旨いとはなにか──28年、鮨を握って辿り着いたこと
第一章 鮨職人という“役割”
「鮨職人にとって一番重要なものとは、なんでしょうか?」
そう問われたとき、多くの人が「技術」や「経験」と答えるかもしれない。
だが、私自身の28年間の実感としては、それらはあくまで“前提条件かつ最低条件”に過ぎない。
現場に立ち続けさえすれば、技術も経験もいずれ身につくものだ。
では何がもっとも大切なのか。
それは、お客さんの“目的”を察知する力だと思っている。
一口に「お客さん」と言っても、その目的はさまざまだ。
純粋に鮨を楽しみたい人、
記念日で特別な演出を求めている人、
ビジネスの場で緊張しながら座っている人。
中には、SNSに載せることだけが目的の人もいる。
彼らが目の前の鮨をどう受け取るかは、技術や素材だけでは決まらない。
それでも、カウンターの内側に立つ私たちは、すべてを“味”に集約して応えねばならない。
言葉ではなく、一貫の鮨でその人の意図に寄り添う。
そのためには、目の前の人の“欲”を見抜く力が要る。
そして同時に、自分の“欲”とも向き合わなければならない。
自分の求める客層と違う方向性の人を拒否することも時には必要となる。
極端でわかりやすい例でいえば、強い香水など他のお客さんに迷惑になる類だ。
ただ売れる鮨を握るのか、それとも自分が本当に届けたい鮨を貫くのか。
この距離をどう縮めるかが、鮨職人という存在の根幹だと思っている。
第二章 “旨い”の正体
「旨い」とは何か。
この問いは、私の中でずっとくすぶり続けている。
多くの人は、「舌で味を感じている」と思い込んでいるが、実際には舌はただの感覚器官に過ぎない。
判断しているのは脳だ。
味覚は、五感の総合体だ。
舌で感じる塩味や甘味だけではなく、
鼻で嗅ぐ香り、目で見る色、耳で聞く音、歯で噛む食感。
それらすべてが、脳に集約されてはじめて「旨い」と感じる。
だが、さらに重要なのは「記憶」だ。
同じネタ、同じシャリ、同じ握り方でも、人によって評価が異なるのは、そこに各人の記憶や体験が強く関与しているからだ。
たとえば、子どものころに食べた母の料理の味。
それが再現されたとき、置かれた状況によっては人は涙を流すことがある。
だがそれは、味そのものが特別なのではない。
脳が、その記憶と味覚を結びつけているにすぎない。
つまり、「旨さ」とは客観的な事実ではなく、個人の中にだけ存在する感覚だ。
その感覚に、料理人がどれだけ寄り添えるか。
それこそが、本当の“旨い”を届ける職人の技量だと私は思う。
一方で、それはとても難しいことでもある。
自分の「届けたい旨さ」と、目の前の客が「感じる旨さ」が重なることは、奇跡に近い。
だが、その奇跡を一貫の中に起こしたくて、私は今日も鮨を握っている。
第三章 “売れる”鮨 vs. “届けたい”鮨
「売れる鮨」と「届けたい鮨」は、似ているようで全く違う。
商売としての飲食業を成り立たせるためには、当然ながら「売れる」ことが必要になる。
認知され、話題になり、繰り返し来店してもらわなければ、どんな理想も続かない。
特にシンガポールのような競争が激しい日本ではない土地では、技術や想いだけでは通用しない現実がある。
一方で、自分の中にある「本当に届けたい鮨」は、もっと静かなものだ。
派手な演出もなく、撰びぬいた素材の良さだけを信じ、
削ぎ落とし、削ぎ落とし、それでも残った“核”だけで勝負する。
言ってしまえば脳から受けるバイアスを如何に無くし、素材が持つ純粋な味を引き立たせるということだ。
そこには、理解されにくい静けさと、職人としての矜持がある。
だが、すべてのお客がそれを求めているわけではない。
情報と演出に敏感な時代。
SNS映えや「限定」「プレミアム」といった言葉が先行し、「味」は後回しにされることもある。
いや、正確に言えば、「味」もまた演出の一部に組み込まれてしまったのだ。
