なぜ草鞋(わらじ)売りの男だけが、長安まで届いたのか——東晋を葬った武人・劉裕(りゅうゆう)
結論:劉裕が長安まで届いたのは、彼が「川をつないだ」からだった
前回は、東晋(とうしん)の宰相・謝安(しゃあん)を取り上げました。100万と号する前秦(ぜんしん)の大軍を淝水(ひすい)で打ち破り、江南(こうなん)の政権を救った人物です。その謝安が、上流の軍閥に対抗するために京口(けいこう)という土地につくった軍隊が、北府軍(ほくふぐん)でした。そして記事の最後に、私はこう書きました。その北府軍が、やがて東晋そのものを滅ぼす男を生み出すことになる、と。
今回は、その男が主役です。劉裕(りゅうゆう)。363年に京口の貧しい家に生まれ、若いころは草鞋(わらじ)を売って暮らしていたとも伝わる男が、420年、東晋から帝位を譲り受けて宋(そう。劉宋)を建てました。
ですが、この記事でいちばん考えたいのは、彼が皇帝になったことではありません。もっと不思議なことがあるのです。
東晋という国は、百年にわたって北を取り返そうとして、ことごとく失敗してきました。桓温(かんおん)は三度の北伐を行い、一度は長安(ちょうあん)の目前、灞上(はじょう)まで迫りながら、兵糧が尽きて引き返しました。謝安と甥の謝玄(しゃげん)は淝水の勝利に乗じて北へ攻め上り、一時は黄河(こうが)の線にまで達しましたが、維持できずに押し戻されました。南から北は攻められない。それがこの連載で、私が何度も書いてきたことです。
ところが劉裕は、416年に洛陽(らくよう)を落とし、417年に長安を落としました。東晋・南朝を通じて、この二つの古都を実際に軍で占領したのは、彼ひとりです。
なぜ、彼だけができたのでしょうか。
先に結論を言ってしまいます。劉裕が洛陽と長安に届いたのは、彼が北伐を「戦(いくさ)」としてではなく、「水運の事業」として設計したからです。彼は敵を倒しに行ったのではありません。船が通る道を、南から北へ一本つないでいったのです。
そして、その裏返しがあります。彼が長安を1年で失ったのは、その水路が長安まで届いていなかったからです。攻略できた理由と、保持できなかった理由は、まったく同じ地理の裏表でした。
この記事の合言葉を、先に置いておきます。桓温は川を使いました。劉裕は、川をつなげたのです。
まず地図の上に、三本の北伐を重ねてみる
本題に入る前に、地図の話をさせてください。ここを押さえておかないと、劉裕の凄みが伝わりません。
中国大陸の大河は、ほぼすべてが西から東へ流れます。黄河も、淮河(わいが)も、長江(ちょうこう)も、みな西の高地から東の海へ向かって走っています。これは中国の地形が西高東低だからで、ごく当たり前の話です。
しかし、この当たり前が、南から北を攻める軍にとっては悪夢になります。
考えてみてください。建康(けんこう。現在の南京)から北の洛陽や長安を目指すということは、南から北へ、つまり大河の流れと直角に交わる方向に進むということです。長江を渡り、淮河を渡り、黄河を渡る。三本の巨大な横棒を、縦に串刺しにしていく行軍です。
古代の軍隊にとって、兵糧の輸送手段は圧倒的に船が有利でした。陸路で牛車や人力で運べば、運搬する人馬自身が食べる分でどんどん目減りしていきます。ところが船なら、一隻でその何十倍もの穀物を、はるかに少ない労力で運べます。だからこそ、北伐する軍は水路を使いたい。しかし、南北方向に走る川が、そもそも少ないのです。
だからここに、たったひとつの命題が立ちます。南朝の北伐が成功するかどうかは、南北に走る水の線を何本確保できたかで決まる。
例外的に南北へ走る水系は、たしかにあります。淮河に注ぐ泗水(しすい)、黄河から分かれて東南へ流れる汴水(べんすい)、済水(せいすい)の系統である清水(せいすい)。そして、人間が掘った運河です。
三本の北伐を、この目で見直してみましょう。
桓温の第一次北伐(354年)は、荊州(けいしゅう)から武関道(ぶかんどう)という山道を抜けて関中(かんちゅう)へ入りました。山越えです。船は使えません。だから灞上まで行けても、現地で麦を刈って食おうとしたところに堅壁清野(けんぺきせいや。作物を刈り取って敵に何も渡さない戦法)をやられ、飢えて退きました。
桓温の第三次北伐(369年)では、彼は学習して水路を使いました。運河を掘り、船で北上したのです。ところが枋頭(ぼうとう)で水位が下がり、船が動かなくなった。補給が絶たれ、慕容垂(ぼようすい)の追撃を受けて大敗しました。
謝玄の北伐(384年から385年)は、淮河から北へ進んで黄河線に達しましたが、そこから先を建康から支えることができず、後退しました。
そして劉裕の北伐(416年から417年)。彼のルートを見ると、様相がまるで違います。建康から長江を下って京口へ、そこから水路で淮河に入り、泗水を北上し、彭城(ほうじょう)を経て、巨野沢(きょやたく)という巨大な湖沼を通り、清水を抜けて黄河に出る。そこから黄河を西へ遡って洛陽へ。ほぼ全行程が、水の上なのです。
私は、南朝の北伐を「兵の話」として読むのをやめて、「船の話」として読み直すべきだと考えています。誰が名将だったかではなく、誰が船を通せたか。その視点で見ると、東晋百年の北伐史は驚くほどすっきりと整理できます。
寄奴(きど)——京口の草鞋売りが、軍人になるまで
劉裕は363年、京口(現在の江蘇省鎮江)に生まれました。字(あざな)は徳輿(とくよ)、幼名を寄奴(きど)といいます。
