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【論考】『沈まぬ太陽』はどこまで真実か:御巣鷹山墜落事故40周忌に寄せて

 以下の論考は4年ほど前、ある企画に合わせて正味2日ほどで原案を執筆し、何度かの推敲を経て仕上げた。山崎豊子の小説『沈まぬ太陽』とその映画化作品を題材に、その表現についての是非を問うものである。学術論文ではなくエッセイという体裁を取っているため、詰めが甘いと言われるかも知れないが何卒ご容赦いただきたい。
 この度、日本航空123便・御巣鷹山墜落事故40周忌を迎えるにあたり、眠らせていた原稿を不特定多数に向けて公開しようと思い立った。12,000字ほどの長ったらしい拙文ではあるが、お目通しいただければ幸いである。

『沈まぬ太陽』はどこまで真実か《社会派小説と実在者たち》



小説『沈まぬ太陽』とその映像化


 山崎豊子といえば、日本を代表する社会派作家としての評価が定着している。作品がドラマ化・映画化されヒットしたことも多い。彼女の小説は「事実を題材に取り、実在の人物に綿密な取材を行ったうえで執筆している」ことが大きな特徴だが、中でも『沈まぬ太陽』は異彩を放っており、社会に与えたインパクトも少なからぬものがあった。「週刊新潮」に連載が開始されたのは1995年1月で、1999年4月までシリーズとして続き、連載終了後に出版された単行本・文庫本は実に700万部を超える大ベストセラーとなった。

 物語の中でハイライトとなるのは、単独犠牲者数では史上最悪となる日本航空123便墜落つまり「御巣鷹山事故」と、日航の歴史にずっとまとわりついてきた「労使対立」の問題である。槍玉に挙がった日本航空(日航=JAL)は作品にあからさまな不快感を示し、連載が始まると日航は新潮社への企業広告依頼をゴッソリ取り止め、さらに連載中は機内やラウンジでの「週刊新潮」取り扱いを中止した。広告引き上げで新潮社の被った経済的打撃は相当なものだったが、一方で話題を呼んだ『沈まぬ太陽』の売れ行きが好調となり、結果として損失の穴埋めになったという。

 こうしてベストセラーとなった『沈まぬ太陽』であるが、その内容の刺激性から映像化は困難といわれ、2000年以降に映画化・テレビドラマ化の企画が何度か持ち上がったものの(恐らく日航からの圧力で)いずれも頓挫した。ところが2008年になって角川が映画化に乗り出し、渡辺謙を主演に据えて翌2009年にクランクインした。イラン・ケニアなどでのロケは好調に進んだが、日航が制作協力を一切拒否(当然と言えば当然だが)したため、航空機のシーンは模型とCGを組み合わせて合成し、羽田空港のシーンはタイのバンコクでロケを行った。3時間超えの大作となった映画版「沈まぬ太陽」は、その年の10月24日に無事上映にこぎつけ、多くの観客を集めた。この映画公開に対しても日航は強烈に反応し「日航や御巣鷹山事故を連想させる作り話で金儲けをしようとは、遺族への配慮に欠ける」などと社内報で反論。一時は法的措置も辞さぬ構えを見せたが、折しも日航は経営危機の真っ只中にあり、年明けには民事再生法の適用を受けて経営破綻した。『沈まぬ太陽』を阻止するどころか「当の自分たちが沈んでしまった」ということになる。

 さらに2016年にはWOWOWで、上川隆也を主演とする全20話の長編テレビドラマが制作された。映画版では尺の問題で改変されたり削除されたりした描写も生きており、より原作に近い描き方になっているという。私はテレビドラマ版の視聴はしていないので、こちらの件には立ち入らないが、テレビドラマ化に成功したのは「地上波放送でなかったこと」が多分に影響していると思われる。

 以上の話からも分かるように『沈まぬ太陽』は、社会的に相当な物議を醸した作品である。批判的な態度を取っているのは日航などの当事者に限ったことではなく、読者・視聴者の間でも作品の評価が分かれている。問題の焦点は、言うまでもなく「小説=フィクションでありながら実話を元にしている」こと、さらに「現在も存命の当事者が多数おり、その評価も定まっていない」ことにある。何より、取り扱われている内容が真実であると証明できないなら、登場人物・団体のモデルとなった存在の名誉を不当に傷つけることになりかねない。仮に真実であったとしても、風評被害をもたらす可能性があるだろう。


