短編:寄り添う猫
◉風まかせ文芸部【本屋】参加作品
駅前から少し離れた商店街に、小さな古本屋があった。木製の引き戸を開けると、かすかに紙とインクの匂いがする。棚は少し傾き、床板は歩くたびにきしんだ。
そして、この店には一匹の猫がいる。茶色の毛並みをした、年をとった猫だ。
客が入ると、決まってゆっくりと立ち上がり、静かに歩き出す。そして、ある棚の前で止まる。不思議なことに、その棚の本を手に取る客が多かった。
店主のおばあさんは、笑いながら言った。
「この子ね、その人に寄り添える本がわかるのよ」
「そうなんですか?」
「ええ。どんな人が、どんな気持ちで、どんな本を求めているのかがわかるみたい」
そんなわけがない、と多くの人は思った。だが、実際に猫が立ち止まった棚の本を手に取った客は、不思議と今の自分にぴったりな本だと言うのだった。
ある冬の午後、一人の老人が店に入ってきた。背中が少し丸く、灰色のコートを着ている。
老人は店内を見回しながら、戸惑った顔をしていた。
「久しぶりですね」
店主が声をかけた。
「覚えていてくれたのか」
「ええ。この店、長いですから」
老人は小さく笑ったが、その笑みはどこか寂しそうだった。
「今日は、本を探しに?」
老人は少し黙ってから言った。
「……いや。本を探しているわけじゃない」
そして棚を見ながら、ぽつりと続けた。
「昔、この店でよく絵本を買っていたんだ」
その時だった。猫がゆっくり立ち上がると、老人の前を横切り、静かに歩き出す。
店の奥へと向かった猫は、絵本の棚の前で、ぴたりと止まった。
老人は少し驚いた顔をした。
「……この猫」
猫は棚を見上げている。老人は、その棚から一冊の絵本を取り出した。表紙には、小さな女の子と赤い風船が描かれている。
その瞬間、老人の手が止まった。
「これは……」
老人の喉が、かすかに震えた。
「この絵本は、昔……」
店主が静かに言う。
「四十年くらい前でしたね。小さな女の子と、よくいらっしゃっていました」
老人は黙ってページをめくった。柔らかい色の絵。赤い風船。風の中で笑う女の子。
それらを見るたびに、記憶がゆっくりと戻ってくる。
まだ小さかった娘の絵本を選ぶときの真剣な顔。「これ読んで」と膝に乗ってきた夜。
そして──病院の白い天井。
老人はページを閉じた。肩が小さく震えている。
「あの子は……」
声が少しかすれていた。
「この絵本が大好きだった」
猫はそっと、老人の足元に座った。老人はしばらく本を抱えたまま立っていたが、やがてぽつりとつぶやいた。
「……久しぶりに、思い出した」
店の中は静かだった。外では風が吹いている。
店主は優しく言った。
「その本が、まだ残っていてよかった」
老人は小さく笑った。
「不思議だな」
そして猫を見る。
「この子が教えてくれたのかな」
猫は、ゆっくり瞬きをした。まるで答えを知っているかのように。
老人は本を胸に抱え、レジへ向かった。
「これ、買ってもいいか?」
「もちろんです」
会計を済ませると、老人は店の入口で振り返った。猫は棚の前に戻り、静かに座っている。
「ありがとう」
老人は猫に向かって頭を下げると、店を出ていった。
夕方の光が商店街をやわらかく照らしている。老人は絵本を開きながら、ゆっくりと歩いた。
赤い風船のページで足を止める。ふと、風が吹いた。
その時──
「パパ!」
どこかで、懐かしい声が聞こえた気がした。とても恋しくて愛おしい声だ。
老人は空を見上げた。冬の空は静かに青い。その手の中で、絵本のページがやさしく風に揺れていた。
その夜、本屋の棚の前で、猫は静かに目を閉じていた。
きっとまた、誰かの大切な何かを、そっと見つけてくれるのだろう。
