生命の万華鏡【短編小説】
呆然と立ち尽くす。視線の先に横たわる幾人もの影。彼らがもう動かない人間であると瞬時に理解した。疑いようのない死が視界を埋め尽くす。
目を覚ました僕が見た最初の光景は死屍累々の有様だった。
一体何が起きたのか。思い出そうとした時、こめかみに激しいノイズが走る。
「僕は誰だ」
どうしてここにいるのか。この状況はなんだ。何も思い出せない。自分に関する全てが真っ白だ。生まれたての赤ん坊になってしまったような不安が心を浸透していく。
「とにかくここから抜け出さなくちゃ」
この場所は浅いすり鉢状の崖となっているようだ。岩肌の突起を掴み、よじ登る。腕を伸ばすたび、軽い違和感を覚える。ギギギ、と関節から音が鳴った。
幸い痛みはなく、大きな怪我ではなさそうだった。右腕、右足、左腕、左足と慎重に四肢を動かし、崖を登る。
登りきった先、濃い緑色とむせ返るほど青い匂いを放つ深い森が僕の眼前を覆った。
森の中を進む。極彩色の鳥が高周波の叫び声をあげて旋回している。長髪の猿が樹木から樹木へ飛び移った。目の大きなトカゲが若葉に紛れ、枯葉には節ばった昆虫がプログラム通り茶色く擬態していた。
森は数えきれない生物の渦巻きをあるがままに許容し、こぼれ落ちる光が全てを等しく照らし出す。さながら鮮やかな万華鏡のようだった。
それは僕がかつて見た事のある景色だったのだろうか、それとも初めての風景なのか区別はつかない。だがあらゆるものを新鮮に感じ、それらの美しさに心が躍った。
胸の奥で何かが騒めく。記憶を失う前もこんな風に感じていたのだろうか? それとも記憶を失ったからこその純粋な感動なのか。
森の奥深くへ歩みを進めながら、答えの出ない問いを思考する。
幾日か森をさまよううちに弱肉強食の厳しい世界を目の当たりにした。
小さな生命が大きな生命に捕食され、その生命すら獰猛な動物の餌食になる。命が糧となる循環。
目を背けたくなる連鎖の営みをかつての僕はどう捉えていたのだろう。
「生きるって残酷と隣り合わせ。それくらいわかっていたのに」
言葉が自然とこぼれ落ちた。僕の魂はずっと以前からその事実を知っていた気がする。
僕の五感は日に日に鋭くなっている。全ての感覚が研ぎ澄まされ、世界の隅々にまで意識が及ぶ万能感があった。
森と風が奏でる音楽。瞳を射す木漏れ日。腐葉土の感触。生命の匂い。食欲は湧かなかったが、少しばかり肉の味も知った。誰かの願いが聞こえた気がした。
些細な特別たちが生きている事を教えてくれる。僕はこの新しい世界を迷いなく享受していた。失われた記憶に対する恐怖よりも、目の前の世界が与えてくれる刺激に喜びを感じていた。
どれほど森の奥まで進んだのだろうか。自分がどの方向から来て、どこに向かっているのかすでにわからなくなっていた。もしかしたら同じところをくるくると回り続けているのかもしれない。
心細く思い始めたところ、まだ一度も辿り着いていない小川に行き着いた。
そこで一人の女性と出会う。
彼女は岩肌に腰掛け、ぼんやりと川の流れを見つめていた。腰までありそうな長い黒髪が木々から漏れ出す陽光を浴びて、とても綺麗に天使の輪を描いている。
僕は生きた人間に出会えた事が嬉しくて駆け寄った。
「やっと人に会えた。君はここでなにをしているんだい?」
彼女は一瞬、怯えた顔をしたが僕の頭のてっぺんから足のつま先まで眺め回すと安心した表情に変えた。
「何もしてないよ。じっとしているだけ」
彼女の切れ長の瞳の奥は、寂しげな色を宿している。得体の知れない心の疼きに突かれ、僕は彼女に親近感を覚えた。
これまでの出来事を話す。
見知らぬ場所で目を覚ました事。そこにたくさんの亡骸があった事。何日も森の中をさまよっている事。生物の営みと自然の美しさを目にした事。
言葉を重ねるうち、あっという間に互いの心の距離は縮まった。
ノヴァ、と名乗る彼女もまた過去に囚われていた。
「私はね。人間社会に必要とされていないの。売れ残りは誰にも相手にしてもらえない」
ノヴァがそう話した時、僕の心にまた言葉にできない疼きが起きた。電気が流れたように頭が痺れる。こめかみにノイズが走る。しかしノイズの意味が解析できない。
ノヴァが寂しげに笑う姿が悲しい気持ちを誘う。ただ、彼女を癒したいという衝動に駆られた。
「僕は名前すら思い出せないんだ。何も覚えていない。それでも仲良くしてほしいな」僕は手を差し出す。