家は貧しく、生まれてまもなく母を亡くし、父は貧しさゆえに子を育てられず、危うく捨てられるところを叔母が引き取って乳を与えた、と伝わります。「寄奴」という名は、その境遇に由来するとも言われますが、このあたりは後世の伝承色が濃いので、そういう話が語り継がれた、という程度に受け止めるのがよいでしょう。
彼は自分を彭城(ほうじょう)の劉氏、漢の高祖・劉邦(りゅうほう)の弟である楚元王・劉交(りゅうこう)の後裔だと称しました。ただし、これは建国後に整えられた系譜という見方が有力です。実態は寒門(かんもん)、つまり名門ではない下層の家柄でした。
若いころの評判もよくありません。正史には、草鞋を売って生計を立てていたとも、樗蒲(ちょぼ。当時の賭博)を好んで身代をつぶし、借金のかたに縛られたとも記されています。
前回まで見てきた東晋の主役たちを思い出してください。琅邪王氏(ろうやおうし)の王導(おうどう)、陳郡謝氏(ちんぐんしゃし)の謝安、譙国桓氏(しょうこくかんし)の桓温。いずれも一流もしくはそれに準ずる家柄です。清談(せいだん)を論じ、書を能くし、山水に遊ぶ人々でした。劉裕は、その世界とは何の縁もない場所から出てきました。
彼の人生を変えたのは、399年に始まる孫恩(そんおん)の乱です。五斗米道(ごとべいどう)という宗教教団を背景に、江南の沿海部で数十万が蜂起した大反乱でした。劉裕は北府軍の将・劉牢之(りゅうろうし)の参軍として従軍します。このとき、わずか数十人で数千の賊に遭遇し、正面から突撃して追い散らしたという武勇伝が残っています。彼はここで名を上げました。
そして404年。前年に東晋の帝位を奪って桓楚(かんそ)を建てていた桓玄(かんげん。桓温の末子)に対し、劉裕は京口で挙兵します。建康の北の覆舟山(ふくしゅうざん)で桓玄軍を破り、都を回復しました。桓玄は西の江陵(こうりょう)へ逃げ、そこで殺されます。
ここで、地理の話を一つ。
この連載でずっと追いかけてきた東晋の宿痾を、「上流の呪い」と私は呼んできました。長江上流の荊州に置かれた軍事力が、川を下って下流の都・建康を呑み込もうとする構造です。王敦(おうとん)の乱も、桓温の専横も、桓玄の簒奪(さんだつ)も、すべてこの型でした。桓玄もまた、江陵から船で下って建康を獲ったのです。
ところが、その桓玄を倒したのは、上流ではありませんでした。京口です。京口は建康の東、長江下流の南岸にあり、都からわずか一日の水路です。上流から来た刃は、都のすぐ隣に置かれた刃には勝てなかった。
私は、劉裕にとって最大の武器は、彼が貴族でなかったことだと考えています。名門の当主は、家格に縛られて人を選びます。婚姻関係や門地の釣り合いを考えなければならない。ところが劉裕には、守るべき家格がありませんでした。だから彼は、実力だけで人を集めることができた。軍が家の付属物ではなく、彼個人のものになったのです。これは桓温にも謝安にもできなかったことでした。
余談ですが、この京口という土地と劉裕については、800年後の南宋の詞人・辛棄疾(しんきしつ)が詠んだ有名な作品があります。『永遇楽(えいぐうらく)・京口北固亭懐古(けいこうほっこていかいこ)』です。
「斜陽草樹、尋常巷陌(じんじょうこうはく)、人は道(い)う、寄奴かつて住みしと」——夕日に照らされた草木、なんの変哲もない路地。ここに寄奴が住んでいたのだと人は言う。
「当年を想う、金戈鉄馬(きんかてつば)、気は万里を呑(の)むこと虎の如し」——あのころを思う。輝く矛と鉄の馬、その気迫は万里を呑む虎のようだった。
草鞋売りの少年が住んでいた路地から、万里を呑む虎が出た。この詞は、後半でもう一度この記事に関わってきますので、覚えておいてください。
南燕討伐(409年から410年)——大峴山(たいけんざん)という賭けと、車陣という発明
劉裕の最初の北伐は、409年、山東(さんとう)にあった南燕(なんえん)に対して行われました。南燕の慕容超(ぼようちょう)が淮北(わいほく)を荒らして住民を掠奪したことが口実です。
このときのルートが、すでに彼の思想を物語っています。
劉裕は建康から水軍で出発し、淮河を遡り、泗水に入って北上しました。そして下邳(かひ。現在の江蘇省睢寧付近)で船を捨てて陸に上がり、琅邪(ろうや)を経て、大峴山(たいけんざん)という峠に向かいます。
大峴は、現在の山東省臨朐(りんきょ)のあたり、穆陵関(ぼくりょうかん)が置かれた峠です。山東半島の内陸には泰山(たいざん)山系と沂山(きざん)山系が横たわっており、南から北へ抜ける道はごく限られています。大峴は、その数少ない咽喉(いんこう)でした。
南燕の重臣・公孫五楼(こうそんごろう)は、正しい献策をしました。大峴の険を封鎖して晋軍を通さず、周辺の作物を刈り取って持久すれば、遠征軍は勝手に飢える、と。桓温を二度苦しめた、あの堅壁清野です。
ところが慕容超はこれを退けました。自分には精強な騎兵がある、平地に誘い出して踏みつぶせばよい、と考えたのです。
劉裕は、無人の大峴を悠々と越えました。峠を下りきったとき、彼は手を挙げて喜んだと伝わります。それはそうでしょう。ここを塞がれていたら、遠征は始まる前に終わっていたのですから。
そして臨朐で、南燕の騎兵と対峙します。ここで劉裕が用いたのが、車陣でした。四千両ともいわれる兵車を隊列の左右に並べ、その内側に歩兵を入れて進む。騎兵が突入しようにも、車の壁に阻まれて速度を殺される。そこを弩(ど。機械仕掛けの弓)と長柄の武器で叩く。劉裕はこの戦いに勝ち、南燕の都・広固城(こうこじょう)を包囲して、410年2月にこれを陥落させました。慕容超は建康に送られて斬られ、南燕は滅びます。