作品の筋書き


 作品の主人公である恩地元(おんち はじめ)という人物は、日本のナショナルフラッグ・キャリアーである国民航空(国航=NAL)の地上勤務社員である。入社して間もなく、上司から労働組合の委員長の座を無理やり押し付けられてしまう。「やるからには組合員のために全力で」と考えた恩地は、経営陣との団体交渉に臨むが、のらりくらりと要求をかわす経営陣に苛立ち、ついには首相フライト当日にストライキをぶつけようという荒手の脅し戦法に出る。交渉のデッドラインが差し迫る中で渋々経営側が折れ、ストは土壇場で回避されたが、その後の恩地は懲罰として約10年にわたる海外僻地勤務を命ぜられる。「現代の流刑」ともいうべき悲惨な境遇だ。母親の死に目にも会えないという強烈な海外たらい回しで、もう左遷どころの話ではない。

 恩地とは裏腹に、サンフランシスコ勤務以降ひたすら出世街道を突き進むのが、かつて労組で副委員長を務めていた同じ東大出身かつ同期入社の行天四郎(ぎょうてん しろう)である。経営側に取り込まれた行天は、株主優待券の不正換金で得た裏金を元手にして運輸族議員やマスコミとのコネを切り開き、新規路線開拓から会社スキャンダルの揉み消しに至るまで、あの手この手の策略を弄してのし上がっていく。特定の人物を昇進させようとする際、労働組合に一旦転出させ、その後に役付きとして呼び戻すということは意外とよく見られるパターンである。経営者になるなら「敵」の出方を知らないといけないからだ。こうして「労働者の味方」が「労働貴族」に成り下がる様は、私も身近なところで見てきたが、冷めた目線で見れば実に醜悪であり、肌に泡が立つし、怒りを誘う。物語の中の行天は、まさしくそういう、腐敗した組織ではどこでも見られるような、私利私欲の追求にひた走る人物たちの姿を凝縮したキャラクターとして描かれているのだろう。

 真面目で頑固一徹な恩地と、悪知恵が働いて目的のためには手段を択ばない行天。お互いに切れ者だが、方向性は真逆。この両者の対比が物語のモチーフとなっており、映画版では行天役を三浦友和が嫌味たっぷりに好演していた。そのおかげで恩地役の渡辺謙が一層よく引き立っていたともいえる。

 さて、ようやく日本に帰国できた恩地であったが、引き続き閑職に追いやられたままで、人事的な嫌がらせが止むことはなかった。そこに降りかかってくるのが520名の犠牲者を出した史上最悪のジャンボ機墜落事故。もちろん作品の中では「腐敗した会社の体質が大惨事の遠因になった」という方向性で描かれている。恩地は国航社員つまり「加害者の一員」という難しい立場に悩みつつも、遺族の世話係として遺族救済のために東奔西走する。

 世界史上でも稀に見る巨大航空事故を起こした国航への非難は、激化の一途を辿る。そこで国家を挙げて会社の立て直しを図るべく、総理の肝いりにより後任の国航会長に抜擢されたのが、関西紡績を率いる国見正之(くにみ まさゆき)だ。現状の国航が抱える諸問題の根源に、乱立・敵対する労働組合の問題があることを見抜いた国見は、かつて国航労組の委員長として辣腕を振るった恩地を見いだし、地に落ちた国民航空の名誉を回復すべく再建に着手する…


主人公の設定


 ざっと筋書きはこんなところである。小説の中身を真に受ければ、恩地のことは〝悲劇のヒーロー〟にしか見えないだろうし、渡辺謙の名演技で巧みに演出された映画を観れば、なおのことそういう印象を持つだろう。

