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編集長の恋10

10
 
日名子は一人レコードを聴いていた。
大好きなナラ・レオンのLP。ナラは、ボサノヴァが本当は悲しい気持ちを表現している音楽だということを教えてくれる。ジャケットは、フランスで撮った有名なみぞれのポートレイトだ。
そこでのブラジリアンのナラは、すっかりパリジェンヌになりきっている。その写真の帽子に憧れた。
いつもならレコードに合わせて歌が自然に口をついて出てくるが、今日は全く頭に入って来ない。
電車の音がかすかに聞こえてくる。西武新宿線の沼袋駅北口から、五分くらいのアパート二階の一室。日名子の部屋だ。
この辺りでも新しい方のアパートだが、清水の実家と比べると部屋は随分と小さく感じる。机と本棚、ステレオの他には、両親がどうしてもと用意した電話と電話台、子供の頃から使っている猫足の大きな鏡台しかおけなかった。
いつものようにその鏡台の前に座った。痛みがまだ少し残っている。あざはほとんど目立たなくなってきた。それと同時に西本への思いまで、どんどん消えてなくなってしまうようだった。 
三日前に部屋の電話が鳴った。西本への呼び出しだ。大学の近くにある西本のアパートには電話がない。そのためか西本がいるときに限って、呼び出しがかかってくる。誰かにずっと見張られているようで、気味が悪かった。
引きとめる日名子を、西本は慌ただしく抱いた。身体を合わせた後になおもすがってしまった自分が悔しい。
「あなたは利用されているだけよ」
自分でも思ってもみなかった言葉が口をついた。
「要は使いっぱしりじゃないの。あなたがいたって日本は変えられないわ」
気がつけば西本の腕を掴んで揺さぶっていた。
「俺たちには大義がある。お前ごときが革命を語るな」
結局は殴られた。   
その西本が昨日二日ぶりにキャンパスに現れ、なにも言わず隣でサックスを吹いた。
わざと横を向きタバコを吸うしぐさ。まだまだ早熟な音楽少年だった面影を残した初めて会った頃を思い出させた。ずるいと思った。
理不尽な想い。殴られた痛み。言いたい事は沢山あったはずなのに、並んで演奏するうちにどうでもよくなってしまった。その後いつものように、西本は部屋までついてきた。
そして今朝また電話が鳴り、結局は勝手に出て行ってしまった。
あざがうずく。ゆっくりと時間をかけて化粧をした。悲しいはずなのに涙は一滴も出てこない。日名子に代わってレコードのナラが泣いてくれているようだった。
 
夜十時を回った頃、酔った西本が帰ってきた。日名子はもう我慢が出来なかった。
「悪いけど今日は帰って。まだ電車があるでしょ」
「なんだよ、それ」
西本は台所に行き頭から水をかぶり、蛇口に直接口をつけて飲んでいる。
「それ飲んだら帰って」
「どうした、殴ったことをまだ怒ってるのか。悪かったよ」
「そんな事じゃないのよ」
「じゃあ、何なんだよ。呼び出しはしょうがないだろう。突発事態だったんだよ」
「そんなの私に関係ない。だったらずっと行っていれば」
西本は酔った眼差しのままタオルを放り投げ、服を脱ぎ始めた。
「ちょっと何してんのよ。今日は帰って」
西本はそのまま押入れを乱暴に開け、布団を畳に投げだした。
「やめてよ、もう本当にやめてっ」
電気を消された。いつもと違い激しく抵抗する日名子に、西本の押さえる力が強くなった。
「集会でもどこへでも行っていればいいじゃない」
「だからすまなかったって言ってるだろ。どうしたんだよ」
「もう嫌なのよ」
酒臭い西本の顔を力いっぱいつかんで押しやった。爪の先が、西本の頬に食い込むのを感じた。
その痛みに驚いたように離れた西本は、すぐに、お前、と言いながら張手をしてきた。日名子は暗い中で両手を振り回して抵抗した。
「集会じゃ、なびく女はいくらでもいるんだぜ」
「じゃあそういう人とやってよ」
うなるような声が出た。掴もうとする西本を突き放し、そのまま廊下の明かりを頼りに玄関から飛び出した。靴を履く暇がなかった。
とにかくここから離れたい。走った。この時になって涙が流れた。身体が震えてくる。意外なことに西本はそれ以上追って来なかった。
もう終わりだ。大学の友達の顔を何人か浮かべながら、沼袋駅の反対側まで素足のまま一気に日名子は走った。
 
踏切を渡った南側には、改札がない。すぐに明かりのない暗がりが続く道になった。財布や定期は置いてきてしまった。鍵も持っていない。ジーパンのポケットには小銭しか入っていない。
街灯の下にポツンと浮かびあがっていた電話ボックスから、思いつく番号に電話をかけた。個人用の電話を持っている友達はあまりいない。一人目は、大家がこんな遅い時間にと取り継ごうとしなかった。もう一人の共同電話は誰も出なかった。 
軽音部の友達の家にタクシーで乗り付けようとも思ったが、いなかったらどうしようもない。日名子は途方に暮れてしまった。足の裏が痛み出した。きっとどこかが切れてしまったのだろう。このままうずくまって眠ってしまいたい。 
ふとその時、脳裏にいつものオープンチャペルの光景が浮かんだ。
何故かギャラリーの中にいる、一年生の伊藤俊郎の顔がくっきりと浮かびあがった。同時に、俊郎が意外と近くに住んでいることを思い出した。同じ西武新宿線の確か井荻だったはずだ。私は沼袋よ、近いわね、と言った時の俊郎のとまどったような笑顔。
彼ならば何とかしてくれる。直感で俊郎に頼ることに決めた。でも連絡先がわからない。手のひらには十円玉が三枚しかない。仕方なく俊郎のジャズ研の先輩、神山に連絡する事にした。
神山は地方の金持ちの典型的な馬鹿息子タイプで、嫌な奴だが、部屋に電話がある。神山とは、文化祭の実行委員の時に何回か連絡を取り合った。その後もしつこく電話をかけてきて辟易していた。記憶を頼りに電話をかけた。願いは通じて神山はすぐに電話に出た。
「どうしたの。女王様が珍しいね」
「ごめん今急いでいるの。ジャズ研の伊藤君の連絡先が知りたいの。教えてくれない」
「伊藤? ……ああ鑑賞の一年の。なんで」
「今は説明している時間がないの。小銭を持ってなくて電話が切れちゃうから、早く教えて」
「へいへい……。伊藤ね」
ゴンと受話器を置く音が響き、神山は番号を調べている様だった。電話帳の紐についている芯の折れた鉛筆の先を爪で削り、じりじりしながら十円玉を追加した。
「あったあった。あいつアパートの共同電話だぜ。じゃあ言うよ……。ねえこれ教えたらデートしてくれる」
「早く教えてっ」
電話帳に電話番号を書きつけた。何か言っている神山を無視して、殴りつけるように受話器を置いた。最後の十円を入れ、日名子は神山に聞いた番号を回した。
 
