【小説『われても末に』】1 暗い川
イリアは、後ろ手縛りになっていることに気がついた。
馬車は止まらない。
白い月だけが、窓の外を流れていく。
――もう、姉は味方ではない。
随分長く眠らされていたようだ。顔を動かさないようにして、横目で隣を見ると、姉のコーネルが馬車に揺られながらうとうとまどろんでいた。
服の袖に隠してあった小刀を、手の中にそっと落とす。国王の父にもらった、大事な黒青石の小刀。
コーネルの首がかくんと前に倒れている。完全に眠ってしまったようだ。イリアは手の中で、小刀の刃を縛る縄に当て、身体をそっと動かしてみる。手のひらに汗が滲む。刃が縄に食い込むたび、馬車が大きく揺れ、音を立てそうになる。心臓の鼓動が速くなった。
どうして、こうなだてしまったのか。
日は遡ること、数週間前。
イリアは、大事な話があるとのことで、国王の父に呼び出された。父の隣には、長女のコーネルとその夫オルバニがいる。嫌な予感がした。
「イリアももう十五でしょう。縁談を考える時期だわ」
コーネルの声は、柔らかく、逃げ場がなかった。
父のレイア王は何も言わず、頷くだけだった。イリアとは、目を合わせようとしない。
「相手は、私の弟、北の国の第三王子バーガンディだ」
オルバニの言葉を聞いたその瞬間、イリアは悟った。
これは相談ではない、と。
「うちは、中立国です。そんなことをすれば、どうなるかはお分かりでしょう?」
姉たちはすでに、北と南に差し出されている。
自分まで北に渡れば、この国は、二度と戻れない。
それを、父も姉も承知のはずだと思っていた。
「あなたは、国の政治の心配なんかしなくていいのよ」
「でも……」
そこへ、オルバニがまあまあと、イリアを宥めるように手を上げた。
「イリア殿は、突然こんな話を持ちかけられて、混乱しているのでしょう。もう少しゆっくりお考えになっては……」
オルバニの言葉が終わるやいなや、イリアはお辞儀もせずに踵を返して部屋を後にした。
部屋を出た後、扉の向こうから姉たちの声が聞こえてきた。イリアは、そっと扉に耳を押し付けた。
「イリアったら、どうしてわかってくれないのかしら」
姉の声が聞こえる。先程の優しい声とは違い、尖ったような響きがある。
「リベリオの属国になれば、アイナンはもっと豊かで強い国になれるのに」
「イリアにも、催眠術を使おうか?」
「お父様にも使っているのに、2人も無理でしょう」
催眠術――。
その言葉だけが、耳の奥に残った。
イリアはその場をそっと離れた。
どうしていいかわからず、次女のリリカの部屋へ向かった。年が離れたコーネルと違い、リリカは年も近く、小さいときから、よく一緒に遊んだ仲だったので、親しみを感じていた。
「どうしたの?」
リリカの顔を見るなり、イリアは泣きそうになった。イリアは、先ほど起きたことを全て話した。ただ、催眠術のことだけは、怖くて話せなかった。
「あなたの考えていることは、もっともよ」
リリカは、イリアの手を握った。リリカの手は温かく、イリアの胸の奥まで染み込んだ。
「リリカお姉様なら、どうする?」
「私なら……自害するわ」
迷いのない声だった。
リリカは微笑んでいる。あまりにも優しく、あまりにも迷いのない笑みだった。その微笑みに、イリアは逆らえないような圧力を感じた。
その後、不可解なことが続いた。
侍女が毒殺された。
――次は自分だと、はっきりわかった。
コーネルは激怒した。
「イリアはこれから輿入れをするというのに、一体どこのどいつがこんなこと……」
リリカは、ひたすら両手を組んで祈りの言葉を唱えていた。イリアの目には、そんなリリカの妙に穏やかな顔が不気味に映った。
「イリア、早くリベリオへ嫁に行きなさい。その方があなたのためよ」
コーネルの目は怒りで燃えていた。
「でも……」
イリアが抵抗するのを、コーネルは許さなかった。
「いい?今晩にでも出発よ」
その声と同時に、誰かに後ろから羽交い締めにされ、眠り薬を嗅がされた。一気に目蓋が重くなり、そこから先の記憶がない。
目が覚めたときには、両手は後ろに縛られ、馬車に揺られていた。
手を縛っていた縄が緩んだ。上手く縄が切れたようだ。
馬車はスピードを緩める気配はない。窓の外を見ると、川にかかる橋を渡っているところだった。チャンスは、今しかなさそうだ。
一瞬、父の顔が思い浮かぶ。
(お父様……)
内側から扉を押し開け、イリアは自ら川へ身を投げた。何とか水面に顔を出すと、上が騒がしい。思ったように泳げない。冷たい水が、息を奪った。イリアはそのまま暗い川の奥へ流されていった。
