蘭 第4話 雫と太陽
気温は高いけど風のある曇り空の天気だった。
「なに。発作?」蘭は父親に捕まっていた。
「ちがう、関係ない。私は泣きたいわけじゃない。それがおかしいっていいたいんだ。絶対に間違ってるって言いたい。」強く言っているようにも、懇願するような危うい強さにも聞こえた。
「はあ?」
「なにが言いたいのかわからなくなる」頭をたたくように、抑えるようにして彼女は泣く。そうして目と鼻が真っ赤になる。憤りと怒りで言葉を放つと同時に涙が流れる。それはおかしい、と。それは間違っている、と。それでは傷つく、と。でも怖くてたまらないから、届くことなどないのが悔しいから、涙はボロボロ出る。父親に彼女が思うことを言うとき、彼女は必ず泣いた。そしてそれを本当に嫌っていた。あの人が嫌うより何倍も、自分で嫌っていた。
「こんなふうに、あるべきじゃない。絶対、だめだ。こんなのゆがんでるもの。」
「何の話をしてる」
「こうしろ、しないならこうする。強制して、勝手に人のことを決めつけて、出ていけないだろって言って黙らす。黙るの、みんな。子供だよ、知ってるよ嫌と言うほど。でもさ、そうやって感情を取り上げて、私の私である部分を取り上げて、そんなふうにやらないでよ」世界が、止まる。父親と話すときのことを、蘭がそう表したことを思い出した。
「なんだよゆがんでるって。だれのおかげで食べれて生活できてんだよ。」
「だから。」彼女の悲痛な声がする。
「嫌というほどわかってるって。14歳でただのガキで、お父さんの目にそれはなにもできない理由で、黙っている理由としてしか映らないこと。」
「そうだよなんもできないよ。病院行った方がいんじゃないの、毎日何をほざいてんの。」けだるそうに、笑うように言う声がした。
「行かないよ。何度言われても。どうしてそんなに人を傷つけようと、拘束しようとするんだ」蘭が強い目をする時の声とがした。
「はあ?なんなんだよ、お前おいっ」詰め寄る物音がする。多分その強い言い方と、蘭のあの目があの人には気に入らなかった。聞きたくなかった。見ていたくなかったし、蘭があそこにいる必要はないと思った。でも僕がここで出ていったら、蘭はもっと苦しむことをもう知っていた。
「なんだそれお前。直すとか、なんでそんなこと子供から言われなきゃいけないんだよ。お前には関係ないんだよ。そんな嫌なら出てけよ。一人じゃなんもできないだろうが。」
「家族って、? この関係性の中で、この場所で、取返しがつかなくなることが起こってると、そういうことをしてるとこれだけ悲しく私にはわかるのに、どうしてわからないの。子供って、なんだろ。何を求められているんだろう。分かるけどさ、知ってるけど分からない」雨が降り始める時に、雫が地面をならす。その時の音みたいに、その声は響いた。
そうしてすぐにその雨の気配も、存在それ自体もかき消すみたいにふうーーと息をつく。全身からすべての力を抜くように息を吐く。
何かを消し、諦める。ああ、同じことが繰り返されていくんだと分かるから。絶対に何も変わりはしないから、彼女の全てを消さなくてはいけない。
でも期待と正しさと純真が混ざり声を出す。家族とは、親子とは、夫婦とは、ゆがんだことが許される、隠されるだけの場所なのだろうか。相変わらず彼女の父親は詰め寄るようにしながら汚い言葉を並べ立てていて、それは彼女をカラーレスに、かなしばりにあった動物かのような状態にする。だけど彼女はそれでもそれらを聞き逃すことが出来ないんだろう。バカ素直にそれは彼女の耳に入ってしまって、そのまま傷ついてしまって、彼女を変えてしまうんだろう。そして変わっていることにすら、何かを消していっていることにすらだれも気がつかないんだ。もしくは気がついても、それらを喜ぶんだろうな。人はどうして時に、とてつもなくそぐわない場所に身を置かなくてはいけないんだろう。
