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蘭 第7話 鎖骨の上の花

 まだ肌寒い中で卒業式が近づいてきていた。僕らは、卒業式の予行練習を毎日のようにしていて、億劫でしかたなかった。良く晴れた日曜日で、僕は本を読んでいた。また春になれば蘭と屋根に上ろうか、と風の吹くなか考える。その時、蘭の家から不穏な話声が聞こえてきた。30分ほどしたころだったろうか、蘭の部屋から話始める声が聞こえた。蘭の母と蘭の声がして、彼女は違う、と繰り返していた。そんなふうに大丈夫とか、そんなんばかり言わないでよ!と彼女は取り乱して、母親のなだめるつもりの言葉が彼女を追い込むのかがわかるから、僕は寂しくなる。それでも彼女は母親に何かを伝えようと試みていて、深呼吸しては震えるように息を吐いていた。でもそれでもそれはうまくいかなくて、蘭は徐々に黒白のテレビみたいになる。見失っていく。

「だってお母さんはそれを持っていないもの。血繋がってないじゃないかあの人と!大丈夫なんてどうして言えるんだよ!どうやって言える?私がこう苦しんでること、それは大丈夫じゃないだろう。そういうもんじゃ、ないの。そういうものじゃないの。適当はやめてよ。ごめんって、それだけを言うのはさ、傷つけるだけだからさ。」胸をかくような声がいった。
「出ていけたらって思うよ。苦しんでるのもすごくわかる。でもいろんなことが変わるんだよ。」
「そんなの、そんなのさあ、変わるって何が?どうでもいいじゃん。言い訳じゃないか。それが理由じゃないだろう?あの人のことが好きだから、とか。お母さんも鈴も望んでないからって、変化する気はない。ここに居たいからってちゃんと言ってよ。そしたら、そしたら進めるのに。」小さい子供のように、震える声が悔しそうに言った。
「変わっちゃいけないことはなんなの。失くしちゃいけないものはなんなの。なんで。どうして、」
「ごめんね。たくさん傷ついてごめんね」
「でもそれは解決にならない。ねえ、お母さん。それは何も助けない。それをもう知ったっていいでしょう?私にとってそれは違うってこと、もうわかったっていいでしょう?」
「何もかもを嫌いたくないよ。一人で進みたくないよ。でも影響されて、何かを吸収して他人に放ちたくない。そうなってもっと苦しみたくはないんだ。」眉を寄せてつばを飲んだ。もうこれ以上何もしゃべりたくないみたいに。
多分ただ強く抱きしめればいいんだ。ごめん大事なものが見えてなかったと言って笑って、さあ出ていこうと言えないとしても。ただ彼女にとっての事実を、その世界のゆがみと彼女のまっすぐさも、認めて強く抱きしめていればいいんじゃないの。何かを超越するくらいそれに意味があるんじゃないかな。多分、代替えできない愛がある。
「顔とか目つきとか話し方、何回も何回も似てるって言われた。それをごまかしてほしい訳じゃない。それをごまかすんじゃなくて、それを認めて大丈夫になりたいんだ。あの人が望んでるのは、欲しいのは、自分の欲しい役割を叶えてくれる存在だって気がついてるでしょ。それを見て、そういうところで過ごすのはすごくつらいよ。時間は残酷に何かを変えるのよ。時間は、環境は、人を変える。私はそれを知ってる。お母さんがマヒしていくみたいに、何かが分からなくなる。あるいは吸収する。ガキだということを馬鹿にされるけど、何もできないと言われるけど、それが理由で吸収する。止まっていれば吸収する。おかしいことにも、傷ついている事にも、間違っている事にも気がつかなくなる。」母親は何も言わなかった。しばらく沈黙が流れた。僕は彼女がうつろな顔をしていることに気がついた。蘭の母は疲れきったというように息をついて頭を押さえていて、蘭はそれを見て傷ついたような顔で笑った。しばらく何かをこらえるように母親を見て、でも目が合うことはなかった。

「私しゃべりすぎだね。声をあげれば私がおかしいと、問題があるとみられるのね。ほんとうに、そうなのねここでは。誰も求めていないのにこんなこと言って。結局出ていかずに、高校だって行ってこの家でぬくぬく暮らしてるじゃないかって?あの人の言ってることが事実だって思わなくちゃいけないの。たぶんそうなんだよ。でも、さ」
「ごめんね。」蘭には聞こえてはいなかった。聞こえてなくてよかった。僕の目には透明な目でどこかをただますっぐに、色も無しに見ている蘭が映った。
「だめなものなのかなぁ。高校もいって、沢山働いて、お母さんと鈴と三人で笑って、自由でみんなで暮らしたいって思うのはだめなことなのかなぁ。こんなにもなにもかもバラバラで、こういうふうにばかり進ものなのかなぁ。わたしがあの人のいうようにおかしいのかな。」
蘭が泣いた。吠えるように、壊れるように泣いた。蘭を連れて行こうと窓辺に座っていた僕の目からは、気がついたら涙が出ていて、僕はただ茫然と蘭の母親を見ているのだった。蘭の母親が何かを繰り返す声が聞こえる。すみを落としたら、グワーッと半紙に墨汁が広がっていくように泣く中で。うなるように、叫ぶように声を上げ。圧倒的に僕はガキだと知り、自分をひどくちっぽけに感じる。彼女はなにをするにも、誰かを心から信じて頼るにもあまりにも傷ついていることを目のあたりにする。彼女は泣くことそれ自体を嫌っている。どんどん自分がおかしいと思われるだけのものでしかないから。弱いと思われるから。悲劇ぶってると思われんのも、何かが不可能だと思うのも思われるのも、なにもかも全て嫌だから。涙は彼女の記憶にあまりにも強く結びついている。でも泣いている。進んでいく、気がついていく、求めること自体が間違っているかもしれないと気がついていく。そうしてだれにも止められないような熱さで泣く。誰が簡単に「大丈夫だよ」なんて言えるんだ?助ける、救うなんていうのはすごく難しいことだと知っていた。僕はそれを知っているし、蘭のことを知っている。できる事が何かを考え、知り大事にしていた。僕のしたいことだった。彼女のそのブルーで暗くて濡れてて、心に居座って離れない密度の濃い叫んでる塊を知っている。知るというのは、それはとても大きくて大変なことだ。頭がパンクしそうになって、何も考えられなくなるくらい。
でもこんなふうに泣くところを見ても、目を背けようと、彼女を手放そうとは思わなかった。ただ思うことなどないのだった。
 

 
 卒業式を迎えた。蘭は14歳で僕は15歳だった。春から、それぞれ東京のど真ん中の私立と、地元の公立高校へ通う。蘭はその東京のど真ん中の私立に受かっていたのだ。



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