 この恩地元にはモデルがいる。小倉寛太郎という人物である。この人物の経歴を見れば、物語内の恩地の設定と瓜二つであることは一目瞭然であろう。小倉は東大在籍中から左翼運動に傾倒する活動家であった。卒業後には外資系AIU保険に入社して社内で労働運動を組織したが、米系企業によくある「所属部署ごとの取り潰し」に直面し、退職となった。続いて日本航空の採用試験を受け、その経歴にもかかわらず内定を勝ち得る。しばらくして日航労組(反会社側・共産党系の前衛的労組)の委員長に就任し、給料6倍・ハイヤー送迎・ストッキング無償提供などの無理難題を経営陣に突きつけ、日航で初のストを決行するだけでなく、皇族フライトにストをぶつけようとするなど強硬戦術を繰り出しながら団体交渉を推進。2年で委員長を退任後、すぐさま会社は(報復人事として)カラチ支店勤務を命じ、続いてテヘラン支店開業を押し付け、さらには日航の路線就航がないナイロビ支店に一人で勤務するよう命じた。左遷先まで恩地の設定と一緒、どう見ても小倉の引き写しである。なお、本人が1999年に東大駒場キャンパスで行った講演会の筆記録がインターネット上に公開されているため、彼の経歴については誰でも簡単にアクセスすることができる。

 実際、山崎豊子は小倉に対して延べ1千時間を超える詳細な聞き取り調査をしているといわれ、その成果が恩地のキャラクター設定にそのまま反映されていると見て差し支えなかろう。ただし、はっきり事実と食い違っている点もある。ストーリーの見せ場の一つである「恩地の遺族係としての献身」はまったくの創作である。小倉氏が日航123便の事故処理に関わった事実は存在せず、それは当の小倉自身が認めていることである。したがって、その部分は完全に山崎によるフィクションということになる。恐らく遺族係に関しての描き方は、別の日航社員(恐らく複数)への取材内容を元に構成しているのであろうが、誰に取材した結果かは特定できない。


登場人物のモデル
 

 恩地に限ったことではない。作品内に登場する人物は、ことごとく実在の人物がモデルになっていることを窺わせる描き方だ。事情に通じている人が読めば、誰のことを言っているのか一発で見当がついてしまうだろうし、中には名前の字からしても容易に連想可能な例さえある。これでは、作品内で肯定的に描かれているならいざ知らず、批判的に取り扱われている場合は、モデルにされた側から「悪意がある」と思われても仕方がなかろう。以下に一例を掲げる。

・恩地 元   小倉寛太郎(元日航労組委員長)
・桧山 衛   松尾 静麿 (元日航社長・航空庁初代長官)
・堂本 信介  高木 養根 (御巣鷹山事故当時の日航社長)
・八馬 忠次  吉高 諄 (後の日航常務・AGS社長)
・国見 正之  伊藤 淳二 (カネボウ会長・日航会長)
・利根川泰司  中曽根康弘(総理)
・龍崎 一清  瀬島 龍三 (総理のブレーン・元伊藤忠会長)
・竹丸欽二郎  金丸 信 (副総理)
・道塚 一郎  三塚 博 (運輸大臣)
・石黒 研介  黒野 匡彦 (航空局総務課長・後の運輸次官)

 この作品に一貫しているのは、善と悪を明確に対比させ、恩地や労組側を絶対善、会社の経営陣やそれに連なる人物を絶対悪と見なす捉え方だ。特定のモデルが存在しないとされる行天はともかくとして、労組分裂や御巣鷹山事故の元凶のようにも描かれている堂本や八馬は、読んでいて気の毒になるレベルで貶められている。というのも、作品内での描き方と、範を取ったと思われる実在の当人たちに対する評価は、まったくと言ってもよいほど食い違いがあるからだ。少なくとも真逆の人物像があることだけは確かである。例えば御巣鷹山事故の責任を取る形になった日航社長の高木養根は、クラシック好きのオーディオファンであることなどは一致するが、決して作品内で描かれたような屈折した人物ではなかったし、日航の生え抜きとして天下り勢力に抵抗するなど気骨のある人物だった。社長退任後も自らの責任を忘れることなく御巣鷹への慰霊登山を決して欠かさなかったという。また、八馬のモデルであろう吉高諄は日経記者によるインタビューの中で、恩地のモデルとなった小倉寛太郎が労組の委員長時代、いかに過激で理不尽な要求を会社に突きつけていたかを語っている。印象的なのは、桧山社長のモデルである日航の松尾社長に関するエピソードである。松尾の長女が白血病で危篤に陥った際、小倉は「こういう時こそチャンスだ」と、敢えて意図的に団体交渉を継続したため、松尾は娘の死に目に居合わせることができなかった。恐るべき非情さである。吉高はこの話を山崎豊子にも語ったが、それを聞いた山崎は「どうしよう。これじゃ小説が成り立たない。もうやめましょう…」と動揺を隠せなかったという。この体たらくでは、どちらの分が悪いのか怪しくなってくる。