俊郎は銭湯から帰ってきた。
下駄箱にサンダルを入れ、部屋まで我慢できずにその場で牛乳を一気に飲み干した。本当は覚えたてのビールが良いのだが、百八十円もするものをそうそうは飲めない。代わりに五十二円の牛乳を、銭湯から買って来て飲むのが楽しみになっていた。
牛乳はいつも持ち帰ってきた。大勢の人がいる銭湯では、気が散ってしまう。瓶は、次に行くときに持っていく。
俊郎が住んでいるのは、古すぎて築年数も分からない木賃アパートだった。以前は食事も出たらしいが、大家が代替わりをしてそれも無くなっていた。
玄関を上がるとすぐ右手に二階への階段がある。一、二階にそれぞれ五室ずつあり、全室学生が入っている。俊郎の部屋は一階で、真っ直ぐ伸びた古い学校を思わせる廊下の一番奥にある。
牛乳瓶を逆さに振って最後の一滴まで飲もうとしているうちに、どうにもビールが呑みたくなってきた。
ビールは大学に入ってから覚えた。どうせ大学で嫌でも飲まされるのならば、いっそ好きになった方が良いと、毎回夕食を一番安い魚定食にしてその分ビールを頼んだ。最初は大瓶の半分も飲めなかった。動悸が激しくなり、しまいには決まって頭が痛くなる。ご飯どころではなかったが、一か月ほどでどうにか飲めるようになった。
その特訓の甲斐あってか、なんとかジャズ研の入部宴会の洗礼をクリアできたのだった。そうなると不思議なもので、今度は酒に興味が湧いてきた。興味が湧くと金が続かなくなった。
台所の流しの下には、上京する際に父親から餞別にもらった〈ジョニ黒〉ことウイスキーのジョニーウォーカー黒ラベルが入っている。父親が、四年かけて飲むんだぞ、と自分との別れよりもこちらを手放すのが惜しいかのような顔をした、とっておきのものだ。
その宝物のジョニ黒が早くも三分の一ほどに減ってしまっていた。泊りに来たジャズ研の同級生に見つかり飲まれてしまったのだ。それ以来、大学の連中は誰も部屋には入れていなかった。
やっぱりビールは諦めようと廊下を歩きかけた時に、階段下の共同電話が鳴った。この電話は非常用という事で、普段は使用が禁止されていた。鳴った場合は、近くの者が必ず出る決まりになっている。鳴りつづける電話に、渋々受話器を取った。
「もしもし、さいわい荘ですが」
「もしかして伊藤君?」
咄嗟に言葉を返す事が出来なかった。まさか、いやそんなはずは。受話器を持ったまま立ち尽くした。
「あの伊藤俊郎君を、お願いします」
「はい……。伊藤は僕です」
ようやく声が出た。
「やっぱり伊藤君? ああよかった。私、わかる? 軽音の綾瀬です。綾瀬日名子」
「はい、はい。わかります」
「伊藤君、急でごめんなさい。理由は聞かないでこれから沼袋まで来てほしいの。沼袋駅の近くに中野刑務所があって、その正門前の公衆電話にいるの。そこに来て」
「刑務所? 沼袋ですか?」
「ごめん理由は聞かないで。十円しか入れてないから、電話切れちゃうかもしれない。私今、お金も持っていないし家にも帰れないの。伊藤君しか頼れる人がいないの。お願い」
「はい……あの」
電話の先で日名子も息を飲んでいるのがわかった。
「中野刑務所よ。もう切れちゃう、お願いすぐ来て……待ってる」
電話が切れた。電話は紛れもなく日名子だった。
日名子が沼袋に住んでいるという事は本人から聞いていた。沼袋駅の近くに中野刑務所がある事も知っていた。反体制派の政治犯などが片っぱしから収容されているという噂の刑務所だ。
日名子は、そこに来て、と言った。
からかっているのだろうか。どうして自分が。
お金を持っておらず部屋にも帰れないと言っていた。なぜこんな時間に。
もしかしたら日名子は厄介なことに直面しているのだろうか。頭に、つい先日の西本と一緒に演奏する日名子の姿が浮かんだ。もしかしたら、あの過激派の活動家の西本が絡んでいるのか。
いずれにせよ選択の余地などなかった。日名子が呼んでいるのなら、どこであろうと行かなければいけない。俊郎はとりあえず財布の中身を確認し、飛びだした。 
時間は十一時を過ぎていた。まだ電車は動いている。

#創作大賞2024 #恋愛小説部門

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