短編:新生活
◉風まかせ文芸部【新生活】参加作品
四月の風は、新しい季節の到来を告げていた。駅前に並んだ「新生活応援セール」の赤いのぼりの前を、スーツ姿の若者たちがぎこちなく歩いている。
誰もが新しい人生を始める季節だ。
それならば──人は、過去を捨てて新しくなれるのだろうか。
男の名前は相沢直人、三十五歳。地方都市の小さな広告会社に勤めている。
社内では「真面目で温厚」と言われていたが、実際には違う。ただ、黙って耐えているだけだった。
上司には毎日怒鳴られ、同僚には責任を押しつけられた。
恋人から金の無心をされ続け、借金取りから電話がかかってくるようになった。
誰も彼の人生を壊した責任を取ろうとしない。それでも直人は思っていた。いつか、ここからやり直せると。
きっかけは、些細なことだった。ある夜、上司の村井に呼び出され、居酒屋の個室でテーブルを挟んだ。
「あのさ」
村井は酒を飲みながら言った。
「今回のクレーム、全部お前の責任にしとくから」
「……え?」
「会社の判断だよ。分かるだろ?」
直人は何も言えなかった。言えば終わるのだ。仕事も、生活も。
それを知っていて、村井は笑う。
「まあ頑張れよ。お前みたいな奴、替えはいくらでもいるんだから」
帰り道、直人は歩きながら考えていた。
もし──この男がいなければ、自分の人生はどうなるだろう。
信号待ちで横を見る。酔って、スマホを見ながら歩く村井がいる。信号は赤。近づいてくるトラックのライト。
次の瞬間、村井は道路に倒れていた。急ブレーキの音が響いた。どこかで悲鳴があがった。
直人はただ立っていた。胸が静かだった。驚くほど静かだった。
ニュースでは「不幸な交通事故」と報じられた。会社では皆が言った。
「村井さん、運が悪かったな」
直人は初めて知った。世界はこんなにも簡単に変わるということを。
そこからだった。
直人は、金を返さず別の男と暮らしている恋人の亜紀に会いに行った。
「お金、返してくれないか?」
亜紀は笑って言った。
「まだそんなこと言ってんの?」
その夜、浴室で酔っ払った女が溺死する事故が起きた。
直人の元に借金を取り立てに来ていた手荒な男は、その帰り道、工事現場の足場から落ちてきた資材が直撃し、この世を去った。
大嫌いだった同僚は、一緒に参加した飲み会の帰り、深夜の歩道橋から転げ落ちて死んだ。
ひとつひとつは、珍しくもない事故だった。
──ただ、直人の人生を壊した人間だけが静かに消えていった。
春が来て、直人は会社を辞めた。郊外の海の見える町の、小さなアパートへ引っ越した。
近くには小さなスーパーと喫茶店。誰も直人のことを知らない。
怒鳴る上司も、嫌いな同僚も、裏切る恋人もいない。借金取りに追われることもなくなった。
すべて消えて、すべて終わったのだ。
四月。新生活の朝を迎えた。窓を開けると、清々しい風が入ってきた。
直人はコーヒーを飲みながら、やっと新しい人生が始まると意気込んだ。
──カタン
玄関のポストで音がした。封筒が一通入っていた。
差出人は書いていない。中には写真が一枚。
夜の道路。トラックのライト。そして──信号待ちで村井の背後に立つ直人。
裏に一行だけ書いてあった。
「新生活、おめでとうございます」
直人は誰かの視線を感じて振り返った。
窓の向こう、道路の向かいの家の二階の窓。カーテンがわずかに動き、人影があったように見えた。
どうやら新生活はまだ、始めさせてもらえないらしい。