山崎豊子の偏見に満ちた「JAL観」


 作者の山崎は、かつての日航に対して極めて批判的で辛辣な見方をしており、それは関係者の証言などからも分かっている。そのため、御巣鷹山事故と労組問題を題材に日航を叩くことを「社会的な使命」だと信じ切っていた可能性が高い。「あまりにも内容が赤裸々だ」として、新潮社の編集部員も含め周囲が止めるのもよそに「何としても作品化する」と言って聞かなかった。最初から日航をとっちめる意図があって作品を書き上げたと見てよいだろう。そうなれば、いくら綿密な取材をしたとしても、その対象の選び方や素材の解釈に偏りが出てくるのは言うまでもない。往々にして正義感・使命感というものは、容易に人の眼を曇らせ歪ませてしまい、判断を誤らせる原因にもなる。客観的な歴史学の世界なら、善悪の価値判断は「禁忌」といってもよいほどだ。いくら歴史書ではなく社会派小説といえど、事実を基にしていると公に謳い、実在の人物に取材して執筆している以上、事実の曲解と受け止められるような描き方をすれば当事者から批判されても致し方ないだろう。

 もちろん「表現の自由」は認められるが、実在者の名誉に関わる記述に対しては慎重さが必要であり、それが書き手としてのモラルである。かつて『宴のあと』で三島由紀夫と新潮社が、登場人物のモデルとされる有田八郎とトラブルになった件が思い起こされる。事実をノンフィクションとして記述するならまだしも、小説化して解釈や虚構を織り交ぜる場合、どこまでが事実で、どこまでが作者の解釈か、その境界線を見いだすことが本質的に困難である。それは実在者に対する読み手の印象や評価を左右する結果に結びつく。読み手が作者に心酔していれば、あたかも書かれていることを真実そのものと思い込む可能性さえある。作者が恣意的に登場人物を貶めるよう悪意を持って描いていれば一層まずい。「実話や歴史を元にした小説」というジャンルの危うさが、ここにある。

 何より厄介なのが「御巣鷹山事故」の扱いである。全5巻本の第3巻が「御巣鷹山篇」にまるまる充てられ、墜落事故の様子から遺族の様子に至るまで、実に詳細かつリアルに描かれている。『沈まぬ太陽』の中でも核心的部分を成すだけあって、名作家の力量を感じられる素晴らしい筆致であり、さすがは山崎豊子と言いたくなる。ただし、事故のあった日時・123便という航空便名・事故発生場所・犠牲者数に至るまで完全に一致、さらには遺族の名前まで敢えて実名で描くとなれば、小説の舞台となる航空会社が日本航空であることが誰の目にも明らかである以上、関係者(特に加害者にあたる日航側)の反感を買うのも当然である。ちなみに映画版でも、旅客機のデザイン、ロゴの書体、乗務するクルーの制服など、何から何まで半官半民時代の日航を意識して表現していることは明々白々であった。ちなみに日航の象徴として現在も受け継がれている垂直尾翼の「鶴丸」は、月と桜をあしらったマークに置き換えられていたが、その雰囲気はどう見ても「鶴丸」を連想させるものである。一番まずいのは「恩地が遺族係を担当している」という創作で、これでは読者や視聴者に、モデルとなった小倉寛太郎が現実に事故処理で活躍したかのような印象を与えてしまう。いや、むしろ山崎の描き方からするに、そのような印象を読み手に持たせようとする確信犯的な印象操作にも思える。少なくとも、設定上そう言われても止むを得ない。

