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人とちゃんと関わってみたい。でも関われば関わるほど、動揺する気がする。

人とちゃんと関わってみたい。
でも、人と関われば関わるほど、動揺する気がする。
深い関係になるほど、視界が狭くなる。
その人と気まずいことが起こったとき、ひどく動揺してしまうと思う。
顔見知りの人ならどう思われても、なんてことないのに。



人と関わるって何だろう。
観念上にしかない、純粋無垢な愛とか友情とか、そんなの存在しないのに。
現実で人と関わるときは、自分の想像で作り上げた理想の観念との答え合わせを行っているのかもしれない。
そしてその答えは大抵は間違っていることも頭では分かっている。



大切な人を何度も手放してしまった気がする。
でも当時は当時で悩んでいたんだ。
手放したから今の視点から過去を見れているわけで、当時のままでいたら、そもそも気づけないんだろうなぁ。



1人暮らしの孤独はつらいなぁ。
大学でも一人だけど、誰かと関わるとまた違う虚しさと疲労が来るのも知っている。


久しぶりに寂しく虚しくなってる。半年ぶりか。


授業でもさっきまで楽しくやってたのに、急に寂しさと虚しさが来た。

懐かしい感情、
高校生の頃に何度も抱いた感情、
もう来ないと思ってたけどまた来たんだ




懐かしい。
寂しさと虚しさを混ぜて、ノスタルジアのスパイスが入っている。
ずっと抑圧していたのか、それともただ単にまた来ただけなのか。


どっちでもいいか。




高校の頃に感じてたときの、空気感や孤独の質をまた体験している。
そっくりだ。
あれからどれだけ哲学的思想を学んでも、そんなの関係なく当時の体感がそのまま浮かんできている。


そうか。
記憶には、頭にストックされた記憶と、体に保存されている記憶の二種類があるのか。
頭にある記憶は無機質で、整理されいて、聡明で、知識そのもの。
体にある記憶は曖昧で、有機的で、体験そのもので、質感があって...。


その体の記憶を頭の記憶が意味づけしようとすることもある。


そういえば、ちょうど去年の高3の頃、感覚と体の記憶がある限り人間は(少なくとも僕は)ニヒリズムに陥らないとか言ってたな
寂しい、虚しい、懐かしい、重さがある。
こういう質感そのものがある限り、体感的感覚がある限り、ニヒリズムにはなれない。
理性はニヒリズムに打ちのめされてしまうけど、感覚のその質感がある限り、感性は虚無になりきれない。

高3の頃とほぼ同じ結論か。



自分が変わるってことは、同じ条件で違う形の感情が沸き上がることなのかもしれない。
感情は不随意反射だ。
何かが起こると感情が反応する。
でも、同じ何かが起こっても違う反応の仕方、違う質感の感情が出てきたとき、それは心の変化と呼べる気がする…

思想や思考の変化とはまた違う、けど確かにどこかにある心の変化。

そして思考の変化と心の変化は完全には独立していない。
お互いが100でも0でもない、微妙な程度で影響しあっている。

この心の変化は暴露療法が狙っているようなものだけではない気がする。
感情の強度や持続時間が改善するとかいう、そういう類のものだけではない。
同じ名前の感情であっても、微細な質感が違えばそれは違う。
違いを説明しがたい変化、
本人にしか分からないような変化、
本人も違うのは分かるけど自分でも何が違うのか分からない変化。
訳の分からない比喩を用いないと説明しにくい変化。

変化はポジティブになることじゃない。
同じ状況になったときに、違う質感の感情や体の感覚が生まれてくることなんだ、きっと。



今日の昼に半年前の感覚が蘇ってきて、その時に書いた殴り書きのメモを整理したんだけど、やっぱ昼病んでたのかも…笑


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