この戦役から読み取るべきことが、二つあります。
ひとつは、正直に認めるべきことです。劉裕は敵の判断ミスに助けられました。もし公孫五楼の策が採られていたら、劉裕もまた桓温と同じ運命をたどっていたでしょう。
もうひとつが、より本質的です。彼のルート設計を見てください。淮河から泗水へという南北に走る水の線を、船で行けるところまで押し切り、峠の直前でだけ陸に上がっている。桓温との差は、勇気でも兵力でもなく、船を降りる地点の設計にあります。
そして車陣。私は、これは「持ち運べる地形」だったと考えています。淝水で前秦の騎兵を封じたのは、淮南(わいなん)の湿地と水路という地形でした。しかし地形はいつも都合よくそこにあるわけではない。ならば、車を並べて自分で作ってしまえばよい。劉裕という人の凄みは、天才的なひらめきではなく、一度うまくいったことを改良して繰り返す職人的な反復にあります。この臨朐の車陣は、8年後のある戦術の予行演習でした。
盧循(ろじゅん)の乱(410年から411年)——江南の水路が、敵に回った年
ところが、劉裕が広固を囲んでいた410年、後方で大事件が起きます。
孫恩の乱の残党を率いていた盧循(ろじゅん)——孫恩の妹婿にあたる人物です——が、部下の徐道覆(じょどうふく)とともに、南の広州から北上を開始したのです。彼らは贛江(かんこう)や湘江(しょうこう)を下って長江に出ると、一気に東へ進み、建康に迫りました。
劉裕は南燕を平定した直後の疲れた軍を率いて、急ぎ帰還します。そして建康を守り抜き、同410年末の左里(さり)の戦いなどで盧循軍を撃破。411年、盧循は交州(こうしゅう。現在のベトナム北部)まで逃げて敗死しました。
この乱は、劉裕の生涯で最大の危機だったといわれます。北伐に出た隙を突かれ、都が落ちる寸前まで行ったのですから当然です。しかし私は、この10年あまりの対孫恩・対盧循の戦いこそが、のちの劉裕をつくったと考えています。
孫恩・盧循の乱は、「海と川の反乱」でした。孫恩は沿海の島々に拠点を置き、船で上陸しては引き揚げるという戦い方を繰り返しました。盧循は南の内陸河川を下って一気に長江へ出ました。彼らを追いかけるということは、江南の水路網と海岸線を、十年にわたって走り回るということです。
ここに、江南という土地の二面性が現れています。江南は水運のネットワークで結ばれているからこそ豊かで、人と物が速く動きます。しかしそのネットワークを敵に取られれば、同じ速さで刃が都に届く。守るための水路が、そのまま攻めるための水路になるのです。

そして劉裕は、その水路を誰よりも知る男になりました。私は、劉裕を「船の将軍」にしたのは孫恩と盧循だったと考えています。東晋を最も苦しめた反乱が、皮肉なことに、東晋史上最強の北伐軍を鍛え上げたのです。彼の水軍運用の技術は、北伐のために準備されたものではなく、内乱鎮圧の副産物として育ちました。
上流の呪いを解く(412年から415年)——東晋百年で初めて、荊州と建康が一人の手に
さて、ここからがこの記事の核心の一つ目です。「なぜ劉裕だけが洛陽と長安に届いたのか」という問いに対する、私の答えの半分がここにあります。
412年から415年にかけて、劉裕は北伐をしていません。彼がやっていたのは、内部の掃除でした。
412年、荊州刺史だった劉毅(りゅうき)を討伐します。劉毅は桓玄打倒を共にした盟友であり、劉裕に並ぶ実力者でした。劉裕は王鎮悪(おうちんあく)に精兵を与えて江陵を奇襲させ、劉毅は追い詰められて自殺します。
413年、もう一人の実力者・諸葛長民(しょかつちょうみん)を誅殺。同じ年、朱齢石(しゅれいせき)を派遣して、四川に成立していた譙蜀(しょうしょく。譙縦の政権)を滅ぼし、益州(えきしゅう)を回収しました。
415年、荊州刺史の司馬休之(しばきゅうし)と魯宗之(ろそうし)を破って江陵を制圧。彼らは北の後秦(こうしん)へ亡命しました。
この4年間で何が起きたか。地図で見ると、はっきりします。益州(四川)、荊州(湖北)、江州(江西)、揚州(江蘇・浙江)。長江の最上流から河口まで、そのすべてが、劉裕ひとりの指揮下に入ったのです。
これがどれほど異常なことか、この連載を読んでこられた方なら分かるはずです。東晋という国は、司馬睿(しばえい)の建国以来、上流と下流が常に別人の手にありました。王敦がいて、庾亮(ゆりょう)がいて、桓温がいて、桓玄がいた。上流と下流の緊張こそが、東晋という国のかたちそのものでした。謝安が北府軍をつくったのも、上流の桓氏に対する釣り合いを取るためです。
桓温は上流を持っていましたが、下流の朝廷が敵でした。謝安は下流を握りましたが、上流には桓沖(かんちゅう)がいました。劉裕は、東晋の歴史上はじめて、上流も下流も自分のものにした人間なのです。
そして、これが軍事的に何を意味するか。
一人の人間が全流域を握って、はじめて、複数の水系から同時に兵を出せるようになります。荊州の兵は漢水(かんすい)を遡って武関道へ。京口と彭城の兵は淮河・泗水を北へ。二つの方向から、別々の川筋で、同じ目標に向かえるのです。
ここで、桓温の失敗を言い直しておきましょう。桓温が枋頭で敗れたのは、水位が下がったからだと言われます。しかし本当の理由はそこではないと私は考えます。彼は一本の川筋しか使えなかったのです。補給線が一本しかない軍は、その一点を断たれた瞬間に全軍が飢えます。水位の低下は引き金にすぎず、根本原因は、彼が荊州の軍閥にすぎなかったという政治的な限界にありました。