 「御巣鷹山事故」の原因に関しては様々な説があり、政府公式の事故調査報告書の不備も指摘されて久しい。この論考で深く立ち入る余裕はないが、怪しいデマ本はもちろん、信憑性に乏しい流言飛語が今もWEB上で飛び交う中、例の事故の真相に関して素人が迂闊な判断をするのは避けるべきで、何かの作品の題材として扱うにあたっても慎重を期する必要があると私は思う。ひどいものでは「自衛隊が撃墜した」「無人標的機が衝突した」「トロンOSを頓挫させるために技術者を搭乗機もろとも抹殺した」等々、状況証拠だけに過ぎない〝陰謀論〟が断定調で論じられる例は枚挙にいとまがない。それらはかえって事故の真相に対する目くらましの効果を持つだけでなく、多くの犠牲者や遺族に対する侮辱の意味も持つだろう。

 『沈まぬ太陽』における事故の主原因は「後部圧力隔壁が壊れた際の修理ミス」とされていて、それは事故調の公式判断と基本的に一致している。ただし、あくまで修理ミスの当事者はジャンボ機のメーカーであるボーイング社であって、日航が手違いをしたのではない。また、その後の整備点検で修理ミスが発見できなかった点も含め「日航の怠慢」だという捉え方もできなくはないが、当時の検査手法や技術では、たとえ他の航空会社であっても問題を発見するのは困難であったろう。なぜなら、修理箇所は他の部材で完全に覆われてしまう形になっていて、整備士の目視では発見できない位置だったからだ。

 それだけではない。小説中では日航にまつわる事件が随所に挿入されているが、いずれも事実そっくりだ。例えば、日航のジェット定期便で初の墜落となったニューデリー・パラム空港の事故に始まり、ボンベイ・ジュフ空港の誤認着陸事件、モスクワ・シェレメチェボ空港の離陸失敗事故など、いずれも航空便名の数字の違いなどはあるものの、基本的に事実に即して描かれていることは誰の目にも明らかである。

 これら70年代前半に頻発した日航の連続事故に関しては、柳田邦男のノンフィクション・ベストセラー『続・マッハの恐怖』に詳しい。この本は専門的な観点からしても定評があり、通読すれば一連の事故の背景が浮かび上がってくる。『続・マッハの恐怖』の客観的な記述に照らしてみれば、山崎の事故描写に問題があることはすぐに分かる。例えば、日航JL471便のニューデリー事故においては「以前から空港のILS着陸誘導装置に欠陥がある」という指摘が複数の外航パイロットから挙がっており、現に471便墜落直後の時間帯、インディアン航空の国内線旅客機があわや墜落寸前まで異常降下するというトラブルも観測されていた。ところが小説内では、行天四郎が印象操作のために外国の航空会社のパイロットを買収して、事故調査の審問において「空港のILS誘導に誤作動があった」旨を無理やり証言させようとしたことになっている。これはいかにも「悪意がある」描き方ではないか。


日航の経営破綻


 日本航空は2010年、2兆3千億円という途方もない負債を抱え、世間の厳しい批判を浴びながら会社更生法の適用を受け経営破綻した。「100%減資」により日航の株券は文字通り紙くずと消え、実質的に倒産といってよい。ただし日本を代表する公共交通機関としての重要性は無視できず、そのまま解散し消滅させるわけにもいかないため、政府の後押しのもとで会社再建のため京セラの稲森和夫が会長に就任し再スタートを切った。以降、大リストラや主力機であった747ジャンボ機の処分など、まさしく身を切り血まみれになる改革の果てに蘇ることができた。今では旧日航のよき伝統は受け継ぎつつも、経営的にはまったく違う体質を持った「小粒でも強靭な、サービス重視の会社」に生まれ変わっている。しかしながら、かつて半官半民のフラッグ・キャリアーであり、国際線定期輸送実績で世界一の地位に昇り詰めたことさえある巨大航空会社が、どうして一時倒産という破滅的状況にまで陥ったのか。その真相は森巧の『腐った翼――JAL65年の浮沈』で痛烈に指弾されている。こちらは小説ではなく事実を事実として記述したノンフィクションだ。その中では、小説や映画においては英雄として華々しく描かれているカネボウ出身の伊藤淳二(作品内では国見正之)が、実は現場を混乱させ会社の経営基盤を掘り崩した張本人の一人であったことなどが明かされている。紙面の都合で詳しい指摘は割愛するが、御巣鷹の件で失墜した日航の名声を取り戻すどころではなかったようだ。日航の社内からすれば、官邸の意向で〝落下傘降下〟してきた畑違いの余所者に過ぎず、評判は著しく悪かった。伊藤が日航時代に専心したのは、従来から燻る「組合問題の是正」であったが、機長職に組合結成を認めたり、客室乗務員の昇進バランスを大きく崩すような人事を行わせたりと、社内情勢を理解しているとは到底思えないような方針を採ったため、立場や所属組合の垣根を越えて総すかん状態になった。そんなわけで、2年の任期を待たずして伊藤は音を上げ、会長の椅子を放り出しカネボウに帰ってしまった。ところが『沈まぬ太陽』では、小説と映画で多少違いがあるものの、概ね「責任を全うしたいと望むも官邸に梯子を外され、やむなく退任した」という方向性で描かれている。やはり、そういう表現の仕方の背景には、作者の偏った人物評価が内在しているのではないかと思わざるを得ない。

