短編:夜にほどける想い
◉風まかせ文芸部【珈琲】参加作品
その喫茶店は、地図には載っていない。
大通りから一本入っただけで人影が途絶えるような、冬の夜特有の静けさが支配する路地裏。暖かな光が漏れる店など、あるはずもないと思われる一角にぽつりと存在し、少しばかり疲れた心を持つ者だけが辿り着けると言われていた。
店の名はNocturne。
木製のドアには『一夜限りの香りをあなたに』とだけ書かれた看板がぶら下がっている。看板の枠には永い年月を経たような擦り傷や色褪せがあり、触れればわずかに温もりを帯びているのではないかと思わせる。
琥珀色の照明が滲む窓ガラスにも、外気との温度差による、薄く白い温もりが張り付いていた。
仕事帰り。隆之は、駅の時計を見上げた瞬間、終電の発車時刻を過ぎていることに小さなため息を漏らした。帰る手段を失ったことよりも、その日一日に積み重なった疲労の方が、肩にずしりとのし掛かってくる。
その耐え難い重さに、今日までの人生さえ空虚なものに思えてきた。
決して順調とは言えない人生の途中で、失くしてきた物は多い。後悔とまではいかなくとも、取り戻すことのできない何かが、確実に身を削っていることは確かだった。
彼の心の天秤は、楽しかった記憶よりも、胸を締めつけるような辛い記憶の方に大きく傾いていた。
寒さに背を丸め、とぼとぼと歩いていた路地裏で、彼はその店の灯りを見つけた。
薄闇を押し返すような琥珀色の光と、焙煎した豆の香りが鼻先をくすぐる。冬の冷えきった空気に混じり、ほのかに甘く香ばしい匂いが漂ってきた時、隆之は心のどこかがそっと緩んでいくのを感じていた。
隆之は迷うことなく店のドアを開いた。
「いらっしゃいませ」
カウンター越しに声をかけてきたマスターは、隆之よりも年配の人物だった。穏やかなまなざしと、珈琲豆のように深い色のエプロンが印象的だ。
髪や髭はロマンスグレーだが、背筋は若者のようにすっと伸びている。いわゆる、年齢という概念から少し離れた場所に存在しているタイプの人物だった。
カウンターに座った隆之にマスターが問いかける。
「今夜はどんなご気分ですか?」
「え? 気分……ですか?」
「はい。当店ではお客様のご気分に合わせた商品をお出ししています」
隆之は奇妙なことを言うマスターに少し戸惑ったが、迷った末に、正直な気持ちを吐き出した。
「何かこう……少しだけ心を軽くしたい感じです」
マスターはゆっくり頷き、棚の奥から小瓶を取り出した。棚には無数の瓶が整然と並んでいたが、どれも見たことのないラベルばかりで、国や時代すら判別できない文字が書かれている。
取り出した瓶のラベルには手書きでReminiscenceと記されていた。
「思い出を温めるブレンド です。ひと口ごとに忘れていた大切な記憶が蘇りますよ」
差し出されたカップは薄い陶器で、縁には金色の細い装飾が施されていた。湯気が立ちのぼる様子は、まるで夜の中に立ち現れる淡い幻のようで、そっと顔を近づけると胸の奥がじんわりと温かくなった。
湯気とともに漂う香りは、懐かしい駄菓子のそれに似ていた。カップを口に運ぶと、胸の奥がふっと軽くなる。
初めて自転車に乗れた日。補助輪なしで走れたあの瞬間、風を切る音と、手を叩いて喜んでくれた母の笑顔。
受験の朝に母が握ってくれたお守り代わりのサンドイッチ。緊張で喉が通らないと思っていたのに、一口かじると涙が滲むほど優しい味がした。
好きだった人と交わした、短くも温かな言葉。夕暮れの並木道、ぽつりと交わした言葉は短くても、心の奥に灯りをともした。
マスターの言った通り、ひと口ごとに小さな灯りが心にともるようだった。気づくと目頭が熱くなっていた。
「ずいぶん前に置き忘れてきたものを、思い出しました」
マスターは微笑み、静かに尋ねた。
「記憶は苦くも甘くもあります。今夜、あなたはどちらの味を選びますか?」
隆之はしばらく逡巡して答えた。
「両方……ですかね。どちらが欠けても、私じゃなくなる気がします」
その答えに、マスターは満足したように頷いた。その微笑みは、ただの接客とは違い、長い旅路の途中でようやく正しい道標に触れた旅人を見つめるような温かさがあった。
会計を済ませ、外に出ようとドアに手をかけると、マスターが小さな包みを差し出してきた。
「こちらはサービスです。明日、現実の味に疲れたら、また思い出してください」
包みの中には、小袋に入った珈琲豆。小袋には金色の文字で、こう書かれていた。
“苦味を恐れず、香りを忘れない人へ”
帰り道、見上げた街の明かりはいつもと同じはずなのに、どこか優しいものに見えた。隆之は振り返ったが、さっきの店はもうどこにもない。温かな光も看板も見当たらない。ただ冷たい闇だけが静かに横たわっていた。
それでもポケットの中の珈琲豆は、かすかに温かかった。その温もりは、手のひらではなく心の奥に、そっと灯りを残してくれているように思えた。
冬の夜風が頬を撫でる。その冷たささえ、ほんの少し柔らかく感じられた。