もう一つ、四川平定のときの逸話が、劉裕の地理感覚をよく示しています。成都へ攻め上がるには、涪水(ふすい)を使う内水ルートと、岷江(びんこう)を使う外水ルートがあります。譙縦は、大軍なら必ず内水から来ると読み、主力を涪城に置きました。ところが劉裕は朱齢石に密書を渡し、外水から一気に成都を突かせたのです。地理の読み合いに、彼は勝ちました。
私は、劉裕の北伐が成功した最大の理由を、北伐そのものの中に見出すことはできないと考えています。答えは、北伐が始まる何年も前に用意されていました。後方をすべて片付けてから出発した将軍は、東晋の百年で彼だけなのです。
義熙(ぎき)土断(413年)——北伐は、帳簿から始まる
もう一つ、劉裕が出発前にやったことがあります。こちらは地味ですが、決定的でした。
前回の記事で、京口という土地の性格を説明しました。永嘉(えいか)の乱以来、北から逃げてきた流民が大量に住み着き、東晋政府は彼らのために僑州郡県(きょうしゅうぐんけん)という仕組みを設けた、という話です。北の故郷の地名をそのまま南に移植した行政区をつくり、そこに流民を登録しました。
このとき彼らが記載された戸籍を、白籍(はくせき)と呼びます。土地の正規住民が載る黄籍(こうせき)に対して、仮住まいの人々の名簿という位置づけです。そして白籍に載っている者は、租税と課役を免除されていました。故郷を失った避難民なのだから、当座は勘弁してやろうという措置です。
ところが、この「当座」が何十年も続いてしまいました。南に来て三代目、四代目になっても、まだ白籍のままで税を払わない。しかも、税を逃れたい在来の住民や、豪族に囲い込まれた隠し戸籍まで、この制度の隙間に紛れ込んでいきます。
国家から見れば、これは悪夢です。人はそこにいて、田を耕して収穫を得ているのに、国庫には一銭も入らず、兵として徴発することもできない。地図の上に、税の届かない空白地帯が広がっているのと同じです。
これを整理する作業が、土断(どだん)です。白籍の者を現住地の黄籍に編入し、課税と徴発の対象に組み込む。364年に桓温も庚戌(こうじゅつ)土断を実施しましたが、徹底しませんでした。
413年、劉裕は義熙(ぎき)土断を断行します。僑民を現住地の戸籍に編入し、あわせて豪族による山林や湖沼の私的占有を制限し、隠された戸口を摘発しました。
ここで注目したいのが、この土断には例外があったとされることです。徐州(じょしゅう)・兗州(えんしゅう)・青州(せいしゅう)の、晋陵郡(しんりょうぐん)の境界内にいる僑民は、対象外とされたと伝わります。史料の解釈には幅がありますが、この地域はまさに京口一帯、北府軍の兵源となってきた北来流民の集住地です。
つまり劉裕は、国家の財源を最大化しながら、自分の軍の兵源だけは別枠に囲い込んだことになります。一般の民は帳簿に載せて税を取る。しかし北府の兵は、一般の課役に飲み込ませず、兵として温存する。私は、これは極めて冷徹な、そして正確な統治判断だったと考えます。
416年の北伐は、この3年前の帳簿仕事の上に立っています。
そして、ここに現代へつながる普遍性があります。補給線とは、要するにキャッシュフローです。どれほど優れた戦略を描いても、売上が立つ前に運転資金が尽きれば事業は死にます。桓温は残高を確かめずに三度出撃し、三度とも資金ショートで撤退しました。劉裕は、出撃の前に帳簿を締め直したのです。
組織論としても同じことが言えるでしょう。後方の権限が二重になっている組織——上流と下流に別々の司令部がある状態——は、遠征に出た瞬間に背後から崩れます。攻める前にやるべきことは、指揮系統の一本化と、原資の確保です。劉裕がやったのは、まさにこの二つでした。
なお、歴史を財務諸表とキャッシュフローの目で読み直す試みについては、拙著『皇帝の財務諸表』でも扱っています。
416年という「時間の窓」——なぜ、この年でなければならなかったか
準備が整っても、それだけでは足りません。もう一つ、北側の事情が必要でした。
416年、後秦の皇帝・姚興(ようこう)が死去します。跡を継いだ姚泓(ようおう)は温厚ではあるものの武断の器ではなく、即位早々、弟の姚懿(ようい)や姚恢(ようかい)らが相次いで反乱を起こしました。後秦は内訌(ないこう)で身動きが取れなくなります。
しかも後秦は、西から長年にわたって圧迫されていました。赫連勃勃(かくれんぼつぼつ)です。匈奴(きょうど)系の鉄弗部(てつふつぶ)出身のこの男は、オルドスの地に夏(か)を建て、統万城(とうばんじょう)という白い要塞を築いて、後秦の関中を執拗に削り取っていました。
一方、華北最大の勢力である北魏(ほくぎ)はどうか。当時の皇帝は明元帝・拓跋嗣(たくばつし)です。北魏はモンゴル高原の柔然(じゅうぜん)に備えなければならず、西では夏と対峙していました。南に全力を向ける余裕がありません。
地図の上に三点を打ってみてください。オルドスの統万城(夏)、山西北部の平城(へいじょう。北魏)、関中の長安(後秦)。この三者が互いに睨み合い、どこか一方に全力を注げない状態にある。その隙間が、南から差し込む刃の通り道になります。