 『腐った翼』で一刀両断されているように、日航がメチャメチャになって潰れた原因の根幹には、代々経営陣の稚拙な労務政策や、乱立した労組同士の対立、そして〝親方日の丸〟とも揶揄された役人根性の杜撰きわまる経営体質があるのは間違いなかろう。だからと言って『沈まぬ太陽』の主人公のモデルとなった小倉寛太郎や伊藤淳二を、何らの疑いもなくヒーローとして持ち上げ、単に日航の経営陣を絶対悪と断じるならば、それは事実関係の履き違えということになる。


主人公のへの私見


 そもそも恩地というキャラクターを冷静に捉えれば、見え方も少し変わってくるのではなかろうか。敢えて意地の悪い言い方をすれば「青くさくて融通の利かない男」あるいは「家族を犠牲にしてまで非道な会社にしがみついた向こう見ずな男」という捉え方も、できなくはない。

何より、労組の無理難題を押し通すために政府要人の帰国フライトにストライキをぶつけようとするなど、もはや国営航空会社の社員として正気の沙汰ではなく、なりふり構わぬ強引な交渉姿勢など単なる労働者側の我侭でしかない。世間はそう捉えるだろう。会社を守るためと声高に訴えていながら、実際には日航の運航体制を転覆させ、会社を破壊することを目的にしていると受け取られても仕方がないのだ。それに、作中では「行天が、恩地に、首相フライト阻止を教唆した」ことになっているが、実際には小倉のイニシアチブで首相フライトにストをかち合わせようとしたのである。これも事実関係の歪曲であって、モデルとなった小倉に対する不必要な業績美化になってしまっている。

 その後の恩地=小倉に降りかかった左遷・流転の懲罰人事については、法的に見て不当労働行為に当たることが確かであり、その点は国航=日航の対応は好ましくないだろう。けれども、あのような革命分子も真っ青な過激戦術を採れば、危険人物と見なされ海外僻地に飛ばされても仕方がない。むしろそう思ってこそ普通の感覚ではなかろうか。さらに、恩地には思い切って会社の外に出てしまう選択肢だってあったはずなのに、自分の運命を嘆いて辺境でウジウジ言っているだけで、どうも男らしくない。理想を実現したいなら経営陣の懐に入り込むことも一つの道で、恩地の学歴や執務能力なら十分それが可能だったはずにもかかわらず、書生っぽいことを言って底意地を張っているだけでは何一つ成し得ない。その点、悪役の行天のほうが正しい立ち回りをしているとさえいえる。

 本気で労働条件や会社の環境を改善したければ、100%組合の要求を通そうなどと思うべきではないのは当然である。そんなことを強行すれば、自分たちの会社を自分たちで掘り崩しているのと一緒だ。時には経営陣と話し合って妥協し、できる範囲から少しずつ改革を進めていくことが自分たちの会社を守り発展させるためにも必要なことである。だいたい、税金を投入している半官半民の特殊会社で、年末手当4ヵ月半・給料6倍・ハイヤー送迎…等々の要求など、とんでもない話で、一般庶民の目線からしたら異様としか思えない。暴徒を動員した国鉄の過激なストライキほどではないにせよ、世論の感覚とはかけ離れた強引で独善的な闘争方針だったといえよう。

 会社側の対応に明確な問題があるとすれば、それは前衛的な組合を弱体化させるために〝第二組合〟を作って組合活動を分裂させたことだ。

 やり方としては確かに考えられる範囲内ではあるが、組合の分裂は会社組織そのものの分裂に直結し、良好な職場環境は保てなくなる。それが「安全とサービスを第一に守るべき」航空会社にとって、何を意味するかは言うまでもあるまい。

