僕の70年代ファッションメモリー3
話が多少前後するが、僕が小学校の高学年のころ、NHKで放送されていた「刑事コロンボ」が人気を博していた。
主人公の刑事コロンボを演じるピーターフォークの快演や、悪役俳優といったイメージの小池朝雄の名吹替もあって「うちのかみさんがね」というセリフはバラエティ番組なんかで盛んに使われたものだ。
刑事コロンボは犯人が最初に罪(殺人)を犯すところから始まるいわゆる倒叙ものといわれるものだが、そのパロディ版とも言えるのが、古畑任三郎ということになるのだろうし、私が敬愛する大倉崇裕は古畑任三郎ファンだそうなので孫弟子のようなものか。
ピーターフォークは、映画俳優としては大ヒット作はなかった(でも何作か観ている「名探偵登場」とか「カリフォルニア・ドールズ」とか)けれども、かなり沢山の作品に出ていることが(今Wikipediaを見て)わかった。
僕などは他の役柄を見てもどうしてもコロンボを探してしまう、だけではなく小池朝雄の声も探してしまうので、コロンボ以外の作品での俳優としての魅力は感じられなかった。コロンボの人気を受けて、紳士服のオンワード樫山、マッケンジーのCMにも登場したが、小池朝雄のくぐもったような声ではなく、ご本人のやや甲高い声に違和感を覚えるほどだった。(大人気のピーターフォークをCMに起用することで、オンワード樫山の株価が6円上がったとデイリー新潮のサイトに書かれている。ほんとかね?https://www.dailyshincho.jp/article/2025/08161102/?all=1&page=2
というあたりが長い前置きで、実はコロンボが終了後、はじまった「警部マクロード」の方が僕に大きな影響を与えることになったのだ。緻密な推理劇とコロンボの人情味が魅力だった前作に比べると、ニューメキシコの保安官が研修で来ているニューヨークの街を馬で疾走するような活劇が中心の刑事物だった。宍戸錠が吹き替えた「警部マクロード(スピルバーグの出世作『激突!』のデニスウィーバー)」はコロンボほど人気を集められなかったように思う。実際僕もシリーズを通してみることはなかった。(本国では人気で7年続いたらしい)しかしである、このシリーズの最初のころ、まだ興味を維持していた数作(第3作くらい?)のエピソードで、マクロードに振り回される、田舎町の気のいい保安官助手役か何かで歌手ジョンデンバーがゲスト出演していたのである。しかも二曲ぐらい劇中で歌ったのだ。中学生になっていたのか、なろうとする時期なのかは定かではないが、南こうせつの髪形を「真空ジェシカ」のガクにしたような冴えないカントリーボーイのジョンデンバーだったが、当時のヒッピー文化の名残とバックパッカーブームの到来にぴったりとマッチした登場でもあったのだ。チェックのシャツにダウンベスト、それか、ウールのハイネックセーターにマッキノクルーザーにブルージーンズにマウンテンブーツ。↓こうしてみるとなかなかのスタイルなのね。
「太陽を背に受けて」はビッグジョンのCM曲にもなった。アルミフレームの背負子型バックパック(と呼ぶのか?)に子供を乗せて夫婦でアメリカの自然を歩くようなイメージ。中一の林間学校の帰りの日に、ジョンデンバーのコンサートがあり、大井町の駅前で解散になってから家まで走って帰ったのを覚えている。武道館の上の方の席でジョンはとても小さかったけど、はじめて自分でチケットを取っていったコンサートがこれである。どちらが先だったかは定かではないが、中一で初めてやったバイト(近所の電気工事屋の倉庫整理)のバイト代はジョンデンバーの2枚組ベストアルバム『ジョンデンバーゴールドデラックス』購入に使った。よく聞いた。自分で働いたお金で買ったレコードだもの。
https://omimi.biz/products/detail/16678
ジョンデンバーについては、中学の途中で茨城県に引っ越した時に同級生になったアメリカとのハーフの女の子とジョンデンバー好きが共通で仲良くなった思い出がある。でも、ジョンデンバーから始まった淡い恋心は、シンガーのフェイドアウトとともに消えて行ったのです。