劉裕は北魏に対して、黄河を通らせてほしいと通告しました。北魏の朝廷では議論が起こります。このとき崔浩(さいこう)——のちに太武帝の下で北魏の国策を担い、そして非業の死を遂げる、あの漢人の名臣です——は、劉裕を通してやって後秦と戦わせ、両者が疲れるのを待つべきだ、劉裕が関中を取ったとしてもそれを保つことはできまい、という趣旨の意見を述べたと伝わります。
そして416年8月、劉裕の大軍が動き出しました。
ここで一つ確認しておきたいことがあります。「時間の窓」は、劉裕だけに開いたわけではありません。桓温の369年にも、前燕は内紛を抱えていました。謝安の384年には、淝水の敗戦で華北全体が大混乱に陥っていました。窓はいつも、一定の頻度で開くのです。
違いは、窓が開いたときに、準備の整った軍を差し込めるかどうかでした。桓温も謝安も、窓を見つけたときには準備がなかった。劉裕は416年に、はじめて窓と準備を重ね合わせることができたのです。
私は、崔浩の見通しは半分当たって、半分外れたと考えています。劉裕が関中を保てないという予測は、見事に的中しました。しかし北魏は、その劉裕から黄河のほとりで手痛い一撃を食らうことになります。
五道並進(416年)——劉裕は、北伐を「土木工事」として設計した
416年の北伐で、劉裕は軍を分けました。おおよそ五つの方面から、別々の水系を使って同時に北上させたのです。史料によって数え方や分担に多少の異同がありますが、大枠は次のようなものでした。

王鎮悪と檀道済(だんどうさい)の軍は、淮河・淝水の方面から陸路で許昌(きょしょう)を経て洛陽へ向かう。沈林子(しんりんし)らは汴水を開いて遡る。沈田子(しんでんし)と傅弘之(ふこうし)は荊州から南陽(なんよう)を経て武関道に入り、関中の南口を突く。王仲徳(おうちゅうとく)は前鋒都督として巨野沢を開き、黄河へ入る水路を確保する。そして劉裕の本隊は、彭城から泗水を北上し、清水を経て黄河に出る。
416年10月、王鎮悪と檀道済が洛陽を陥落させました。後秦の守将・姚洸(ようこう)は降伏します。永嘉の乱で失われて以来、この古都に南朝の軍旗が立ったのです。
さて、ここで読者のみなさんに、頭のなかで一本の線を引いていただきたいと思います。
建康を出て長江を下り、京口へ。そこから水路を北へ抜けて淮河に入る。淮河を少し西へ行き、泗水に乗り換えて北上する。彭城を過ぎ、巨野沢という広大な湖沼地帯に入る。そこから清水を抜けて、ついに黄河へ出る。黄河を西へ遡り、洛水(らくすい)の合流点にたどり着く。そこが洛陽です。
この線を、劉裕は船で結びました。浅いところは掘り、湖沼は通路に変え、途切れているところはつなぎました。王仲徳という将は、この水路開削の専任として前鋒に置かれていたのです。軍の先頭を進むのが、戦闘部隊ではなく土木部隊だった。ここが決定的です。
桓温との違いを、もう一度はっきりさせておきましょう。桓温も運河を掘りました。369年、彼は巨野沢から清水へ抜ける水路を開いています。しかし彼が掘ったのは一本でした。その一本の水位が下がったとき、彼の全軍が飢えたのです。
劉裕は、複数の水系を同時に使いました。しかも水路担当の専任者を置いた。桓温は水路を作戦の一部にしましたが、劉裕は水路そのものを作戦にしたのです。
そして、ここに歴史の皮肉があります。劉裕が使った巨野沢から清水への線は、四十数年前に桓温が敗れながら残していった水路と、同じ系統の線でした。同一の溝をそのまま再利用したと断定できる史料はありませんが、地理的には同じ谷間、同じ水系です。敗軍の将が土に刻んだ傷跡が、次の男を洛陽まで運んだことになります。
桓温は川を使いました。劉裕は、川をつなげたのです。
私は、この五道並進を軍事史の話としてよりも、土木史の話として読みたいと考えています。中国史において北を制した者は、たいてい水を制した者でした。のちに隋(ずい)の煬帝(ようだい)が大運河を掘り、南北を一本の水の線で縫い合わせて中国を統一の時代へ導くのも、この延長線上にあります。劉裕がやったのは、その百数十年前の、軍事目的による限定版だったと言えるでしょう。
却月陣(かくげつじん、417年)——地形がない場所に、地形を作る
417年、劉裕の本隊が黄河を西へ遡り始めます。ここで問題が起きました。
黄河の北岸は、北魏の領域です。北魏は長孫嵩(ちょうそんすう)や叔孫建(しゅくそんけん)に騎兵を率いさせ、船団を岸から追尾させ、隙あらば妨害しようとしました。船が岸に近づけば矢を射かけ、綱で船を引く曳船(えいせん)の人足を襲う。船団は北岸の騎兵に脅かされながら、じりじりと進むしかありませんでした。
前回の記事で、私は淝水の戦いを地理で解剖しました。前秦の騎兵が力を出せなかったのは、淮南が湖沼と水田の入り組んだ土地で、馬が足を取られたからです。地形が騎兵を封じたのでした。
ところが黄河のほとりは開けた平原です。地形は何も助けてくれません。ここで劉裕が編み出したのが、却月陣(かくげつじん)でした。
彼は丁旿(ていう)に700人と戦車100乗を率いさせ、北岸に上陸させます。そして、両端を黄河の水際につけた弧を描くように、車を並べさせました。上から見ると、月が欠けた形に似ている。だから却月陣と呼ばれます。
北魏軍3万騎が迫ってくると、劉裕は朱超石(しゅちょうせき)に2000の兵と大弩100張を持たせて増援に送りました。北魏の騎兵が突撃してきます。まず弩の斉射がその足を止め、それでも押し寄せる敵に対しては、槊(さく。長い矛)を3、4尺ずつに切って、大槌で打ち出したと伝わります。この即席の武器は凄まじい威力を発揮し、一本が3、4人を貫いたといいます。北魏軍は潰走し、将の阿薄干(あばくかん)が戦死しました。兵数などの数字は誇張を含んでいる可能性が高いので、そのまま鵜呑みにはできませんが、少数の歩兵が大量の騎兵を撃退したという骨格は動かないでしょう。