 実際の日航では、時期によって増減はあるものの、会社側に協調する〝御用組合〟と、それに対抗する〝アカ組合〟と呼ばれた旧来の5労組という、概ね6つの組織に分裂し敵対していた。国内線主体の日本エアシステム(JAS)との合併後は、なんと全部で9つまで膨れ上がり、会社の混乱に拍車をかける結果となった。合併後の日航は細かな事故や故障、運航トラブルが頻発し、ますます客離れが進んで、最終的に2010年の経営破綻という修羅場を迎えることになる。

 このような事態の根源は、やはり経営側の画策による1965年の全日航労組(会社側組合・現JALFIO)の結成というしかない。恐らくは旧来の労組を完全無力化するまで組合員の引き抜きを進める所存だったのだろうが、現実には旧労組を倒し切ることはできなかった。結果として、経営陣が旧労組に新労組を〝けしかける〟体裁となり、完全に泥仕合となった。これは会社側の詰めや状況判断が甘いと思う。旧来の労組の背後には、当然ながら社会党・共産党といった強力な左派政治勢力がいるわけで、さらにはそこにソ連・中国による政治工作の影がちらつく。当時の状況からすれば、そう簡単に急進的勢力を一掃できるはずもない。一方で「新旧勢力の拮抗ないし均衡」という形を実現するには、あまりにも敵対的な空気を煽り過ぎた。新旧双方が互いを〝御用組合〟や〝アカイヌ〟呼ばわりするようでは、同じ会社を守る仲間として一緒にやっていけるはずもない。組合を分裂させるのは戦術の一つとしてありうるが、前衛勢力を一網打尽にできなかった段階で〝作戦失敗〟であり、結果として状況を好転させるどころか悪化させた。組合側に問題があるのはもちろんだが、経営側も責任は免れない。


むすびにかえて


 以上のように『沈まぬ太陽』の筋書きは、事実を基にしていると明確に宣言しておきながら、都合よく事実を曲解し、特定の登場人物(とそのモデルとなった実在者)を美化している。それとは裏腹に、日本航空と当時の経営陣を(確かに問題はあったにせよ)過剰に貶めている側面がある。完全なフィクションとしてストーリーを捉えるなら、実に読ませる内容に仕上がっているし、現に面白い。映画もよく造り込まれ、俳優の名演技も存分に楽しめる秀作だ。けれども、ジャーナリズムの立場からすれば、やはり非常に問題のある作品であって、作家活動を営む者が今後の反面教師とすべき典型例になってしまっている。日航が不快感を示すのも、ある意味で頷ける。

 この作品における「あまりにも事実に即した設定」は、読者・視聴者にとって〝危険な誘惑〟として働く。そういう味付けが作品を面白く感じさせる要素として機能するからだ。しかし、そこには巧妙な〝プロパガンダ〟が仕込まれている。だからこそ、この小説を読み映画を鑑賞するのであれば、事実とキッパリ切り離して中身を解釈する必要があろう。そうしないと、日航の経営問題や御巣鷹山惨事の本質を捉え違えることになる。作品を楽しむのは大いに結構だと思うが、山崎豊子の筆の魔法に引っかかって現実と虚構の境目があいまいになり、彼女の意図する方向に吸い込まれていかないよう、自律的に作品を捉えることが求められる。


〈主な参考文献〉

・高尾 建博 「小説『沈まぬ太陽』余話III」 論壇:平成12年6月5日
日本経済新聞の産業部・運輸担当記者を務めていた方によるこの記事は実に素晴らしいもので、今回の論考の原点です。私の文章よりも遥かに緻密で膨大な内容となっており、原作を知らないと理解できない書き方ではありますが、今となっても熟読の価値は十分にあります。
・山崎 豊子 『沈まぬ太陽』全5巻 新潮社/新潮文庫
・柳田 邦男 『続・マッハの恐怖』 フジ出版社/新潮文庫
・加藤寛一郎 『壊れた尾翼』 技報堂出版
・森 巧   『腐った翼』 幻冬舎/講談社+α文庫

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