東京時代に戻ります。このころ通い始めた学習塾のバイト大学生の先生は髪をアフロみたいにしていて、ブリーチアウトしたベルボトムジーンズにTシャツという恰好だった。街中で見かけるとびっくりするほど背が高かったのだが、おそらく当時はやったヒールの高いブーツを履いていたのだろう。塾は靴を脱いで上がるスタイルだったので。
僕は同級生の中では背が高く比較的ふとももも太いこともあって、自分がベルボトムを履いた時に上から見た感じがすごく嫌で、ベルボトムは一本も持っていなかった。このころは前にも書いたと思うがスリムばっかり履いていた。シューズは何を履いていたのかなぁ。まだアディダスなんて世の中にそれほど出ていなかったころである。信じられないでしょ?ちなみに当時のサッカー専門誌イレブンにサッカー専門店の広告などがあったが、PUMAのことをピューマと書いているところすらあったのです。
前述の駒沢競技場(第二競技場?)で毎年夏休みに開催されていた東京都のサッカースクールに来ていた、本気でやっているサッカー少年たちは履いていたかもしれないけれども、当時のサッカーシューズは国産のYASUDAかMITSUNAGAだったと思う。僕は三菱ダイヤモンドサッカーからの、サッカー好きだったけど、部活動は学校になかったし、クラブチームも近くに無かったので、所属はしておらず、スパイクは履かずに何かの運動靴で参加していたと思う。
はじめてアディダスのシューズを購入したのは、茨城県に引っ越したころ、確かワインカラーX白のバックスキンモデルAtheneだったと思う。確か7000円台、同じころ出ていた白のスムースレザーのローマが1万円位でお年玉の予算的にこちらに。Leeの102ブーツカットと合わせてよく履いた。Atheneは転校先の中学校に履いて行って職員室の前に正座させられたのは、思い出である。一緒に正座させられた同級生の履いていたのはモデルは分からないが、Nikeのジョギングシューズ(黄色にブルー?)なのだが、ソールが前後に巻き上げている上に横のこばも張っている独特の形状だった。正座している僕らを交互に張り倒したなまりの強い社会科の先生が、このNikeのシューズを眺めながら「戦車みたいな靴だなや」とつぶやいたのは今も忘れられない。この中学校では、弟ともどもひどい目にあったので、大っ嫌いであり、今も両親はその市に住んでいるが、僕はそこの市の出身ではない、と言い張っている(笑)。生まれはトキワ荘の椎名町、育ちは大井町である。また一番長く暮らしたのはマレーシアのクアラルンプールなので、某市の出る幕はない、と思ってます(頑なに。)
都会から引っ越していったのが、田んぼや畑が広がる田舎町(当時)なので、ファッションなんて、と思っていたらとんでもない。田舎の子たちは小遣いも潤沢にあり、都内にいたころには知る由もなかったMen’s Clubなどを購読し、隣町のメンズショップに1万円を超えるボタンダウンシャツを買いに行ったりしていたのである。一度同級生に誘われてアメ横に買い物についていったのだが、リーバイスの501の古いデッドストック物を2万円位で即買いしたのである!?(今なら幾ら位なんだろう?)こちらはなけなしのお年玉を握りしめて、「清水の舞台から」の気持ちでChampion Productsのスウェット上下(上はフード、フロントポケット付きプルオーバー型)を確か8000円位で購入した。これはブランドを指定したのではなく、ただただ映画のロッキーバルボアが着ていたあのスウェット(当時は全く無かったのよ)が着たい、というミーハーな感覚だったのだが、アメ横の品揃えでもあの雰囲気を持つスウェットが(予算内では)見つからず、仕方なくの選択でした。Champion Products”なんて聞いたこともなかったし。もちろん同級生たちには股引と笑われましたけどね。ただ生地自体の厚さも、パンツの裾についていたゴールドジッパーのごつさも、個人的には気に入っていました。そういえば、この当時日本で流通していたChampionは”Champion Products”と言ったのだが、いつからかChampionに変わっていましたね。それとともにあの質実剛健な感じは薄れて行ったように思います。
ポパイ、
コンバースオールスター、サザンオールスターズ、銀座Now、Love Love 伝言板、東芝銀座7http://blog.livedoor.jp/dennismoore1988/archives/22666022.html
