結婚だって視野にいれていた。それなのに君が……」
「じゃあそう言えばよかったでしょう?聞いてない!」英世の言葉が被る。
「ほら、今だって!ちゃんと最後まで聞けよ!言おうと思って言いかけたら止めるじゃん!聞いてないって?!それ聞こうとしないのそっちだろ。だからもう、こういうやつなんだって諦めたんだ。俺だけいつも言いたいことも言えなくて我慢とか、もう疲れた。何でも勝手に決めて、振り回されて、もう何度も何年も繰り返して。根本的に真逆なんだから合うわけないんだ、俺ら。英世は強すぎる。」
「それが、別れる理由なの…?」へ?私、強かったの?
「俺のいる意味が、無いなって。」ハンドルを強く握りしめ俯いて話していた裕也がやっと英世を見て、じゃあね、とはっきり発音した。その後、お互いの部屋にある私物は各々処分ってことで、と事務的な口調で英世に告げるも、彼女はそれが全く理解できないでいた。思考が現状についていかない。
「…裕也は私のこと、嫌いになっちゃたの?」
彼の血走った目がゆっくり頷いた。自分を受け入れていない、鋭い視線。
…ずっと寂しかったんだと呟いて、もう一度「別れよう」と助手席のドアが裕也によって開けられた。
「いや、いやだよ…いきなり、別れる…なんて」全身がこわばる。
「僕が限界。」ああ、裕也の声が、他人の声に聞こえる。これ、夢かな。
「寂しくさせちゃったから?話を聞かないから?」
裕也は俯いて「俺が弱いから…」
やっと聞き取れるくらいの小さな声で呟いた。
裕也の車を降りて、家路につく。きっとこれは夢なのだと、ならば覚まさねばと全速力で走った。無心を望んで。
2月の冷たい風が顔に突き刺さる。でも何も感じない。ああ、もう夜でよかった。きっと凄い形相だろう……。
幸いマンションの住人にも顔を合わすことなく部屋へたどり着けた。急いで玄関を開けて勢いよくバタンと閉め、ガチャリと内側から鍵をかける。
刹那に外の喧騒が消え、暗く静まり返った室内に自分の喘ぐような呼吸と心音が聞こえる。ドクンドクンと早く、重く。
英世は暫く玄関ドアにもたれかかったまま、目を閉じた。照明のスイッチは手を伸ばせばすぐの位置にあるのに、その気になれなかった。
やっと呼吸が落ち着いてきたところで明かりをつけて部屋のソファーに腰を下ろした。小ぶりなリビングテーブルに置いてあるノートパソコンが目に入った。いつだったか、「カーソル操作はマウスのが楽だよね」なんて言ったら裕也が自分のワイヤレスマウスを置いて行ってくれたんだった。ノートパソコンの傍らにちょこんと佇むマウスを見て、突然、滝のように涙があふれてきた。膝を抱え顔をうずめる。今は過去の自分がうらやましい。
裕也、我慢してたって、振り回されてたって言ってた。それを反芻して英世はただ、ただ、自分を責め立てた。
レースカーテンの隙間から光が部屋へ差し込んでくる。目元に日差しを感じ、後ろ向きの英世にも平等に朝が来た。昨夜はキャパオーバーでいつの間にかそのままソファーで眠ってしまっていた。仕方なく、洗顔ぐらいはしなければと、のろのろと立ち上がり洗面所へ向かう。
「はぁ…」
身体が非常に重い。狭いソファーにうずくまって寝たからか疲労感が酷い。洗面所の鏡に映った自分の顔をみて、さらに疲れが増す。誰だ、これは。
「はぁぁぁ…」
メイクも服も昨日のままだったとやっと気づいたので、熱いシャワーを浴びることにした。
白く温かな湯気に包まれて、ようやくほっと落ち着いてきた。するとお腹が空いていたことにも気がついた。“グゥ~~~ッ”と盛大な腹の虫がなく。
「なんか食べようっと。」わざと明るく言ってみる。
うん、多分大丈夫だ。
シャワーを切り上げ、部屋着を身に付け、髪を乾かして…キッチンに立つ。
オムレツとか作っちゃおうかな、と手際よく準備を進める。
うん、うん、私、大丈夫。
買い置きの食パンをトーストしている間にプチトマトとレタスを洗う。程なくして香ばしいパンの匂いが漂ってきたと同時にチンっとトースターからの知らせを聞いた。アツアツにバターたっぷり。今日は蜂蜜もかけちゃおう。
うん、うん、大丈夫、大丈夫。
動作一つ一つの合間に、自分の確認をしてしまう。そして刷り込む。
私は大丈夫なんだと。
二人掛けのダイニングテーブルに朝食が並ぶ。紅茶を入れて全てそろったところで英世は席に着いた。
「いただきます!」元気に言ってみる。
パンを一口かじったところで涙があふれた。それをこらえて次はオムレツを口に運ぶ。全部食べられるはずだ、私は大丈夫なんだからと、頭の中の声がこだまする。昨日までは真っ赤だったプチトマト、緑鮮やかなレタス、おいしそうな黄色のオムレツ、それら全てを順番に口に運ぶも、無彩色の塊のように思えた。最後に紅茶で水分補給しつつ、やっとトーストを食べ終えて朝食は完食できた。
さあ、片付けだ。さっさと洗ってしまおう。シンクに食器をカチャッと音を立てて置いた。それが合図だったのか、英世の目に突然涙があふれ、同時に大声で泣き崩れた。「裕也ーーー!」
この部屋は裕也の痕跡だらけだと、改めて思い知らされた。
寝室のタンスには裕也の部屋着や下着が数枚ストックしてある。浴室には裕也専用のボディスポンジ、洗面所には裕也の歯ブラシ、キッチンにはお気に入りのマグカップや食器。オムレツ、チーズ入りが好きだよね。紅茶よりコーヒーだよね。食事は私が作って、裕也が片付けをしてくれたじゃない。いつだって。いつだって!
