編集長の恋2
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「むっちゃん、こんな店知ってんだ」
俊郎は大きな声で室田の肩を叩いた。啓子に念を押され、早く帰らなければいけないと言う思いが、余計に陽気にさせていた。
いつもの半蔵門の居酒屋ではなく、面白い店があると言って室田に連れて行かれたのは、新宿東口の歌舞伎町にある古びた雑居ビルだった。道路に無造作に置かれた紫色の行燈には〈JAZZ 9SPOT〉とある。
「俊さん、昔はサックスで鳴らしたんでしょ。だったらこんなの絶対好きでしょ」
室田は終始薄笑いを向けてくるが、それほど気にならない。室田は、慣れた感じで薄暗い地下への階段をどんどん先に降りて行ってしまった。
俊郎は、不思議な感覚にとらわれていた。昔このあたりが角筈一丁目と呼ばれていた頃、同じ場所にあったまさしくこの店に並々ならぬ思い出があった。
しばらく周囲を見渡していたが、意を決し室田を追い狭い階段を下りた。当時と同じように酒瓶のケースが脇に積み上げられた入口を開けると、いきなり炸裂したトランペットの音圧で外に押し戻されそうになった。
照明を落とした店内は、俊郎の記憶とは違っていた。それでも最近流行りのライトジャズを聴かせるお洒落なバーとは違い、昔のジャズ喫茶に近いストイックな匂いがして好感が持てる。
黒で統一された店内の奥に、何枚あるのかわからないほどのLPレコードの壁ができていた。その前に陣取ったいかにもひと癖ありそうなひげ面が、無表情にレコードにスプレーをかけ布で拭いている。
いまだにレコードというあたりが、店の持つこだわりを感じさせた。黒づくめの市松人形のような髪形のウエイトレスも、強烈な時代臭がする。
「なんか昭和だね」
「まあ、ザ・ジャズ喫茶です。それでもウイスキーも、シングルモルトとか結構種類がありますし。俊さんの好きなジョニ黒もありますよ」
俊郎が入れたボトルのジョニ黒で乾杯した。
マイルス・デイヴィスとは明らかに違うオールドなミュートがスローを奏で始める。しばらく音楽に耳を傾けていると、室田はグラスを持った人差し指でテーブルを差した。テーブルの上の、木をくりぬいたペンスタンドの中に、紙と赤鉛筆が入っている。手にとって見ると、リクエストカードと書いてあった。
「俊さん、リクエストしてみましょう」
「リクエスト、随分懐かしいな」
「おもしろいですから」
俊郎はなんとなく〈イパネマの娘〉と書いた。丁度スタン・ゲッツのようなテナーが流れてきたからかもしれない。ボサノヴァは大好きだった。
こうしてリクエストカードを書いていると、学生時代、毎日の様にこのようなカードを真剣に書いていた日々を思い出す。
室田も二枚ほど記入している。書き終えると市松人形を呼び、俊郎のカードと一緒に手渡した。
カードがレコード係に渡った。三枚のカードを手に取ったレコード係は、何やら口元でぶつぶつ言い、そのカードをそのまま横の方に投げ捨ててしまった。
あっけにとられた。脇で、室田が、アチャー、今日もダメだ、なんてのんきな声を挙げている。
「何なんだよあれ、むっちゃん」
「いやー、なかなか掛けてくれないんですよ、この店。おれなんか今まで何回もリクエストして二回、いや三回かな。それくらいしか掛けてもらったことないですもん」
「何なんだよ、あの嫌な感じは。今、帰れって言ってたぞ絶対」
「気にいらないとああですよ。流行もんは特に嫌われますからね。でも俊さん、イパネマは無いでしょ。ホテルのラウンジじゃないんだから、はは」
「何なんだよむっちゃんまで。なんで笑ってられるの、感じワリーなー」
言いながらも実はあまりいやではなかった。昔のジャズ喫茶はこうだった。笑い声だけで、帰れ、なんて言われることがあった。
本来店側もリクエストして欲しくなければ、こんな紙を置いておかなければ良い。これは客と店との対話のツールなのだ。
あんたはどの程度のものなの? あのひげ面のレコード係と客との真剣な手合わせの場なのだ。
周りを見ると、やはり男客しかいない。それも一人客が多かった。それもそうだろう。こんな店にカップルで来たら、早々に退散するか本当に追い出されてしまうのではないか。
こうなるとよし次こそはあいつの鼻を明かしてやろう、という気になるから不思議だった。
パーカッションが鳴り響き、骨太なテナーサックスの音が流れ出した。室田が小躍りした。
「やったー掛かった。アーチー・シェップのジュジュの魔術」
室田によると、ひげ面はフリーっぽいものには若干甘く、それでも例えば、アーチー・シェップだと晩年のバラードを吹いたふやけたものではなく、この骸骨のジャケットみたいな硬派なものが良いらしい。
「俊さんも、ゲッツならばイパネマとかじゃなくて、オルガントリオとのダイナスティとかだったら、かけてくれますよ、きっと」
「余計なお世話だよ。イパネマが好きで悪うござんした。しかし意外だな、むっちゃんはジャズも詳しいんだな。おっ、何書いてんの」
俊郎は室田がトイレに立ったタイミングで、もう一度ゆっくりと店内を見回した。
あの時とは、もはやすべてが変わっている。それはそうだ。四十年以上が過ぎている。
ふとカウンターに目をやると、額に入れられたレトロな古いポスターが目に留まった。薄めのグラスに入ったカクテルが写っているものだ。〈スッキリ爽やか! ヴァイオレット・フィズ〉と書いてある。昔実際店に貼られていたものなのだろう。このポスターには見覚えがあった。
カウンターの中にいる深いシワが刻み込まれた寡黙そうなバーテンダーは、当時のバーテンダーかと言えばそのような気もするが、はっきりとはわからない。おそらくは店主だろう。してみるとあのレコード係は息子なのか。市松人形は嫁か?