さて、この却月陣を、どう評価すべきでしょうか。
一般には「歩兵が騎兵に勝った希有な例」として語られます。それはその通りなのですが、私はもっと本質的な点があると考えています。
第一に、この陣形の左右と背後を守っているのは、黄河そのものです。つまり劉裕は、川を陣地の一部として組み込んだのです。三方を敵に囲まれる心配がなく、正面だけに戦力を集中できる。淝水では地形が味方をしてくれましたが、ここでは川を引き寄せて味方にした。臨朐で使った車陣を、河川という条件に合わせて改良した形です。地形がない場所に、地形を作ってしまったのです。
第二に、そしてこれが最も重要なのですが、却月陣の目的は北魏を撃破することではありませんでした。船を通すことです。船が進めなければ、洛陽から先へは兵糧が届かない。北魏の騎兵は、まさにその輸送線を狙って岸を走っていたのです。
つまり却月陣は、会戦の戦術ではなく、輸送船団の護衛戦術でした。私は、ここに劉裕という人の本質が出ていると考えています。彼の頭のなかでは、勝敗の基準はいつでも「船が進めるかどうか」だったのです。
潼関(どうかん)から渭水(いすい)へ——王猛の孫が、祖父の都に還る
洛陽を落とし、黄河の水運を確保した劉裕軍は、いよいよ関中を目指します。しかしここから先が、まるで違う世界でした。
洛陽から西へ向かうと、黄河は開けた平原を離れ、山に挟まれた渓谷に入ります。そして関中の東の門にあたるのが、潼関(どうかん)です。北に黄河、南に秦嶺(しんれい)山脈の北端が迫り、そのわずかな隙間を関が塞いでいる。関中が「四塞(しさい)の地」と呼ばれるゆえんです。東の潼関、南東の武関、北の蕭関(しょうかん)、西の散関(さんかん)。四方を関で守られた盆地、それが関中でした。
潼関に達した劉裕軍は、そこで足止めを食らいます。しかも兵糧が不足しました。王鎮悪が黄河を通じて弘農(こうのう)の民から糧を集めてしのいだ、と伝わります。
この「潼関で兵糧に苦しんだ」という事実を、どうか記憶に留めておいてください。これは、この記事の結論に直結する重要な伏線です。順調に船で運べていたはずの兵糧が、なぜここで足りなくなったのか。答えは後の節で述べます。
関中の門をこじ開けたのは、南から来たもう一つの軍でした。荊州から武関道を抜けた沈田子と傅弘之が、藍田(らんでん)・青泥(せいでい)のあたりで、姚泓が自ら率いる大軍と衝突し、これを破ったのです。後秦の主力が南に引きつけられ、東の潼関方面が手薄になりました。
ここで、第6節の話が効いてきます。劉裕が関中を東(潼関)と南東(武関道)から同時に攻められたのは、彼が荊州を握っていたからです。上流の呪いを解いたことが、ここで直接の軍事的果実になりました。桓温は荊州から武関道を使うことしかできず、謝安は淮河から北上することしかできなかった。両方を同時に使えたのは、劉裕だけです。
そして417年8月、王鎮悪が動きます。彼は黄河から渭水(いすい)へ入り、蒙衝小艦(もうしょうしょうかん)という船で長安近郊の渭橋(いきょう)まで遡りました。蒙衝は漕ぎ手が船内に隠れる構造の軍船です。岸から見ると、人が乗っていない船が独りでに川を上ってくるように見え、後秦の兵は驚いたと伝わります。
上陸したあと、船は渭水の流れに押されて下流へ流されてしまいました。退路が絶たれたのです。王鎮悪は兵に向かって、我らの家族は江南にいる、ここは長安の城下だ、退いたところで帰る道はない、という趣旨の檄を飛ばし、そのまま城へ突入しました。長安は陥落し、姚泓は降伏。後秦は滅亡します。
ところで、この王鎮悪という人物について、書いておかなければならないことがあります。
彼は、王猛(おうもう)の孫です。
王猛。前回と前々回の記事に出てきた、あの男です。桓温の陣を訪ねてシラミをつぶしながら天下を論じた男。前秦の苻堅(ふけん)を補佐して華北を統一させた名宰相。そして死の床で「晋は正統の暦を保っております。どうか晋を伐つことをお考えになりませんように」と遺言した男です。
その王猛の孫が、前秦崩壊後に南へ渡り、劉裕に仕え、南の軍の先鋒として、祖父が政庁を構えていた長安に入城したのです。
私は、この光景に、歴史の巨大な皮肉を見ます。王猛は南の東晋を「伐ってはならぬ相手」と定め、主君を戒めました。その孫が、その南の軍を率いて、祖父の都を落としたのです。一族の忠誠や家の由緒よりも、自分の実力を評価してくれる場所を選ぶ。私は、これが貴族の時代の終わりを告げる光景だったと考えます。劉裕という寒門出身の男の下でこそ、こういう人事が可能になった。名門の当主なら、敵国の宰相の孫を先鋒の大将に据えるという判断は、まずできなかったでしょう。
なぜ長安を保てなかったのか——砥柱(しちゅう)の向こう側
長安を得た劉裕は、しかし、そこに長くとどまりませんでした。
417年11月ごろ、建康で留守を預かっていた劉穆之(りゅうぼくし)が死去します。劉穆之は、劉裕が404年に挙兵して以来、一貫して後方の政務と財政を切り盛りしてきた腹心中の腹心でした。彼がいたからこそ、劉裕は安心して外征に出られたのです。その柱が折れた。
劉裕は12月、長安を発って南へ帰りました。長安には12歳の次男・劉義真(りゅうぎしん)を残し、王鎮悪、沈田子、王修(おうしゅう)らを補佐に付けました。