ーーーどれくらい経っただろう。いつの間にかシンク下の扉の前に膝をかかえてうずくまって寝てしまっていた。
バルコニーのある大きな窓にめをやると、太陽の方向はかなり西に傾いているように見える。
昨日のことが夢ならいいのに。考えてはだめだと思えば思うほどに、過去の裕也が笑いかけてくる。そして冷たい目をした裕也に背を向けられて胸が痛くなる。あんな裕也を初めて見た。別れを決めてしまうほどに、私は酷いことをしていたんだと、自己否定を繰り返す。
ただ、今日が会社が休みでよかったのかなと少し考えて、英世はまたそのまま目を閉じた。
次に目が覚めた時は、寒さと暗闇の中だった。ノートパソコンの隣に置いたスマホの着信通知ランプが点灯している。
まさか!と思い、四つん這いのまま移動してスマホに手を伸ばす。
……やはり彼ではなかった。
“酷いことを言われたのに嫌いになれない彼”
ウサギがピースするスタンプと共に、明日よろしくね!などと、裕也とはかけ離れたメッセージを目にして、少し落胆した英世だった。
そう、別れの衝撃ですっかり失念していたが、明日の日曜日は会社の同僚、『神谷葵』とショッピングの約束をしていたのだったと思い出した。
日曜日、出かける準備のために、平日の朝と同じ時間に起床した。生真面目な英世らしい一面である。昨夜はちゃんとベッドで眠ったので体の軋みは感じないが、何しろ気持ちが晴れないので今日も身体は重く感じる。目を閉じると自動で涙がにじんでくるから、目もやはり腫れぼったい。
「隠れないかな」気分転換にメイクを入念にしてみようと鏡を覗き込んだが、いまいち気持ちが乗らないのでまあいいかと、軽くファンデーションと色付きのリップクリームを適当に塗って出かけることにした。
待ち合わせは一駅前から乗ってくる葵に合わせて、電車の一番後ろの車両にしている。ああ、今日はできれば座りたいかもと駅のホームで電車を待つ。そこへ時刻通りに電車が入ってきた。一番前、真ん中、あれ、今日は意外に空いているのか、どうやら座れそうな気配である。
最後尾の車両で待つ葵を見つけて電車に乗り込んだ。やはり葵の隣は空席だ。葵も英世を見つけると手を振ってこっちこっちと着席を促した。
「お待たせ~」いつもより少し元気に言ってみたのが却って不自然だったようで、葵は怪訝そうな顔で英世を見た。
「どしたの?」
何に対しての質問だろうか。
「何が?」と英世はとぼけてみる。
絶対に泣いたじゃん、その顔。何があったの?なんて葵は言わない。
だから自ら伝えねばならない。この様を。
「…あ、えっと…」
「ねえ英世、ごはん食べた?」
「え?ああ、少し。」
「買い物のあと、よければ今日は夕食もいっしょにどう?家で。」
ーーー!!お母さんですか、葵さん。
「はい、喜んで。」
ひとりでいると泣いてしまう。この同僚であり友人の優しい申し入れを英世は有難く受け取った。
買い物というのは葵が英世の誕生日プレゼントを選ぶための企画であった。やはりサプライズのプレゼントというのは、カップルなりたて以外はほぼ外すから危険、という葵の確固たる信念のもとによるものだ。
ただ、バリバリ割れたハートの英世に、ショッピングモールで欲しいものなど何も見つからなかった。なので買い物は早々に切り上げ、スーパーマーケットで食料品を買い込み、葵の家へ向かうことにした。
葵には付き合って3年ほどの、半同棲をしている恋人がいる。今夜その彼氏は実家に帰っているから安心して飲むようにと、葵らしい気遣いを見せてくれた。せめて今夜は英世の誕生日会らしくということで、ビールは封印し、紅白のワインをおしゃれなワイングラスで飲む一夜、というテーマの夕食会(飲み会)になった。買ってきた総菜とおつまみを広げ、女子会はスタートした。最後は締めのアイスクリームまでが彼女らの宅飲みコースだ。
グラスを片手にいい感じに酔いが回ると、気の置けない間柄では口もつい軽くなる。葵が「そういえば」と前置きして、そろそろちゃんとしようかってことで、来年あたりに籍を入れることにしたんだよと、ちょっとした爆弾を落とし、酔っぱらいの英世は泣いた。
「ほんと、本当によかったねーー!いやあ、めでたい!」
英世はワインをがぶ飲みし始めた。グラスになみなみと注いでは空にする。その最初の一杯目は葵も嬉しくて、キャッキャッと大騒ぎしながらの祝杯だったが、ワインボトル1本を空けようとするときに流石に葵は英世のその手を掴んだ。
「ちょっと、テンションおかしいって。飲み過ぎ!」
「これがぁ飲まずにいられるかぁっての!あたしはね、あおいしゃん、強いのよ!強くておひとりさまでもぉ、だいじょーぶってね、あはは~」
「こんな酔っぱらいが強いわけなかろう!ちょっと、なになに…」
グラグラ揺れる英世の肩を葵はしっかり掴んだ。やば、焦点が合ってない。
「あおいしゃん、あたし、ふられちったよ。ああもう、めでたい話に水を差す~ってね、これだから、あたし。ごめんよー、ごめんねえ。」
ここで違う種類の爆弾が投下され、被爆した葵の目が三角に変形した。
「はああああ?!」
明日は二人とも出勤日だというのに、全くお開きの気配のない、この女子会の第二ラウンドがスタートした。
それから程なく、酔っぱらい英世が猛烈な悪心でトイレに駆け込んでは戻ってくるを数回繰り返したところで、騒々しさから静けさへーーふたりにやっと落ち着きが戻って来た。ワイングラスはミネラルウォーターが入ったコップへと余儀なく交換され、クッションをぎゅっと抱えた英世は、葵に一昨日の夜の出来事をゆっくりと話し始めた。
~葵の呟き~
私が認識している英世って人は、落ち着いてるって印象。おとなしいかと思いきや、信念は曲げないかも。ちょっと頑固なとこもあるし。あ、わがままではないかな。基本的に真面目な努力家で仕事は丁寧で。決断力もあるし職場では後輩たちからも頼れる先輩として信頼されている。
彼女が誰かを貶めたり悪口言ったり?ん~、私が知る限りでは、ないな。
性格も服装も割と地味目寄り。普通の、感じのいい人だよ。
で、今更なんだけど、どちらかというと、明るく男女ともに友達の多い木田君のほうが心配だったよ。英世はどう思っているか知らないけど、木田君はみんなに優しいというか、いい顔をする。それと彼氏の友人から回って来て見せてもらったSNSに何と偶然、隅っこに木田君の姿が映りこんでて!あれは…ちょっと衝撃だった。彼が女子二人を両脇に抱えてさ、片方のコとキスしてんだよ。ピースしながら。あれ、英世と付き合うかどうかって時じゃなかったかな。彼女は知らないだろうけど。そんなん、言えないわ…。
英世が全て葵に話終えたのはもう終電がとっくにない深夜だった。
涙でぐちょぐちょの顔を洗いたくて、葵に洗面所を借りた。これどうぞ、ピンクの花柄のフェイスタオルを手渡される。よければお風呂もどうぞと気にかけてくれたが、流石にそこまでは申し訳なくて、始発で帰れば出勤時間に間に合うからと断った。