思いを巡らせながらカウンター席に移った。室田は酩酊しているのかなかなか戻ってこない。晩年のフレッド・アステア似のバーテンダーにヴァイオレット・フィズを注文した。俊郎は万感を胸に、思い出と変わらない甘酸っぱい味を楽しんだ。
その後二時間近くその店で飲んだ。結局二人のリクエストはジュジュの魔術しか掛からなかったが、随分久しぶりに学生時代に戻ったかのような時間を過ごした。
途中気分よく酔った勢いで、俊郎は室田に花江の話をしていた。
「いや実はな、花江がこの前、急に男を連れてきたんだよ」
「……へえー、花江ちゃんが」
室田は意外そうな表情を見せた。
俊郎が赤富士書房の社長に請われて転職した二年前、家に遊びに来た室田は、丁度二十歳の美容専門学校生だった花江を、趣味のカメラのモデルにして、それ以来随分と写真を撮っていた。季節ごとに相当数あり、花江のお見合い写真には事欠かない。一人っ子の花江も室田には兄のように慕っているのがわかる。それだけに、やはり複雑なのか。
室田はすぐに破顔してからかうように発した。
「ははーん、それで父上は落ち込んでるんですね」
「落ち込んでませんよ。違うんだよ。花江の奴、ありゃだまされてるよ、きっと」
「はは、男親は大概そう言うものですよ。で、どんなやつなんです」
「それがチャラチャラしたキリンみたいなひょろっとしたやつで、みるからに遊び人ですよ」
「ま、三等身のわれわれ昭和組とは食ってるもんが違いますからね。仕事は?」
「そんなの知らないよ。何しろ急だったから、おれ、すぐに家出ちゃったもん」
「だらしな」
「本当はな、むっちゃんがあと十歳若けりゃ、いやせめて五歳若けりゃお前さんにもらってもらうんだけどな」
室田は、何を馬鹿な、と一瞬真顔になったように見えた。
「花江ちゃんがはっきり、ヤダっ、ていうでしょ。おれ繊細だからそんなの耐えられないですよ、おとーさま」
声色を使ってふざける。
「馬鹿」
「でも俊さん、しょうがないですよ。花江ちゃんもそういう年頃なんだし。あの花江ちゃんが選んだのなら、そのキリンにもどっか見どころがあるのかもですよ」
こいつのよくないところは、こういう年寄り臭いことを言うことだ。
「そうかぁ、花江ちゃんにもいよいよいい人がか」
「馬鹿言うなよ、ただの友達だろ」
「ただの友達を、親に紹介しないでしょ。俊さん、心配なんですか」
「だから心配なんかしてないって」
ラーメン食っていかないですか、と言う室田と店の前で別れた。妻の啓子からの着信履歴が五回も入っていた。
このまま帰っても、花江も相当怒るだろうな。花江は啓子とは違い直情型だ。どちらかと言えば、自分に似ている。いずれにしても今日は旗色が悪い。酔った自分でもわかるほどにため息が酒臭い。
のろのろと新宿駅に向かおうと大通りに出たところで何気なく目にした角のショーウィンドーに、一気に吸い寄せられた。
そこには、黄色いスポットライトに照らしだされ、まばゆいばかりに輝く流線型をしたサックスが何本も並べられていた。
管楽器専門店なのだろう。ゴージャスな黄金色の、S字に曲がった本体。複雑に入り組んだパイプのようなものが何本もはしった大小様々なサックス。それらが並ぶ様は壮観だった。
今日になって、頭に突然降ってわいたサックス。酔いも手伝い、ウィンドーに張り付き上から下からなめるように眺めた。
カッコイイ……。
改めてサックスの持つフォルムとしての美しさに魅せられた。頭の中では、自分がこれらサックスを、縦横無尽に吹きまくる姿が廻っていた。
しばらくの間、俊郎はショーウインドーの前から離れる事が出来なかった。