そして、崩壊は驚くほど速く進みます。
418年正月、沈田子が「王鎮悪に謀反の気配あり」として、これを殺害しました。すると王修が沈田子を誅殺します。さらに劉義真が、その王修を殺してしまいました。占領軍の司令部が、三段階で自壊したのです。
この機を、赫連勃勃が逃しませんでした。夏の軍が長安に迫り、参謀の王買徳(おうばいとく)の献策で、青泥や上洛(じょうらく)といった南への出口を先に塞ぎます。武関道という帰り道を断たれたのです。418年冬、劉義真は撤退を開始しますが、青泥で大敗し、四川を平定した名将・朱齢石らも失われました。長安は夏の手に落ち、赫連勃勃は翌419年に長安で皇帝を称しています。
わずか1年です。あれほどの労力をかけて得た古都を、劉裕は1年で失いました。
このことは、しばしば「劉穆之の死という不運」や「幼い息子を残した劉裕の判断ミス」として語られます。しかし私は、それは引き金にすぎなかったと考えています。ここには、もっと深い地理の理由が三つあります。
第一に、水運の限界線です。
洛陽の西で、黄河は三門峡(さんもんきょう)という難所に入ります。川の中に岩の島が屹立し、水は激しく渦を巻く。この岩は砥柱(しちゅう)と呼ばれ、「中流の砥柱」という成語の語源にもなりました。ここは古代から唐代に至るまで、関中へ物資を運ぶ漕運(そううん)の最大のボトルネックであり続けました。唐の時代でさえ、長安に食糧を運ぶために、この難所の前後で船から荷を降ろして陸送し、また積み直すという手間をかけていたほどです。
ということは、こういうことになります。建康から船で押し出せる補給線は、洛陽のあたりで事実上終わっている。その西の長安に置いた駐屯軍を、南から養うことは、そもそもできないのです。関中で自給するしかない。しかし関中は、長年の戦乱と赫連勃勃の侵攻で疲弊していました。
ここで、あの伏線を思い出してください。潼関で兵糧に苦しんだ、という事実です。あれこそが、劉裕の水運システムがそこで限界に達した証拠でした。
なお、念のために申し添えておきますが、「三門峡の難所ゆえに長安を保持できなかった」と正史がはっきり書いているわけではありません。史料が伝えるのは、潼関で兵糧に苦しんだという事実と、歴代を通じて関中への漕運が砥柱に阻まれ続けたという地理的事実です。この二つを結びつけて解釈するのは、あくまで私見です。しかし私は、この解釈が最も無理なく事実を説明すると考えています。
第二に、距離の非対称です。
統万城から長安までは、直線で数百キロ。赫連勃勃にとって、長安は目と鼻の先です。平城から長安も、それほど遠くありません。ところが建康から長安までは千数百キロあり、しかも長江・淮河・黄河という三本の大河をまたぎます。
同じ長安という都市が、見る場所によってまるで違う距離に見える。建康から見れば地の果てですが、統万から見れば隣町なのです。地理とは、絶対的な距離の話ではなく、この非対称性の話なのだと私は考えます。
第三に、人の地理です。
王鎮悪は北の出身で、関中に人望がありました。だからこそ長安の統治には不可欠でした。一方、沈田子は呉興(ごこう)の出身、つまり南人です。占領軍の司令部に、北人と南人が同居していた。劉裕という重石がある間はもっていましたが、それが去った瞬間に割れました。
占領地を統治するには、現地に根を張った人材が要ります。しかし根を張れる人材は、よそから来た司令部からは「土地に取り込まれた者」として疑われます。この矛盾は、南朝が北の土地を保持できない、構造的な理由の一つだと私は考えます。
そして、結論の裏返しがここに現れます。
劉裕が保持できた線は、船が届いた線でした。洛陽と黄河南岸は、彼の生きている間、ずっと保たれています。保持できなかった線は、船が届かなかった線でした。潼関の西、すなわち長安です。
洛陽を落としてから彼が死ぬまで6年、洛陽は宋のものでした。長安を落としてから失うまでは1年でした。この差は、彼の努力の差でも運の差でもありません。船が遡れる限界線が、ちょうどそこにあったというだけのことです。
攻略できた理由と、保持できなかった理由は、まったく同じ地理の裏表だったのです。
420年、東晋の終わり——貴族の時代から、武人の時代へ
長安を失っても、劉裕の政治的立場は揺らぎませんでした。むしろ、洛陽と長安を落とした男という威信は絶大でした。
417年、彼は相国(しょうこく)・宋公となり、九錫(きゅうしゃく)を受けます。
ここで、少し立ち止まってください。九錫とは、臣下に与えられる最高位の礼遇であり、事実上、禅譲(ぜんじょう)の前段階を意味する制度です。桓温は生涯をかけてこの階段に足をかけながら、謝安と王坦之(おうたんし)に文書の起草を引き延ばされているうちに寿命が尽きました。桓温が生涯かけて届かなかったところへ、劉裕はあっさりと上がったのです。
418年12月、安帝が殺され、恭帝が立てられます。419年、劉裕は宋王となり、420年6月、恭帝から禅譲を受けて宋を建てました。彼は宋の武帝です。翌421年には、譲位した恭帝も殺害されました。
東晋、104年で滅亡。以後、宋・斉(せい)・梁(りょう)・陳(ちん)と続く南朝の時代が始まります。
ここで、桓温と劉裕の差をもう一度確認しておきましょう。桓温は上流の軍閥でした。荊州の兵は彼のものでしたが、建康の朝廷は彼のものではなく、そこには謝安や王坦之といった貴族たちが陣取って、時間を武器に抵抗しました。劉裕は上流も下流も持っていました。抵抗する場所が、どこにも残っていなかったのです。