今なら少し眠れそうだ。葵に毛布を借りてソファーに横になることにした。
「葵、ありがと。」
「いいよ、そんなん。いいから、少しでも寝なよ。」
ややあって英世から静かな寝息が聞こえ始めた。けれど葵はモヤモヤ、ムカムカが治まらず逆に目が冴えてきた。
あんにゃろ、木田め。英世を泣かせやがって…
英世も早く忘れてしまえ、あんな奴…
そんなこんなで数時間後、始発の時間を迎え、少し気持ちが軽くなった英世は、葵のアパートを後にした。
“衝撃の金曜”から一週間が経過した土曜日の朝を迎えた。今日まで何とか腐らずにいられたのは葵のおかげだ。「なんかあっても何にもなくても連絡しておいで」とあの女子会の帰り際に葵に言われて、また泣いてしまったが。思う存分たくさん泣かせてもらったおかげで、家では割と平常心でいられた。忙しく仕事をしているときは一切思い出すことはなかったので、敢えて残業をした。そのせいで食料品の買い物へ行く時間が取れず、冷蔵庫がものの見事に空っぽだ。
「とりあえず、コンビニ行っとくか」と簡単にメイクをして出かける準備を始めると、つけっぱなしのテレビが今年のバレンタインはどーのこーのと言っているのが聞こえてきて、そうだ私、今日、誕生日だわ。とても嫌なことを思い出した。ほかのチャンネルもやはりバレンタイン関連ばかり。愛犬にもバレンタインをと、ペット用のお菓子を紹介している。う~ん、何だかな、と思いながらテレビを消してコートを羽織って家を出た。
今日は陽ざしが暖かい。とりあえず太陽は英世の29歳を祝福してくれているかのようで、空を見上げてありがとうと言ってみた。
家から徒歩5分のところに一番近いコンビニがある、のだが。
…あれ、様子がおかしい!え?閉まってる!まさかの“コンビニ改装工事中”に遭遇してしまったのだ。
あああ、私の朝ごはんが…。
何てこったと呟いて、仕方なく隣町の大型スーパーに向かうことを決意したが、このコートの下は部屋着であることを思い出した。もう、めんどくさいなあと思いながらも、さすがにヤバいと一旦帰宅して着替えることにした。
こんな時に車があればな。車窓から通り過ぎる車を見つめる。帰りは大荷物が確定なので、タイヤ付きのショッピングカートを引っ張ってきた。
降車駅に到着し、改札を抜けたらショッピングモールへ直通の通路がある。
さっさと済ませて帰ろうと顔をあげて先を見た……
前を歩くカップルが目に入った。
その男性は既視感のある後ろ姿、黒いコート、靴、髪型。
「裕也……」
裕也の腕は隣の女性の腰のあたりを抱いている。ゆるりと巻いたロングヘアによく似合う上品な白いハーフコート。そこからひらりと揺れる軽やかなレース素材のスカートと華奢なハイヒール。私とは見た目が真逆な女性だった。裕也は、他のものは何も見えないんじゃないかってくらいに彼女の顔を、かつて私にも同じ視線が向けられていた、その彼の瞳が英世の見知らぬ彼女だけを捉えていた。
刹那に英世の身体は全身が心臓になったかのように脈を打ち始めた。呼吸が浅く早く、筋肉こわばってもう一歩も先へ進めなくなってしまうほどに。
「これが、これが別れた本当の理由なの?」今すぐ彼に駆け寄って、そう問い詰めたかった。「こんなに、こんなに好きなのに!」と。
彼らの姿が店舗の中に消えて数分後、英世はゆっくりと踵を返し、また電車に乗った。自宅最寄駅で降りてふと横を見ると公園の入口らしきものがあった。なんだ、今まで気が付かなかったな、と引き寄せられるようにそちらへ向かい、一番近くのベンチに腰を下ろした。
おもむろにバッグからスマホを取り出して、アドレス帳の「裕也」にダイヤルをしてみた。思いっきり責め立ててやろうか。でもきっと声を聞いたら「今でも好きだよ」と言ってしまうかもしれない。
ツツツツ…おかけになった電話番号はお客様のご都合により……
着信拒否を伝えるメッセージが心をえぐる。
「ねえ、どうして、どうして、どうして……!」やり場のない感情をどうにかしたくて、裕也にもう一度電話をかけてみる。
やはり電子音のメッセージが流れ、残酷な現実をどうしても実感せざるを得なくなった。いっそ、こんなアドレスは消してしまえばいい。頭で分かっているのに、指は裕也の名前と番号を優しくなぞってしまう。
スマホをバッグに戻し、自分の足元の地面を見た。
ポロポロと水玉模様を描き、全部くっついて小さな水たまりのような形になるまで涙が止まらなかった。
それからどれだけ時間が経ったのだろう、気がつけば太陽が西に傾き、夕日に変わりかけていたのだった。
仕方なくゆっくり立ち上がり、空っぽのショッピングカートと共にふらふらと歩き始めた。冷静に見れば、英世は自宅とは反対方向に歩いているのだが、本人は全く気づいていない。ただただ真っすぐに、直線距離を歩く。
どこまで来たか、突然「キャンキャン」と鳴く犬らしき声が聞こえて、英世はそこに立ち止まった。やっと我に返ると、どこをどう歩いてきたのか、そこは初めて見る街並みの中の、ペットショップの店先だった。
「キャンキャン」の声の主が気になってペットショップを覗いてみた。
「いらっしゃいませ」
「少し、見せてもらっていいですか?」
ガラス張りのケージが幾つも並んでいる。レジの横を通り過ぎようとした時に「キャンキャン」とさっきの声がした。視線を下げるとそこに『里親募集中』と書かれた貼り紙の、簡易的なケージに入れられた犬がこちらをじーっと見つめている。よく見ると、何だか笑っているような。目を離せずにその場にしゃがみ込んで、人差し指で鼻先を触ってみる。「かわいい…」
チョコレート色の毛並みに淡いブラウンのまあるい瞳が印象的だ。そんなことを思っていると、何かを察したのか、女性店員に声をかけられた。
「多分1歳半が2歳くらいかな、ちょっと大きいミックスの男のコなんですけどね。このコの兄弟は里親さんがみつかったんで、このコが最後なんですよ。お父さんがミニチュアダックスでお母さんがロング……」などと丁寧な説明も途中から聞こえなくなるほどに、英世はこのコに夢中になっていた。これが人間の男性ならば間違いなく一目惚れの状態だろうが、幸か不幸か英世は男性不信真っ只中で、人間には興味がない。
自分とこのコの、トクトクトクと穏やかで温かな心音が共鳴するのを、英世は感じた。これは、ご縁があると直感した瞬間だった。
「すみません、このコ、引き取らせてください!」
予想外の申し出だったのか、女性店員の顔が思わずほころぶ。
「ちょっとそこのコンビニに寄ってから、すぐ、すぐ来ますから!」
と言い残し、昼間達成できなかった食料品調達を10分以内で完了させた。
まさかこんな突然に家族ができるとは…。
このところ引っ越しが脳裏にちらついていた、裕也との思い出だらけで帰宅の度に辛いだけのこのマンションが『ペットOK』だった奇跡!