そうした中で、「届けたい鮨」だけを貫くのは、単なるわがままなのかもしれない。だが、私は思う。
“売れる鮨”と“本当に届けたい鮨”の距離を、少しでも縮めたい。
それは、職人としての誇りではない。ただの自己満足でもない。
鮨を通して、人の記憶に何かを残したい。
できれば、その人が次に誰かと食事をするときに、少しだけ味覚が変わっているような、そんな影響を与えられたら──それだけで自分にとってそれは価値のあるものだ。
第四章 “職人”と“芸術家”の違い
「シェフって芸術家みたいですね」
メディアの取材や、初めて来店されたお客さんから、そう言われることがある。
もちろん、それは褒め言葉のつもりなのだろう。
だが、私はそのたびに、軽い違和感を覚える。
確かに料理は、美しさも追求する世界ではある。
だが、私たち板前は「芸術家」ではない。
誰かに見せるためではなく、誰かに食べてもらうために手を動かしている。
芸術家は、自分の世界を表現するために創る。
職人は、自分の世界に入り込み、そして他人の世界に入り込むために創る。
私は後者でありたい。
求められているのは、「自分の鮨」ではない。
「お客さんが食べたい鮨」だ。だがそれでも、そこに自分なりの“美意識”や“哲学”をにじませることができたとき、はじめて一貫の鮨が“届く”のだと思っている。
だから私は、自由であるよりも制約の中にいたい。
芸術家のように自らを表現するのではなく、職人として相手の記憶に入り込む技術を磨いていたい。
見えない部分の仕込み、目に触れない判断、余計な言葉を飲み込みながら、目の前の一人の客に全神経を注ぐ。
その積み重ねの先にしか、“職人”という在り方は生まれないと信じている。
第五章 “反復”と“削ぎ落とし”の修練
職人にとって、最初に身につけるべきものは「技術」ではない。
それは、「継続力」と「反復」だと思っている。
頭で考えるより先に、体が動くようになるまで。
その動きが身体に刻み込まれ、意識しなくても自然と最良の手が出るようになるまで。
同じ動作を、何千回、何万回と繰り返す。
すると、リズム感が生まれてくる。それが職人の修練の本質だ。
握った鮨の貫数が少ない板前の動きを見ると、すぐにそうと分かるものだ。
最初は、何も考えず見た通り言われた通りににひたすら手を動かす。
というか、私の場合はそんなことを考えていられないくらい追い回された。
しかしそのおかげで今の私の技術と精神は培われている。
週休二日制が当たり前になり、労働環境が整ってきた現代では、かえってこの“反復”が難しくなってきている。
一日休めば、三日分戻る。
そんな感覚を、今の若い世代に理解してもらうのは、もはや無理なのかもしれない。
だからやり方を変え、効率を追わなければならなくなった。
ただ、どちらの道でもそこを超えた先にだけ見えるものがある。
私は鮨を握るとき、「余計なこと」を考えていない。
ネタの状態、シャリの湿度、客の表情、流れる時間。それらを無意識にとらえながら、自然と手が動いている。
むしろ、意識が入ると手が鈍る。考えるよりも、削ぎ落としていくことのほうが重要だ。
必要のない動き、言葉、欲。
そういったものを一つずつ捨てていく作業の中に、職人としての成熟がある。
削ぎ落とした先に残った“核”こそが、自分の鮨の本質なのだと思う。
終章 それでも、信じて握る理由
もう一度言っておきたい。
旨いかどうかを決めているのは、舌ではなく脳だ。
香り、温度、食感、記憶——
それらをすべて受け取ったうえで、「旨い」と判断するのは、その人自身でしかない。
だからこそ、どれだけ準備を重ねても、必ず伝わるとは限らない。
だが、それでも私は握る。
素材を信じ、手を信じ、自分の中に残った“核”を信じて。
誰が食べても忘れられない鮨を握る。
その為に、私は考え続け、そして職人であろうとするのだ。