そして、より大きな転換がありました。
司馬睿の時代、東晋は「王与馬、共天下(おうとばと、てんかをともにす)」と言われました。皇帝の司馬氏と、貴族の王氏が、天下を分け合っていたのです。権力の根拠は家格でした。どの家に生まれたかが、その人の到達点を決めていました。
劉裕以後、それが変わります。彼は寒門の出身者を積極的に登用し、大貴族の荘園を抑え、土断を継続しました。権力の根拠が、家格から軍功へと移り始めたのです。もちろん貴族はその後も長く高い地位を占め続けますが、実権を握るのは軍を持つ者になっていきました。
そして、前回の記事で予告しておいた話を、ここで回収しておきましょう。倭の五王(わのごおう)が使者を送った相手が、この劉宋です。421年、倭王の讃(さん)が使者を送った記録が『宋書(そうじょ)』倭国伝に見えます。以後、珍・済・興・武と続きます。謝安が淝水で守り抜いた江南の朝廷が、劉裕の手で新しい王朝に生まれ変わり、そこへ海を越えて倭の使者が現れた。海でつながる南朝の外交圏は、こうして劉宋の時代に本格化しました。
422年5月、劉裕は60歳で世を去ります。
そして、その直後に起きたことが、この記事のもう一つの結論を示しています。北魏の明元帝が、劉裕の死を聞くやいなや南下を開始し、423年までに虎牢(ころう)や洛陽といった河南の要地を次々に奪ったのです。
劉裕が生きている間、洛陽は宋のものでした。彼が死んだ翌年、それは失われました。制度ではなく一人の個人の力量に支えられた版図は、その個人が死ねば消えます。私は、劉裕を東晋を滅ぼした簒奪者としてよりも、貴族が独占していた「天下」を、実力で獲れるものへと変えた人物として評価します。彼が北伐で得た土地は数年で失われましたが、彼が変えた権力の原理は、その後200年の南朝を規定し続けました。
まとめ:船が届いた場所までが、彼の帝国だった
冒頭の結論を、あらためて確認しましょう。
劉裕が洛陽と長安を落とせたのは、彼が北伐を「戦」ではなく「水運の事業」として設計したからでした。そして彼が長安を保てなかったのは、その水路が長安まで届いていなかったからです。
なぜ彼だけができたのか。三つに要約できます。
第一に、後方をすべて片付けてから出発したことです。孫恩と盧循の乱を鎮め、上流の劉毅と司馬休之を排し、四川を回収して、東晋百年ではじめて長江の全流域を一人の手に収めました。複数の水系から同時に兵を出せたのは、これができていたからです。桓温は一本の川筋しか持てず、その一本が断たれて飢えました。
第二に、帳簿を整えてから兵を出したことです。義熙土断で税と兵の基盤を確定させ、しかも北府の兵源だけは別枠に温存しました。北伐は、出発の3年前に机の上で始まっていたのです。
第三に、川をつないだことです。淮河から泗水へ、泗水から巨野沢へ、巨野沢から清水へ、清水から黄河へ。浅ければ掘り、途切れていればつなぎ、先鋒に水路担当を置いた。そして、その船を守るために、川を陣地の一部に組み込んだ却月陣という戦術を編み出しました。彼にとって勝敗の基準は、いつも「船が進めるかどうか」でした。
ところが、その船は洛陽より西へは行けませんでした。三門峡の砥柱が、南から来る水運を拒み続けたからです。だから彼の帝国の北の境界線は、地図の上に人が引いたのではなく、船が遡れる限界として自然に引かれました。長安は、その線の向こう側にありました。
「歴史は暗記ではなく、地理で動く」——劉裕の生涯もまた、この視点の正しさを証明しています。彼を長安まで運んだのは水でした。そして彼を長安から追い出したのも、水が届かないという地理でした。彼が獲れた場所と、獲っても保てなかった場所の境目は、彼が生まれるはるか以前から、大河の流れとして決まっていたのです。
草鞋を売っていた京口の少年が、万里を呑む虎になった。しかしその虎も、川がない場所へは行けませんでした。
さて、辛棄疾の詞には続きがあります。寄奴の武勇を称えたあと、彼はこう詠みました。
「元嘉(げんか)草草、狼居胥(ろうきょしょ)に封ぜんとして、贏(か)ち得たるは倉皇(そうこう)として北を顧みるのみ」——元嘉年間のあわただしい北伐。かつて霍去病が匈奴を破って封禅(ほうぜん)した狼居胥山を目指すつもりが、得られたものは、あわてふためいて北を振り返る姿だけだった。
元嘉とは、劉裕の三男・文帝、劉義隆(りゅうぎりゅう)の年号です。父が命がけで獲った河南を取り返そうとして、二度の北伐に失敗し、逆に北魏の太武帝(たいぶてい)に長江の北岸まで攻め込まれた。次回は、その劉義隆と元嘉の北伐を取り上げます。攻めた側が攻め返されるとき、地理は何をしたのか。父の成功と息子の失敗を並べると、この時代の構造がもう一段はっきり見えてきます。あわせてお読みいただければ幸いです。
劉裕が滅ぼした南燕や後秦、そして彼から長安を奪った赫連勃勃の夏。この五胡十六国の激動と、南北を分けた地理の攻防については、Kindle本『中国史は地理で決まる2 八王の乱と五胡十六国』で、地形図を使いながら詳しく解説しています。「なぜあの場所が何度も争われたのか」という視点で読むと、潼関という小さな関所が、なぜ千年にわたって中国の運命を左右し続けたのかが、はっきり見えてくるはずです。
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