“このコ”と大荷物を抱え、やっと帰宅した。とりあえず荷物を置いて、このコの手足を洗いに浴室へ向かった。
いきなりシャワーは怖いだろうと、洗面器にお湯を張って丁寧に指先=肉球を手から順番に洗った。さあ、きれいになったね。お部屋へどうぞ、と床へ下すと、嬉しそうにカタカタと爪音をたてて部屋中の探検を始めた。
英世はその隙に、調達してきたペット用トイレと寝床、ごはん用のお皿と水テキパキとを準備する。
「こんなもんか~?」と目途がついた途端に、英世のお腹がぐぅ~~~っと空腹を知らせた。は、聞かれたか!と思い犬に目をやると「呼んだ?」とばかりに飛び跳ねるように英世の足元にすり寄ってくる。かわいい…。
それじゃ早速食事にしましょうと、先ほどのペットショップで購入したドッグフードをお皿にカラカラと入れる、や否や、ガツガツと一瞬で食事が終了し、その速さにあっけにとられ、思わずポカンと口が開いている自分に気が付いて、英世は笑った。
英世もダイニングテーブルについて、簡単にコンビニのおにぎりをパクパクとかぶりつく。そうだ、名前、どうしよっかな。そんなことを考えていると、いつの間にか向かいの空いた椅子に犬が座ってこちらを見ている。
「す、すごい。なんてかわいい、そしてお主、やりおるな?」
なぜか語尾が時代劇調になったので、それなら和風の名前にしてみようと考えを巡らせた。それじゃ忍者みたいな名前とか?あ、閃いた!
「君は今日からサスケだー!」
ひとり大喜びする英世が、また何か美味しいものをくれるのかとサスケは勘違いして一緒に吠えたのだった。
緑茶をすすり、落ち着いたところで英世がサスケを抱っこして、
「さあさあ、サスケ、ドキドキのお風呂タイムがやってまいりました!
きれいにしたら、とびっきりかわいい服を着せてあげるね~」
共同生活初日の、一番騒々しい時間が始まった。
翌朝、顔をサスケになめ回されて英世は起床した。やはり夜になると別れた彼を反芻してしまうから、きっと私の頬はしょっぱかったでしょう?とサスケに話しかけたあと、寝っ転がったまま元気なチョコレート色の毛玉をぎゅっと抱っこした。
サスケがいると忙しい。サスケがいると楽しい。サスケがいると騒がしい。
何よりめちゃくちゃ癒される。そんな日々がスタートしたのだ。
絶望した自分の誕生日が、最高の出会いの日にくるりと反転した日から。
サスケとじゃれ合ううちに、裕也とのことが少しずつ冷静に分析できるようになっていた。
まず「性格の不一致」とは。完全に自分とのコピーでない限り、これは双子でも一致しにくいのでは?
「勝手になんでも決める」とは。これは聞けば「なんでもいい」と答える裕也にも問題があるのでは?
「引っ越しの事後報告」?これは痴漢被害を伝えたときこそ「じゃあ一緒に俺の家に住もう」でよかったのでは?本当に結婚を考えていたならば。
「寂しかった」って?私が誘う度に友達と出かけていたのは誰よ?
結局は裏切りだったのだ。何としても誕生日前に分かれる理由として。
英世から結婚を切り出される前に。
あの彼女は”強く”ないのかな?ま、
これは一番関係ないことだけど。これで、いよいよどうすべきか、冷静に深呼吸しながら考えをまとめた。 じゃあね!とスマホに入っている全ての『木田裕也』を一挙に削除した。
イニシャルKY、正真正銘のKYだなとオチがついたところで、室内全てのKY処分に取り掛かった。けれど付き合った7年の歳月は決して無駄ではなかった、そう思いたい。本来、英世はポジティブなのだ。別れの直後は混乱して自己肯定感が皆無に等しいレベルまで落ちてしまっていたが、今はそれが回復しつつある。きっといつかは「ありがとう」と言える日が来ると、そんな自分を信じることに決めたのだった。
気持ちも部屋もさっぱりして、明るい日々が流れる。そんな幸せをサスケが運び込んでくれたのだと、英世はサスケに語る。瞳を見て、心から。
それから季節が進みーーー春。いつだったか、テレビでみたペット用のケーキなるものを英世はホワイトデーにサスケへプレゼントした。何だかなって思ってごめんなさい、けっこう喜んでくれたんだよ。そんな後日談を葵に話す機会もあった。
更に進みーーー夏。噴水のある公園で一緒に水遊びをして、はしゃぎすぎて周りに引かれた。見かねた葵の提案で彼女と彼氏さんの車に便乗して海へ連れていってもらって波と戯れた。日焼けが痛いがサスケが元気ならまあ、いいか。かき氷を一緒に食べた。サスケはシロップなし。
現在ーーー秋。こうして英世とサスケの平和な暮らしが現在まで続いている。そして秋の風が少しずつ深みを増してきて、朝晩は肌寒さを感じる季節がやって来た。サスケと行きつけの、駅近くの公園は、奥に歩みを進めると季節ごとの花や木が楽しめる自然豊かな公園だったと、サスケの散歩コースを探索していて知ることとなった。先週までそこで大きな銀杏の木々が鮮やかな紅葉を見せていた。今は黄色の葉っぱたちは秋の乾いた風に誘われたなら、抗うことなくひらひらと地上に舞い降りて美しい葉っぱのじゅうたんを表現している。風が集まりと盛り上がっているところを目掛けて、サスケが勢いよくダイブする。舞い上がる黄色が楽しい。かき集めた葉っぱをサスケにわざと振りかけたりして、つい夢中に遊び過ぎていると、傍を通り過ぎるウォーキングや犬の散歩をする人たちが、ちらりとこちらを気にする仕草が目に入り、通り過ぎるまでちょっぴりトーンダウンすることにした。
