cureは病院から始まり、careは発見される前から始まっている
このたびの熊本県で発生した地震により、被害に遭われた皆様に心よりお見舞い申し上げます。
突然の大きな揺れに、不安な夜を過ごされている方も多いことと思います。
2026年7月28日午後4時27分ごろ、熊本県熊本地方を震源とするマグニチュード7.1の地震が発生し、最大震度7を観測した。熊本県は直ちに災害対策本部を設置し、警察、消防、自衛隊などと連携して被害状況の把握を進めている。
大きな地震が起きると、テレビでは倒壊した建物、道路の亀裂、病院へ運ばれる負傷者の姿が映し出される。
もちろん、それは重要な情報だ。
しかし、画面に映っていない場所にも、助けを必要としている人がいる。
一人暮らしの高齢者。
家族や近所との付き合いがほとんどない人。
障害や持病があり、自力で避難できない人。
家具が倒れて動けなくなっても、電話まで手が届かない人。
外から見れば家は立っている。火災も起きていない。助けを求める声も聞こえない。
けれど、その家の中では、一人の人間が遭難しているかもしれない。
このような「自宅内に置き去りにされてる」方がいるかもしれません。
山で遭難すれば、捜索隊が出る。
海で行方不明になれば、船やヘリコプターが捜す。
しかし、自宅の中で倒れている人は、そもそも遭難者として認識されない可能性がある。
避難所に来ていない。
病院にも運ばれていない。
救助要請も出ていない。
そのため、行政や周囲から「おそらく無事なのだろう」と判断されてしまう。
だが、本当に怖いのは、被害が確認された家だけではない。
何の連絡もない家だ。
返事のない部屋だ。
電気が消えたままの住宅だ。
cureは、けが人が病院に運ばれてから始まる。
医師が診察し、検査を行い、骨折や出血を治療する。医療には設備があり、技術があり、制度があり、費用が支払われる。
しかしcareは、それよりも前から始まっている。
「あの人は一人暮らしだったはずだ」
「いつもなら雨戸を開けているのに、今日は閉まったままだ」
「電話をかけても出ない」
そんな小さな違和感に、誰かが気づくところから始まる。
玄関をノックする。
名前を呼ぶ。
近所の人に尋ねる。
連絡の取れない家を一軒ずつ確認する。
それは高度な医療行為ではない。
ニュースになるような華々しい救助でもない。
けれど、その地味な行動がなければ、病院へ運ばれることすらできない命がある。
つまりcareとは、治療の後に付け足されるものではない。
人を治療につなげるための、最初の命綱なのだ。
災害時に取り残されやすいのは、高齢者だけとも限らない。
介護認定を受けていない人。
地域との関わりを避けて暮らしている人。
病気や障害を周囲に伝えていない人。
中年の一人暮らし。
生活に困窮しながら、誰にも相談していない人。
名簿に載っていなければ、支援する側からは見えにくい。
人は制度の中だけで生きているわけではない。
そして孤独は、年齢や外見から判断できるものでもない。
だから災害後の安否確認は、「支援対象者の名簿を見る」だけでは足りない。
避難所に来ていない人を探す。
連絡の取れない人を探す。
普段から孤立している人を知る。
地域の記憶と、人間同士の関係が必要になる。
私たちの社会は、cureにはお金を払う。
薬、検査、手術、入院。
目に見える治療には値段がつく。
一方でcareは、あまりにも軽く扱われてきた。
声をかけること。
話を聞くこと。
異変に気づくこと。
そばにいること。
こうした行為は「誰にでもできること」とされ、価値の低いもののように扱われる。
だが、誰にでもできることと、誰かが実際にやってくれることは、まったく違う。
薬があっても、病院へ運ばれなければ使えない。
医師がいても、患者が発見されなければ治療できない。
救急車が待機していても、助けを求める声が届かなければ出動できない。
cureを機能させるためには、その手前にcareが必要なのだ。
大きな地震の後、私たちは被害者数や避難者数に注目する。
けれど数字に表れるのは、発見された人だけだ。
まだ誰にも気づかれていない人は、統計の中にすら存在しない。
だからこそ、静かな家に目を向けなければならない。
避難所に来なかった人を「来なかった人」で終わらせてはいけない。
連絡が取れない人を「そのうち連絡が来るだろう」で済ませてはいけない。
病院に運ばれてから命を救うのがcureなら、病院に運ばれるべき人を見つけるのがcareである。
そして災害時に最初に必要なのは、いつだって後者なのかもしれない。
誰にも発見されないまま、自宅の中で孤独な遭難をしている人がいないことを願う。
同時に、願うだけではなく、探す社会であってほしいと思う。
