短編:月の雫
◉風まかせ文芸部【芸術】参加作品
むかしむかし、山と海の間に、小さな村がありました。
そこに弥太郎という絵師がおりましたが、暮らしは楽ではありませんでした。
野に立つ一本の木を描いても、うさぎのように跳ねる白波を描いても、どこか色が沈み、光が抜け落ちたようになってしまうのです。
村人は言いました。
「うまくはあるが、心に残らぬ絵じゃ。これでは買う気にはならん」
その言葉は刃のように弥太郎の胸に突き刺さり、いつしか彼は筆を取るたびにため息をこぼすようになりました。
ある夜のこと。
弥太郎は丘の上に腰を下ろし、美しい満月を仰ぎ見ていました。そして、しんしんと降る月光に包まれながら、ひとり言のようにつぶやいたのです。
「お月さま、あんたはどうして、何も語らぬのに人の心を照らせるのか。わたしも一度でよい、胸の奥に光を灯すような絵を描いてみとうございます」
その時です。風がぴたりと止み、夜の気配が深まりました。気づけば白い光が地を這い、その中から一匹の狐が姿を現しました。
狐は細い声で言いました。
「おぬし、月の光を描きたいか」
「描きたい。たとえ一度きりだとしても」
「ならば、月をひと欠け盗んでこよう」
狐が尻尾をゆるりと振ると、夜空の月が匙で削ったように欠け、狐の掌に光る雫となって落ちました。
狐はそれを小さな壺の中に入れると、弥太郎に差し出し、こう告げました。
「これは月の雫じゃ。白の絵の具に混ぜて月を描くがよい。ただし、欲を出せば目が光に焼けてしまう。決して忘れぬように」
それだけ言うと、狐は霧のようにとけて、夜の闇へと消えていきました。
弥太郎は震える手で、その雫を白い絵の具に混ぜました。月の雫が混じると、絵の具は静かな光を帯びました。
その夜、弥太郎は眠らずに一枚の風景画を描き上げました。
静かな夜、小高い丘、大きな満月──ただそれだけの絵でした。しかし月光が筆の跡にそっと息づいているようで、見つめていると胸の奥が温かくなる絵でした。
翌朝、村人にその絵を見せると、誰もが言葉を失いました。
「まるで、月を写し取ったようだ」
その噂は里から里へ広まり、弥太郎のもとには絵を求める人が次々と訪れました。
しかしその頃から、人々はふと気づきはじめました。夜空の月が欠けたまま戻らないということに。
やがて村人はささやき合いました。
「月が削れたのは、弥太郎のせいではないか」
「絵の具に月の光を混ぜたという話は本当らしい」
その声はしだいに村中へと広がり、弥太郎の胸に重くのしかかりました。思い返せば、狐はこう言ったのです。
──欲を出せば目が光に焼けてしまう。
気がつけば彼は、月を描くたび、人々が喜ぶのが嬉しくて、何度も何度も月の雫を絵の具に混ぜていたのです。
その夜、弥太郎は残っていた「月の雫」を抱え、ひとり山へ登りました。満月の光がこぼれる崖の上で、静かに地面を掘り、雫の入った壺を埋めました。
「お月さま……返しに参りました。わたしには、これ以上扱える光ではなかったようです」
すると、土の下から淡い光が立ちのぼり、やがて粒となって夜空へと昇っていきました。欠けていた月はその光を受け入れ、静かに満ちていきました。
次の日の夜、月はもとのまんまるな姿に戻っていました。
しかしその日から弥太郎の目は色彩を失いました。
この世のすべてが淡い灰色に沈み、もはや光も影も見分けられません。
それでも、弥太郎は筆を捨てはしませんでした。夜ごと丘に立ち、月を見上げ、静かに絵を描き続けました。
絵にはもう色はなかったけれど、そこには不思議と、ひと筋の静けさが宿っていました。芸術とはそういうものだと悟ったのです。
いつしか弥太郎は村から姿を消しました。
その頃になって村人は、弥太郎がただ、人々を喜ばそうとしていたことに気づきます。
不思議なことに、弥太郎が村に残した月の絵は、満月の夜になると、誰も描かれていないはずの丘の上に、小さな影がひとつ現れ、その傍らに狐の影が寄り添うようになりました。
今でも村には一つの習わしが残っています。
満月の夜、人々は灯りを落とし、白い絵の具をひとしずく弥太郎の月の絵に捧げます。
それを祈り讃えるように、こう呼んでいます。
「光を忘れぬための礼」と。