たっぷり遊んだこの日の夕方、次の休みは何して遊ぼうか、とサスケに相談しながら少し遠回りして帰路についた。「…ォン」この頃、サスケは喋るように声を出す。実は喋っているのかもしれない。「おはよう」「ちょうだい」は音数が合っていて驚きなのだ。暫く歩いていると、ふいにサスケが何かを見つけて立ち止まり、一点を凝視している。しゃがんでよく見てみると、植物がすっかり枯れてしまったのだろうか、枯れた茎と土が入ったままの植木鉢の陰にキラッと光る何かが落ちている。誰かの家なのかと、英世は立ち上がり視線を上にする。どうやら骨董品を扱うお店のように、見える。というのは、営業している気配が全く感じられず、文字の消えかけた看板がそれらしい雰囲気を醸し出していたので、そう判断しただけだ。「行くよ」とサスケに声をかけた。だがサスケは落ちている光る何かに夢中で動こうとしない。「もう、なんだろうなあ~」そう言って英世はサスケの視線の先のものを拾い上げてみた。どう見てもおもちゃの指輪のように見えるそれは、リングにビーズのような丸い球が付いていて、それが夕日に反射してキラキラと虹色に輝いている。「わあ、きれいだね、サスケ。」「くうん。」手にしたおもちゃのリングをふたりで暫く見入っていると、なぜだか元の場所に戻されるのをリングは嫌がっている、英世はそんなふうに感じ始めた。「これ、捨てられたのかな?」リング部分の土の汚れを丁寧にティッシュでふき取って、サスケの首輪のチャームに加えてみた。「ん、いいね。」英世がほほ笑む。サスケも同じく笑った、ような顔をした。
この頃はお布団の中が幸せで……。サスケが元気に起こしてくれるけど、やっぱりこの暖かさの誘惑にはなかなか抗えず、グズグズと出るのを先延ばしにしてしまう。そのうちに二度寝の誘惑、睡魔が襲ってきた。ーーーーあ、と突然思い出した。そうだ、今朝は早めの会議が他の支店であるんだった!ヤバい!遅刻する!慌てて飛び起き、身支度をする。出かける間際にざざっとサスケのお皿にドッグフードを入れて、いってきますと英世は玄関を飛び出した。
最寄り駅から地下鉄へ電車を乗り継ぐ。地下鉄の改札は階段を降りねばならないが、これが地味に遠い。それなのに今日は入口にいつもより多い人だかりができている。どうやら何か揉めている様子。怒声が聞こえたが私も叫びたいくらい急いでいるんだからと「すみません!通してください」と人混みをかき分けて階段を降りかけた瞬間、誰かに突き飛ばされた男性が英世にぶつかった。あぶない!と手すりを掴もうと手を伸ばすも、虚しく空を掴んだだけだった。英世の視界がぐるんと回り、次の瞬間暗くなった。
「キャーーー!」と大勢の、誰かの絶叫を聞いた気がする。意識を手放す最後の瞬間にそんなことを思った。
うん……、なんか全身がだるい、重くて、痛い。意識が段々とはっきりしてきた。どうやらどこかに寝かされているようだ。ここ、どこだろう。目を開けようとするが、目元になにか貼ってあるのかちゃんと開かない。「英世」とトーンを抑えた葵の声が聞こえた。「よかった……。英世、階段から転落して。ここは病院だよ」そうか、あの時階段から落ちたんだ。「…会議は」あれ、声が出にくいな。「昨日から意識不明で、、心配したよ。会議は大丈夫だったから。」葵がぎゅっと手を握り締めてきた。「打撲と骨折、全治二か月だって。」葵の涙声、久々に聞いたな。どうりで包帯ぐるぐるなわけだ。ちょっと会社に連絡入れるからと葵が病室から出た入れ替わりで、医師と看護師が診察に入ってきた。簡単な事故状況と怪我の診断内容の説明を聞いた。幸い、頭に目立った外傷はないものの、もしかして頭を打ったことによる脳の損傷がどうなのかが気がかりだったようで、まずは名前や住所、生年月日なんかを質問された。一通り簡易的な検査が終わり静かになったなと考えていたら、とても重要なことを思い出した。
「サスケ!!」
ああ、今日は時間になっても待ち人の靴音がしない。
玄関先に座ってサスケは更に周りの音に集中する。お腹も空いてきたし、水は残り少ない。そんなことよりハナヨに会いたい。
マンションの住人の靴音を聞くたびにソワソワして立ち上がり、違うと分かると部屋を一周してからまた玄関先でじっと耳をすませ待つ。
ハナヨ…早く帰ってきて!「クーン…」鼻の奥から切ない声が漏れる。
ーーーあれからどれだけ経ったのだろう。
真っ暗な部屋の窓から満月の白い月明かりが差し込んでいる。外に出られるならハナヨを迎えに行けるのに…。
サスケは窓辺に行き、まん丸のお月さまを見つめ、一向に帰ってこないハナヨを思い、彼女の名前を力いっぱい呼んだ。
「ハーーナーーヨーー!!!」(わおーーーん!!)
何度も何度も絶叫したーーー。
その何度目か、突然スポットライトのような強烈な白い光がサスケの体を包み込んだ。何だか首のあたりから発光してるのか異様に眩しい。光で目が眩んで思わず目を閉じるサスケ。その光はやがて虹色に変わり螺旋を描きながらクルクルとサスケの周りを回り始めた。その光がサスケの体の輪郭と合体したーーー途端にふっと消えた。
一体何が起こったのか?光が収まりサスケはそっと目を開けると、足元に何か落ちているものを発見した。小さくて丸いその一粒から、それはそれはおいしそうな匂いがする。そういえばこの前ハナヨにお預けをくらった“ラムネ”という食べ物に似ていると、空腹のサスケはためらいなくパクっとそれを飲み込んだ。ん~?味しない。けれどその“ラムネ”が体の中のどの部分にあるのかが、分かる。最初は喉元から、そして顔や頭が温かくなった。次は肺の辺り、お腹、最後はしっぽや手足の爪先まで温かさを感じる。
そんな熱感もほんの数秒のこと、すぐに治まって、またサスケは空腹と喉の渇きを感じ始めた。
お腹が空くとハナヨはキッチンに行って冷蔵庫を開けている。同じようにサスケもやってみることにした。
「あ、開いた!」
作り置きのおかずがいくつも入っていた。おいしそうだ。何でもいいからお腹に入れたくて、ハナヨがいつもやるようにタッパーを開けてみた。案外できるものだ。いろいろ食べてみる。チーズや魚肉ソーセージも見つけてそれらをかぶりつき、あっという間に間食した。
横のドアポケットにペットボトルの水を発見したので、これもハナヨのまねをしてキャップをねじってみた。ゆるく閉めてあったのか結構簡単に開いたので早速喉の渇きを潤す。
ーーー空腹が満たされると体に力がみなぎっているのを実感する。それじゃあ大好きなハナヨを探しに行くぞー!と玄関へ向かう。
サスケの何倍もある大きく重たいドア。さて、これがさっきの冷蔵庫みたいに開けられるのか。一か八か、いつもハナヨがやるようにドアのレバーに手をかけてみた。ガチャ…
あ!開いた。しかも簡単に。そのとき、サスケは身体の真横から視線をビビッと感じで咄嗟にそちらを向いた。ーーそこにはいつもハナヨが出掛ける直前に髪型をチェックするための鏡がかけてあるーーに見たことのない人間がこっちを見ているではないか!