僕が家の窓を超え蘭の部屋の窓に足をかけた時、彼女はぺたんと床に座り、ただ涙を流していた。静かに静かにとどめなく。そんなふうに泣いてはだめなのだと強く思う。僕の手に力が入るのを感じる。泣くときすらもだれも気がつかないように泣くなんて駄目なのだ。そんなの間違っているから。僕は蘭にそんなふうにして欲しくないから。気持ち伝えて、伝わったらって願って話して、それは大事なのだから。言葉をそんな風にしか彼女の前で使わないあんたに、彼女は何度試し、傷つかなくてはならないんだ? 蘭の目からは取り留めなく涙が流れ続けている。不穏な暗闇が蘭を覆っていくように見え、僕の目もかすむ。でも僕はその霞みをもう見たくはなかった。僕らにはどうしようもできない何かがずるずると音をたてて引き込んでいく、それが嫌だった。それはやっぱりあまりにも圧倒的な暗さで、濃さで、覆うとしてくる。でも僕しかいなかった。そして、僕がいる。僕はこの場所に在る透明で虹色に光る雫がたしかにあることに、この頃気がつき始めていた。窓枠を越えて蘭の前に行く、彼女を真正面から見る。
「蘭、大きな犬と川か海の近くで暮らすんだろう?ギター弾いて笑って。だから何もいりはしないよ、ここで。大丈夫だ」ぼくは深く息を吸って、大きな声で問う。
シャンと声を出す。
蘭が僕の顔を見る。顎をあげてきちんと僕の目を見る。彼女の目を見て、ストンと僕の心で予感が跳ねた。蘭はそこから出られると確信したから。ふはっとシャボン玉が音をたてて姿を変えるみたいに蘭が笑う。涙がぽろぽろとこぼれているけど、僕は動かなかった。僕には蘭が温かくなっていくのが、動き出したのがわかったから。タンクトップに触れるか触れないかくらいの長さの髪が風で揺れていた。二人とも心がトクトクと正しい場所でなり始める。蘭が笑っている。僕の心は潤って、心地よく跳ねる。
蘭の髪は少し長くなっていた。肩よりも少しだけ長くて、毛先がくるんといろんな方向に向いていた。頑張って伸ばしたのにそのくせっけのせいで肩くらいの長さに見えると文句を言っていた。僕は中学一年生の時に付き合った女の子にもう一度付き合おうと言われた。私の前で笑っているところを見たことがないと言って僕と別れたその子は、僕の表情が変わったと言った。
ある日、真っ赤な目のまま怒りと不安と苦しさみたいなのがごちゃまぜになった張りつめた目をした蘭が、
「愛をさ、信じる?私ちょっと怖いよ」と言った。目が揺れていた。
「いろんな愛があるはずだ。」と僕はしかめ面で言った。
目を伏せて泣き笑う蘭の横にいて。ただ黙っていて、やがて何か諦めたようにもすっきりとしたようにも見える目をした蘭は、なにかを飲みこんでヒヒっと笑い上を向いた。目を細めふうと少し震えて息をつき、外を気持ちよさそうに見る。
「そうかもしれない。」そういう彼女をぼくは見る。
「そうだ、いろんな愛がある。いろんな場所がある。早く大人になってしまって、遠くに行ってしまえばいいよね。好きな人に出会って笑うの。大丈夫だもん。大丈夫、自分で知るから。」空を見たままそう言った。ぼくはとても驚いた。蘭は光ったから。目を離せなかった。
大人になっていろんな場所へ行き、どこかで好きな人に出会ってこの人が叫ぶんだろうことを唐突に思った。まるで狼みたいに叫ぶんじゃないかな。狼は気高くて愛の深い動物だから、喜びと笑って叫ぶような愛をもって叫ぶ。きっと頭にコトン、と音が響き、堰を切ったみたいに泣くんだと思う。全て流れ落ちていくかのように。せまっ苦しくないだだっ広い場所のどこかで。僕が予知できることがこの一生にもしもあるならば、それだけだろう。彼女のその姿だ。僕はその姿を見た気がしたから。もしくはあまりにも強くそうなることを願ったのか、分からないけど。