「初めてだから力加減がわからないわ」
そう言ってノヴァはこの手を握った。その温かさは僕の肌を通して心の柔らかいところまで届く。ようやく人間の温もりに触れた安心感に僕は溶けてしまいそうだ。
それから僕たちは互いの記憶を補うように寄り添いあって生きていく事を選んだ。
僕はこの森で動物が起こした面白い出来事を大袈裟に語り彼女を笑わせる。ノヴァは火の起こし方や見かけによらぬ怪力で簡易的な住居の建築を披露し、僕を驚かせた。小川のそばに居を構え、一緒に暮らした。
毎朝、目を覚ますたびに僕は新しい発見を知る。
最初は空の色が一度たりとも同じではないと気づいた。雲の形は延々と移ろい続ける。鳥の声が季節によって違う。寒くなると凶暴な獣は姿を消す。時が流れるにつれノヴァへの気持ちが強くなっていく。
そしてこの森には想像もできないほどの多くの命が息づいている事実。
目にする全ての命に永遠の繋がりがあると確信した。草木が虫に食べられ、虫が鳥に捕らえられ、鳥が獣に狩られる。その連鎖の中で新しい命が生まれ、古い命が消えていく。
「みんな等しく命を食べる」
そう結論づけた時、頭の中でカチリと大きな音が鳴った。
生命が食すのは血肉だけではない。食される者が持つ夢や彼らが生きた世界までもが生命の身体の一部となる。未来永劫、想いは蓄積されていく。
生命の神話体系。
そう答えを出すと命の尊さはより一層、僕の心を染め上げた。
歳月が流れたある日、僕の身体に異変が起こり始めた。
これまで味わった覚えのない疲労感が全身を覆い、鼻と耳から茶褐色の血液が溢れる。日毎に視界から色が抜け、両腕が動かなくなった。
思考が混濁する頻度が増え、ついに立ち上がる事すらできなくなった僕は病による『死』という概念に絡め取られたと悟る。
ノヴァも異変を敏感に察知しているようだ。彼女の悲しそうな顔から僕の命は長くもたないと察した。
だからこそ、伝えておきたい言葉があった。
「ノヴァ……もし、この命を繋ぐ先を決められるなら、僕は一番に君を選びたい」声は掠れ、音程も合わない。
「僕が死んだら、少しだけでいい。僕を食べてほしい。かけがえのない君の一部となって繋がっていたいんだ」
ノヴァが僕を抱きしめてくれている。なんて言っているんだい? 何も聞こえないよ。
「ノヴァ、記憶を託すよ。僕がこの世界で見てきた、感じてきた、全部を」
生物も、炎も、病も。全てが僕を美味しく食べてくれますように。
そして、僕という存在が、また別の命へと繋がっていくのを信じているから。
灰色がかった視界がまぶしく明滅して、この命は鼓動を止めた。
完全に機能が停止した彼は瞳から光が消え、急激に冷たくなっていった。
私は彼のこめかみを爪で抉り、中からそっと小さなチップを取り出す。記憶媒体。元々の故障と経年劣化によって半分以上が機能していないと思えた。
彼は初期型のアンドロイドだった。知能指数は十五歳程度に設定されていたのだろう。
廃棄された際の衝撃で再起動されたのだろうか、破損した記憶を持った彼は機能を停止する今まで自分を人間だと信じて疑わなかった。
私は自分の片眼を取り外し、空洞の奥にあるポートにチップを差し込む。それから瞳を元に戻し、データがインストールされるのを静かに待つ。
私の領域に彼の記憶がノイズ混じりに映し出される。そこには彼の見た景色や触れたもの。彼が感じた全ての感情があった。特に私に対する愛情は熱暴走を起こしそうなほど強く刻まれている。
彼の記憶は戻らなかった。しかし失われた過去を嘆く事もなかった。
彼の人生を追体験しながら、私は彼が人間として生きた証をこの身に宿した。
万華鏡のような世界。ここで生命の尊さを知った彼は連鎖の先に私を選んだ。
──ノヴァ、あたたかい鳥の卵を見つけたよ。
──ノヴァ、いつ見たって君の髪は綺麗だね。
──ノヴァ、知らない事をまた今日知れたよ。
──ノヴァ、手を繋ぐってすっごく嬉しいね。
──ノヴァ、ルールが森に存在してるんだよ。
「君と二人で眠る夜がとても愛おしいんだ」
くちびるを彼のくちびるに押し当てる。
しばらくそうしてから、前歯でふれた。
すこしだけ、かじりとって飲み込む。
泣きたくてしかたがない。
人間の心を知ったのに。
けれど私は涙が流せない。
彼を抱きしめる私の背中。
森に生きる生命たちの鎮魂歌が響き渡った。