そいつは臆することなくサスケをじーっと見つめている。サスケも負けじとそいつを睨みつけた。しかし不思議だ。敵意を感じない。しかもそいつの髪の毛はチョコレート色でオレと全く同じじゃないか。身に付けている服も首の輪っかにも既視感がある。
「オマエ、ダレダ?」と尋ねると、そいつも同じ質問をしてきた。へんなのと首をかしげると、そいつもまた同じ動作をする。この!真似ばっかりして!と思わず鏡に触れるとそいつと手が重なった。人間の手が!
ハナヨがオレを撫でる手の形と同じ人間の手。それが今の、鏡に映っているのが自分の姿なのだと自覚するのに暫くかかった。「…ナンジャコレハ!」
しかし悠長に構えている暇はない。そんなことより帰って来ないハナヨを探さなくてはと、サスケは猛ダッシュでハナヨの匂いを辿った。
「葵、申し訳ない!」と英世は両手を合わせて葵に頭を下げる。
サスケのことが心配で葵に様子を見てきて欲しいと頼み込んだところだ。
葵は、何なら入院中うちでお世話しようか?と言ってくれたのだが、いやいや、ペット禁止でなかったかい?と英世がツッコミをいれてこの話は終了した。なので、入院中は会社帰りにでも葵にマンションを覗いて、サスケの水とごはんとトイレのお掃除をお願いをしたのだった。
「英世よ、私に足向けて寝れんな」「ははー!葵さま~」
「アホなことしとらんと、もう帰ります~、またね」
「うん、ありがと!」
葵が出ていくと病室はまた無機質な空間となり、英世の頭はサスケのことでいっぱいになるのだった。
「見つけた……ここだ…。」
息をハアハアと切らして、英世が転落した地下鉄駅から一番近くの病院の前にサスケは立っていた。英世がここに居る。ふうっと一回、大きく深呼吸をしたら完全に息が整った。
病院の入口からすぐ脇にある階段室を迷わず駆け上がる。色んな匂いが入り混じってはいるが、大好きなハナヨのあまい匂いを間違えることはない。
それはまるで赤い糸ーー英世からサスケへ、サスケからハナヨへとしっかりと結ばれ、それをお互いが手繰り寄せているかのようだった。
いちばんハナヨの、あまい匂いが強い部屋を見つけてドアを開けた。
スルッとひと言の断りもなく開いたドアに驚き、さらにドアの前に立つ見知らぬ青年に二度驚いた英世。
「ハナヨ~!」と自分の名前を叫びながらその青年は駆け寄って来て、包帯ぐるぐるのハナヨの身体を思い切り抱きしめた。
「っ!痛いー!」強烈な痛みに顔が歪んで思わず涙がちょちょ切れた。
「ゴ、、ゴメンナサイ!ネエ!イタイノ?イタイノ??」
見知らぬ青年は狼狽してすぐに英世から離れ、ひょいと距離を置いた。小刻みに震えながら、今にも泣きそうな顔をしている。
青年から目を離さまいと、英世は無理な体勢の痛みに耐えながら後ろ手でナースコールを探す。
そこでふと、キラッと光る、既視感のあるものが目に入った。
「あ、あなたのそれ、その、首の、なんですか?」
よく見ると、その首のものだけではない。着ている服も何だか見たことがあるのだ。というか…「サスケとお揃い?」
その言葉でその青年は潤んだ瞳を大きく見開いて英世をさらに強く見つめ、バタバタとその場で足踏みをして喜んでいる。
その姿はーーーまるでサスケだ。
英世はナースコールを押すのを止めて、ゆっくり呼吸をしてこの青年と話す準備を整えながら、彼の身に付けているものをじっくり観察してみた。
そのブルーのチョーカー、そこについているネームプレートみたいなものとおもちゃの指輪らしきもの。
ブルーのボーダーTシャツとベージュのパンツ。これは事故前にサスケに着せた服と同じ色と組み合わせだ。
何より髪の毛がサスケを思わせるチョコレート色。
丸いブラウンの大きな瞳はサスケを思い出す。
ムムム……。
「あなた、名前は?」
「サスケ」
「どこから来たの?」
「ハナヨ」
「その首のチョーカーはどうしたの?」
「ハナヨ」
「服は?」
「ハナヨ」
「あのね、それじゃ分からないよ?」
思わずイライラして口調がきつくなった。
それを聞いた青年は泣きそうな声で
「ハナヨ、ハナヨ、ダッコシテ……」
と小さくその場にうずくまった。まるで怒られたときのサスケのよう。
「お、大きな声を出してごめんね。えっと、泣かないで?」
それを聞いて青年はすっと顔を上げてにっこり笑う。
英世は小さくため息をついて「今日はもう帰りなさい。」
「また来るよ」といって青年は案外あっさり病室から出て行った。
帰宅したサスケはいつの間にか身体は元の犬に戻っていて、英世の匂いを纏うように、彼女のベッドで丸くなって眠った。
英世に会えたのは嬉しかったが、まさか自分が拒絶されるなんて青天の霹靂だったから、悲しい思いが残ってしまっていた。
何となく元気が出ない。動きたくない。
そこへカツカツとこちらに向かってくる足音が。
耳をたててよく聞いてみる。
ドアの前で止まり開錠の音がする。誰だ!
