短編:錯覚矯正所
◉風まかせ文芸部【錯覚】参加作品
弘毅は最近、距離感が狂ってしまうことが気になっていた。
机の角に体をぶつけたり、カップの位置を取り違えてコーヒーをこぼしたり、すれ違う人を避けたはずが肩を擦ったり。
考え事をしていればよくあることだと周囲には言われたが、その回数が増えてきたことに弘毅は不安を覚えていた。
最初は眼科で診察をしたが、特に異常はなく、気になるようならと脳外科での診察を勧められた。
しかしそこでも、検査に異常は見られず、単なる疲れだと、軽く言われただけだった。
その後も距離感が改善されることはなく、弘毅は医者の診断に納得できないでいた。
そんな帰り道、小さな店が目に入った。古めかしい看板には「錯覚矯正所」とある。
どう見ても怪しい雰囲気だったが、看板の隅に書かれた文句に弘毅は立ち止まるしかなかった。
「物の見え方に違和感のある方、お気軽にお立ち寄りください」
恐る恐る中に入ると、白髪の老人が出迎えた。
「いらっしゃい。見え方でお困りだね?」
「ええ、距離感が狂っているというか……医者に相談しても異常はないとのことで……」
老人はうんうんと頷くと、弘毅を店の奥へと案内した。
そこにはいくつか並んだドアがあった。その中のひとつに案内され「こちらの“姿見の部屋”を試してみましょう」と言われた。
薄暗い部屋の壁に大きな姿見。中央には足型が描かれている。
「ここに立ってみてください。この部屋の鏡はあなたの“錯覚のクセ”を映し出します」
弘毅がそこにが立つと──
「あれ?…… 太って見える……」
鏡の中の自分は、実際より一回り膨らんで見えた。
「あなたは自分を小柄に見積もるクセがあります。
その補正がどんどんズレて、周囲の大きさや距離感が歪んでしまったのです」
「ああ、そうでしたか……」
言われてみると弘毅には心当たりがあった。
「では、次はこちらへ」
移動すると、今度の鏡の中の自分は妙に背が高く、堂々として見えた。
「おお……なんだか頼れる感じの俺だ」
「これは“理想化の錯覚”です。誰でも持っています」
弘毅が少し照れ笑いしたとき、老人が中央にある大きな鏡を指さした。
「最後は、あちらの鏡をご覧なさい」
弘毅は振り返り、その鏡の前に立つ──
が、鏡には何も映っていなかった。
「えっ? 俺が……いない!」
弘毅は青ざめた。
「落ち着きなさい」
老人は静かに言った。
「これは“自分の実像を捉える感覚が弱い”錯覚です。
過小と過大の間で揺れ、今の自分を認識できていないから、鏡も映さないのです」
「そ、そんなことが……」
「治し方は簡単です。過小でも過大でもなく、ただ“ありのままの自分”を感じることです」
弘毅は深呼吸し、心の中で「今のままの俺でいい」と何度も繰り返した。
すると、鏡の中にうっすら影が浮かび、徐々に輪郭を持ちはじめた。
「……戻ってきた」
「ええ。錯覚が薄れた証拠です」
部屋を出た弘毅の心は軽くなり、不安に苛まれた日々から解放され、ストレスもなくなった。
「本当にありがとうございます。これでスッキリしました」
弘毅は深々と頭を下げた。
「で、料金はおいくらでしょう?」
「お代は結構ですよ。無料です」
「えっ、でも……」
「いえいえ。実はね──」
老人は少し困ったように笑った。
「自分が映らない錯覚を体験すると、“自分は今ここにいない”と錯覚して、そのまま代金を払わず帰ってしまう客がいるんです」
「そうなんですね……」
「はい。あとはレシートや割引券などの紙切れをお札と錯覚して、支払った気になる客もいます」
「そんな錯覚まで……」
「まったく困ったものです。ですから、お客さんのように“ちゃんと自分を意識して戻ってきた人”には、無料にしているんですよ」
そう言われて、このまま帰るわけにもいかない。弘毅は財布の中の札を全部取り出し、カウンターに置かれた募金箱に半分ほど差し込んだ。
「持ち合わせはこれだけです。もしお受け取りいただけないのでしたら、中に落として全額募金してください」
弘毅は再び頭を下げて店を出た。
通りに出ると、世界が少しだけはっきりして見えた。電柱も、看板も、前より正しい位置にある気がする。
(錯覚って、怖いな……)
そう思った弘毅は、一歩先の段差をしっかりと確かめながら揚々と歩き出した。
店の老人は弘毅が置いていった金を見つめながら言う。
「やれやれ、これも錯覚しておったとは……」
カウンターの上には募金箱ではなく、レシートや割引券を片づけるためのシュレッダーが置かれていた。
その口が、弘毅の差し込んだ札を、何の躊躇いもなく飲み込んでいった。
