編集長の恋8
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俊郎はノートの端に〈イパネマの娘〉と書いた。周りの同級生たちは、またかよ、と言う顔でこちらを見ている。どうしてかは分からないが、雲の上の女王がこのリクエストには、必ずと言ってよいほど応えてくれる。
単に一番有名な曲だからということかも知れなかったが、日名子の歌うタイミングが俊郎のリクエストと合っているのを何となく感じていた。もちろん理由は分からなかった。思い切って日名子に聞いてみたい気もするが、話などとてもできなかった。
今日も日名子の登場とともに、いつの間にかオープンチャペルが観客で埋まった。夏にはまだ早いやわらかなライトブルーの日差しのなか、日名子の声が風に乗った。
曲は〈ジンジ〉。いつものように天使の歌声がそこにあった。ざわざわしていた周りのギャラリーも、日名子が歌いだした途端に水を打ったように静かになる。
爽やかな海風のような歌声に聴き入っていた観客が、ようやくギターの間奏で一息ついている所で、背の高い男が一人ステージに上がりこんでくるのが見えた。
男は鈍く光るサックスを首から下げていた。おそらくはテナーサックスだろう。俊郎が初めて見る男だった。その男は、そのまま日名子の隣に立った。一瞬驚いたかのように男を見上げる日名子。大きなチューリップハットに隠れ、その表情は見えなかった。
そして二番を歌い終えた日名子の隣で、場違いなほど大きな音のサックスが鳴り響いた。そのまま男のサックスはどんどんと加速し、時折高音部で野獣のような雄叫びを発しつつ上下降を繰り返していった。
その場に居合わせた者たちは、一瞬にして男の色に塗り替えられた日名子の曲をどうすることも出来ずに呆然としていた。
いつもならばこんな暴挙は許されない。まず前の方に陣取っている上級生たちに引きずり降ろされるはずだった。それが誰も動こうとしない。
可憐な日名子の歌を踏みにじっているとしか思えないテナーサックスの男は、目を閉じてサックスを大きく上下に動かしながら、何コーラスにもわたって吹き続けていた。
ぼさぼさの髪と無精ひげで蒼黒くなった顔には、生活の荒みのようなものが漂っている。それでももしかしたら年齢は自分らとそう変わらないのかもしれない。どうしてこんな男が我々のステージで日名子と一緒にやっているのか。激しい怒りがわいた。
男は暴走列車のようなソロをようやく終えると、そのまま横を向きショートホープと思しき短いタバコに火をつけ深く煙を吐き出した。
「西本さんだよ」
どこからかその声が聞こえてきた。
西本孝太郎。それが男の名前だった。俊郎も名前だけは知っていた。
ジャズ研演奏部の三年生。西本は音楽サークルの間では〈天才〉と呼ばれている。しかし学内では他のことで有名な男だった。
西本は正門横の掲示板に〈停学につき学内立ち入り禁止〉と名前を貼り出された数名の中の一人だった。大学側からすると札付の過激派予備軍なのだ。音楽系のサークルの間では、ある種の羨望もかねてもはや伝説化していた。
噂の中には、サックスケースにくぎを打ちこんだ短いゲバ棒とトリスの瓶が入っているとか、酒だけでは飽き足らずハイミナールや怪しげなアンプルなどの薬漬けになっている、などという物騒なものもあった。
その有名人が、今、日名子の隣でサックスを吹いていた。
当の日名子はと言うと、チューリップハットの隙間から垣間見える表情はいつもと変わらず涼しげに見える。招かざる客を嫌がるでもなく、たんたんと歌を紡いでいく。
何曲かを終え日名子は、いつものように〈イパネマの娘〉のイントロを奏で始めた。
「Tall and tan and young and lovely The girl from ipanema goes walking……」
歌い始めた日名子の隣で、西本は何本目かのショートホープに火をつけ吸い込んだ。
そしてそのまま火のついたショートホープを右手の人差し指と中指の間に挟み、間奏を弾こうとするギターを押しのけるように、高い音を鳴らし始めた。
〈タララー、ララララー〉
沸点に達した蒸気が一気に前面に噴き出すかのように、構えたサックスからメロディーが飛び出した。ゆらゆらと漂うタバコの青白い煙をまとったサックスによって、そのまま高音から低音まで快速列車の様に、目まぐるしくメロディーが駆け廻った。
それは意外にも先程までの騒音のような音ではなく、輸入盤のジャズレコードでしか聴くことができない様な本物のサックスの音だった。
その場の空気がすぐに変わった。西本は、そのまま何コーラスにも亘ってソロを吹いた。そして西本の演奏はその場の全員が、いや少なくとも俊郎にはそのままいつまでも続いて欲しいと思えるほど見事なものだった。
あっという間に感じた西本のソロが終わり、日名子の歌に戻された。いつの間にか下に落ちた吸い殻に変わって、西本が新しいタバコに火をつける。再び煙が青く漂う。一服してから西本は日名子の歌に絡んでメロディを紡ぐ。金色のサックスの花弁からよどみなく流れでる真摯な音が、チューリップの花のような日名子から紡ぎだされる調べとからむ。それはまるで音楽の花園だった。
〈音楽の神〉は二人いた。
俊郎は、身体全体にそのメロディーが深く刻み込まれるのを感じた。圧倒的に美しいものを前にして、俊郎は放心していた。