「ワンワンワンワン!」
「あー、サスケ、吠えないで~。ほら、ごはんの時間だよ」
と葵が部屋に入ってきた。
「このひと、知ってる!嬉しい!」
ハナヨとの約束どおり、葵がサスケのお世話にやって来た。
ごはんやトイレの清掃のあと、手を洗いながら、
「今日はあんたを着替えさせてって頼まれたんだよ。」
とサスケ専用の引き出しを開けて服を取り出した。
「白シャツに赤パンだって。サンタさんみたいだね!」
笑いながら葵はサスケを着替えさせ、さっさと帰って行った。
部屋が急にしーんとなり、サスケは余計寒さを感じた。
「ハナヨ、会いたいよ…」呟きはだんだんと大きくなり、また窓辺から見える月に向かって「ハナヨーー!」と叫ぶ。
するとまたいきなりサスケは眩く強烈な光に包まれた。虹色のそれは昨日と同じくすぐに収まり、また丸いラムネ玉がこんどは二粒落ちていた。
サスケは幸いお腹がすいていなかったので、それを口にするよりも
「何だよ、コレ?」とラムネ玉に文句をつける。
すると「お礼だよ」と返事があった。
どこから聞こえたのか、部屋中をキョロキョロ見渡してみるが、誰の気配もない。気のせいかなと思っていると「食べなよ」と謎の声がする。
「誰?」と恐る恐る聞いてみると「ひみつ。私のことは誰にも話さないで」とすぐに返ってきた。サスケの訝しげな様子をみたのか、その声は
「拾ってくれて、大事にしてくれた、そのお礼だから」
あれ!この声はサスケの首元から聞こえてくるではないか。
首輪に付けたチャームの指輪。しかも、ほんのりと明るく発光している。
「このラムネ玉はなんなの?」サスケは指輪に聞いた。
「叶え玉とでも言おうか。とても強い思いに反応する。」
「強い思い?どんな?」
「君の愛。」
サスケは難しいことを告げられたような、あまり上手に理解できなかったが、それでも何だか体がほっこり温かくなったので、指輪が喋ったことをすっかり忘れ、ハナヨのベッドでまた丸くなって眠った。
~英世のスマホ 受信メッセージ~
サスケのお世話完了!異常なしでした。
服もご指定の紅白サンタさん仕様にしたよ。
葵
朝、再び英世の病室のドアの前に立つサスケ在り。
ラムネ玉をひとつ飲み込んで、昨日と同じく英世に会いに来た。
今日は英世をびっくりさせないように、そっと音を立てず傍にいようとドアを開けるまでは心底そう思っていたのだが、いざ眠る英世を目の当たりにすると飛びついてキスをしたい衝動に駆られて葛藤している。
嫌われることのほうがいやだと悟ったので、最初に思った通りじっと我慢のコでちょこんとベッド足元に丸くなり、英世が目覚めるのを待つことにした。
ーーーどれくらい経ったのか、英世がゆっくり目を覚ました。ああ、よく眠れた。喉が渇いたので水を飲もうと、電動ベッドのスイッチ操作してゆっくり背中を起こした。するとベッドの足元の隅っこに、チョコレート色のもふもふを発見した。
「サスケ…?」ではない。昨日の見知らぬ青年だ。スヤスヤと安心しきって眠っている。そしてあることを思い出した。
サスケの服は“サンタさん仕様”だと。
今自分の足元で眠っているこの青年は、正にこの格好をしている。
しかもちょうどこの角度からブルーのチョーカーのネームプレートがひっくり返って何と書いてあるのか確認できた。
「うそ!!」と言葉になる前に、無傷のほうの手でしっかり口を覆った。
『景山サスケ』
紛れもなく、英世自身が書いた文字。これは夢だろうか。サスケと離れるのが寂し過ぎて頭がどうかしてしまったのかもしれない。
スヤスヤと自分の足元で、身体を九の字に曲げて眠るこの背の高い青年が、もし本当にあのサスケならいいのになどと、違和感なく思う自分自身に驚いた。この青年を追究することはしないでおこう。私を心配してお見舞いにきてくれる心優しき青年と決めて、また英世は眠ることにした。
月日が流れ、英世が入院して一カ月半が経った。
クリスマスもお正月も入院中で、世間の喧騒がテレビからしか伝わらないかもと思っていたのに、葵や会社関係、家族も入れ替わりでお見舞いにきてくれたので、にぎやかに過ごすことができた。
それに幸い経過が順調で本格的な脚のリハビリが始められそうだと医師に説明を受けたのも嬉しい知らせだ。片腕は早々にギプスが完全に取れていろいろと自由が効くようになったのも嬉しい。
あれからーーー一日も欠かすことなく“謎の青年”は姿を現し、いつの間にかいなくなる。英世の話をにこにこと笑って聞いて、眠くなったら彼女の傍で眠る。これが彼女にとってなりよりの心のリハビリだった。
二月。ようやく英世が会社へ復帰を果たした。もう絶対入院はコリゴリだから、サスケと必ず毎日公園へ出かけてはベンチに脚をかけて入念にストレッチするのをルーティンとしていた。
そんなある日の休日、いつもの公園でいつものようにベンチに脚をかけストレッチしていると、前方からリードを引きずって疾走しているチワワがこちらへ向かってくる。その後ろから「はーーなーーっ!」と叫びながら追いかけてくるご主人さまらしき人の姿。その“はなちゃん”は英世の前で急にUターンし、ご主人さまのほうへ向かうやと思いきや、こんどは右に左にターンを繰り返し、ご主人さまを翻弄している。それを見てテンションが上がったサスケが“はなちゃん”に合流し、一緒に駆け回り始めた。
そのうち段々と彼らの姿が小さくなる。目の届かない場所へ行くと危険かもしれない。
「サスケ!」呼び戻すと全速力で戻ってくるサスケ。少し遅れて意気投合した“はなちゃん”も一緒に英世のほうへ駆け寄ってきた。
先にサスケのハーネスにリードを取り付けて英世の左手に巻き付けると、
「よし!ゲットーー!」と“はなちゃん”が引きずっているリードもサッと掴み、右手にくるりとひと巻きした。当の本人“はなちゃん”はサスケとクルクル回ってじゃれあっているので、捕獲されたとは気づいていなかったのだ。「すみませーーん!」と片手を上げながら、やっとご主人さまもこちらへ駆け寄ってくると、それに気づいた“はなちゃん”は、またいたずらっ子の顔を見せて逃げようとした。が、英世は軽い力でこちらクイっと引っ張り“はなちゃん”の動きを制限した。
「どうぞ」と右手のリードをご主人さまに渡す。するとまだ2匹は遊び足りないのかお互いの周りをくるくる回り、またリードが絡まってしまった。
「ああ、すみません!」と連呼しながら、二人のご主人さまはそれぞれの犬を抱っこして、やっとリードを元通り解いた。それがなんか可笑しくて笑ってしまうと、つられて“はなちゃん”のご主人さまも笑った。
帰りながら「私もはなちゃんなんですよ」などと少しだけ世間話をして
「また会えたら遊んでくださいね」と軽い約束をして別れた。
翌日の公園、英世はサスケとルーティンのストレッチをこなしていると、背中の方から「こんにちは」と声がした。振り向くと昨日の“はなちゃん”とご主人さまだった。早速の再会に自然と笑みがこぼれる。
「もしよかったら、この近くのドックカフェに行きませんか?」とのお誘いに、英世は「いいですよ」と快い返事をした。
こんな近くにおしゃれなカフェとドッグランがあったとは!
感激しながらカフェの席についた英世は、物珍しさでキョロキョロ店内を見渡す。英世とは反対にサスケはいい子で座っておやつの登場を待っている。
なにこのギャップ!英世はやっと自分の落ち着かない様子に気が付いて上目遣いに肩をすくめた。
“はなちゃん”のご主人さまこと『山本英太』さんと、この日たくさんの話をした。同い年で、名前の漢字も“英”があること、意外とご近所さんで、なんとあのペットショップにサスケがいたことも知っていたのだ。
自分はすでに”はな”がいたから、どうにか友人知人で里親希望者がいないものかと奔走していたところだったらしい。
だからあの公園で元気に駆け回るサスケを見たときに、すぐにあのペットショップに居た犬だと確信してとても安心したのだと。だから英世さんありがとうと頭を下げて感謝の言葉までいただいてしまい、英世は逆に申し訳ない気持ちになった。
「私のほうがサスケに助けられたんです。」
今までの話から彼は誠実で優しい人なのだと直感したので、英世は、酷い恋愛をして傷心だったこと、事故で入院してサスケにも皆にも支えてもらったことなどをゆっくりと英太に話した。英太も素直な気持ちを語る彼女の話にじっくり耳を傾けた。
そして最後に「もうしばらく恋愛はいいかな。」と伏し目がちに呟いた。
夕食を終えてのくつろぎタイムにサスケと一緒にテレビを見ていると、バレンタインデー特集なるものをやっていた。英世が自動的に一つ年を取る日だ。あと数日で30歳。そうか、30か。またいらんことを思い出してしまったと後悔したが、そのテレビで紹介しているパティシエチョコレートが何ともおいしそうに思えて、30だし、自分ご褒美チョコレートだからいいよねってサスケに話しながらテレビを消した。
翌日の会社帰り、早速パティシエチョコレートを調達しようと、この辺りで有名なスイーツショップに足を運んだ。
英世の会社のほうは、お返しが大変だからと男性社員への義理チョコ禁止令がでているので、葵と自分用、あと山本英太さんの友チョコを見繕いに店内を見て回る。
テレビで特集していたチョコレートはさすがにないけれど、おいしさが素直に伝わるようなシンプルなものが欲しいなどと考えていたら、オーガニックチョコレートバーなるものを発見した。「これだ!」
赤いリボンでラッピングしてもらい、小ぶりでかわいい紙袋に入れてもらった。よし!案外近くにいいお店があってよかった。これにチョコに合うお酒なんかも選んじゃおうかな、なんてご機嫌で家路を急ぐ。すると前方から見たことのある顔のスーツ姿の男性がこちらに歩いてくる。
「あれ、山本さん?」
「あれ、景山さん!こんばんは」
どちらも見慣れない服装にちょっと照れくさい。
「景山さん、今お帰りですか?いつもこの道を?」
「いえ。今日はちょっと買い物を。あ、そうだ。もしよろしければ、ちょっと早いですが、これもらってください。」
さらっと軽い感じに明るく、3つの紙袋のうちのひとつを彼に差し出した。大きな赤いハートマークがかわいい見た目に、英太は中身を察した。
「…いいんですか?僕にですか?」
この状況で他に誰がいるのだろう。もしかして迷惑だったのかなと思い、少し手を引っ込めた。
「や、あの、自分用にも買ったんですよ。バレンタインが誕生日だから。あはは。本当によろしければです、けど…」
テンパって余計な情報も口走った。
「え!誕生日なんですか?それは…どうしよう。」
あらら、しまった。なにが大事になりそうな予感がする。それよりも一旦持ち上げた紙袋を持った手を、先にどうにかしたいと英世は思った。
「あの。これ。」
「あ、ありがとうございます!そ、それで…」
英太はふうっと深く呼吸して英世を見つめて言った。
「これは本命と思っていいですか。」
「え?」と思うや否や、ちょっと移動しましょうと手を掴まれて、英世は引っ張られながら歩き始めた。
ハイヒールで走るのはお手のものの英世だが、さすがに引っ張られながらは転びそうになる。「やっ!」
英世のその声に、はっと我に返った英太は振り返って立ち止まり、バランスを崩した彼女を自分に引き寄せて支えた。
「すみません!大丈夫ですか?」
抱きしめられた英世はとりあえず頷いてみせた。
「あ、すみません!」
今度は抱きしめた英世をパッと解放して少し後ずさって謝罪する。
そんな謝ってばかりの英太がかわいく思えてクスッと笑ってしまった。
そして気が付けば、昼間とは表情の違ういつもの公園の入口にいた。
「ここ、クリスマスと年末年始とバレンタインとホワイトデー、最後に桜まつりまで期間限定でライトアップやってるんです。」
へえー、知らなかった。「素敵ですね。」英世の顔が輝く。
「少しだけ、歩きませんか?」
英太は手のひらを彼女に差し出し、そっと英世は重ねた。
優しく手をつなぎ、ライトアップがよく見えるベンチにを見つけてふたりは腰を下ろした。キラキラ輝く照明に見入っていると、英太が英世のもう片方の手も取った。英世が英太を見て目が合うと、彼は言葉を紡いでゆく。
「実は、初めてサスケくんの散歩をしている姿を見かけてから、いいなと思っていました。それから入院中の間、それ知らなかったので、どうしたんだろうとずっと気がかりで。で、今月”はな”のおかげでやっとあなたに声をかけられて、それで友達になれた。それであなたの人柄に、更に好感が持てました。辛い経験をされたから休憩時間が必要かと思いました。でも僕はあなたが好きです。悲しい思いは絶対にさせません。だから結婚を前提に、僕と付き合ってくれませんか。」
英世は少し沈黙した後、静かに聞いた。
「もし、今はそう思っていてくれたとしても、いつか性格の不一致に気が付いて私を嫌いになるかも知れないよ?」
英太も優しくその問いかけに応える。
「君の悲しみは僕の悲しみ。君の喜びは僕の喜び。景山さんとならそんな風に響きあえると直感したんだ。だから性格の違いを探して比べるなんて、しなくていいと思う。」
そうか、そんな考えの人もいるのね。心の底にこびりついて、こだわっていた黒い影が光に変わったと英世は感じた。
「はい。よろしくお願いします。」
英太の顔がぱあぁと明るくなって、英世を思わず強く抱きしめた。
「…じゃあ、散歩姿を見てってことは…」
「はい。一目惚れ、です!」
輝くイルミネーションの光の中で、物語のようなキスはそれはそれは甘く。
二月の、吹く風はまだ冷たく感じるけれど、春の息吹を確信するふたり、
ここに在り。
そうそう、サスケの不思議な光る指輪の話は、またもう少し後のお楽しみ。
【了】
