編集長の恋14
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花江の結婚式がいよいよ明日に迫った。十月中旬の秋の日、うららかな午後だ。
俊郎は、朝からずっとデスクに座って時間を持て余していた。する事も無く鼻毛を抜いていると、ふとどこからか金木犀の香りが漂ってくる気がした。
周りの雑然としたデスクからは、もとよりそんな香りがするはずも無い。もしかしたら自宅の猫額苑に咲いた香りを体にまとってきたのかもしれないなどと、衣服を叩いてみたりした。
後藤とのサックスレッスンを始めてからのこの四カ月半は早かったな。なんとなく後藤のことが頭に浮かんだ。
後藤にはあの居酒屋での出来事の後も、何事も無かったかの様にレッスンを受けた。終わった後はいつものようにガード下で飲み、三回に一回は室田和也も誘った。
結局後藤からは、その後本の企画書の話が出ることはなく、あえてこちらもその話題には触れないようにしていた。代わりに室田が捕まり、何回か相談されたようだ。ベースをやっていたなんて言うからだ。
肝心のサックスの腕前は、なんとかテーマを吹いているのがわかるくらいにはなった。そして本当に明日の結婚式でお披露目する予定だ。いざ本決まりになると不安になって、後藤に明日の式の直前にレッスンを依頼したのだった。いつもの様に、ケーオツです、と請け負ってくれた。
後藤へのレッスン料は、切り出すタイミングを失い、未だに払っていない。スタジオ代と飲み代はもっていたが、やはりそれだけというわけにはいかない。他のサックス講師のサイトを見て、レッスン料を調べ、少し上乗せした二十万円を封筒に用意していた。明日渡そう。
後藤とのレッスンはこれで終わりと思っていた。結婚式を一つの区切りにする。とりあえず音は出るようになったので、続けたければ沢山ある音楽教室のどれかに通うか、他のプロの個人レッスンを受けるなりすれば良いだろう。なんとなく後藤にこれ以上時間をもらうのは気が引ける。
後藤は五反田にある卸売業者専門のビルの一室で輸入雑貨関係の会社を経営している。バンドを辞め色々あった後、アメリカン雑貨の商社にアルバイトで入り、四年後に今のビルの九階に会社を構えた。
開業資金は、親に借りた、と言った。自分の親は早くに亡くなったと言っていたので、奥さん側だろう。その奥さんが後藤曰く、子供を三人置いてすたこらさっさ、となった。もしかしたら会社も家庭同様順調ではないのだろうか。ある意味人生開き直っている。
そこでどういう経緯か本を書いて一発当てようとなった。昔と違い出版業界自体が厳しい今になって出版でと考えるあたりも、後藤らしいというか、ピントがずれている。
本業の方はアルバイト上がりの女性を責任者にして、自分の時間を作り今でも日夜、本の企画を練っているらしい、とにわかに後藤と親しくなった室田から聞いていた。
胡散臭いと言えば誠にそうなのだが、これまで付き合ってきて、悪い奴でないのはわかっている。でも俊郎の中の何かがこれ以上親しくすることにストップをかけている。それが何なのかは、いまだにわからない。
「イテッ」
抜いた鼻毛に随分と白いものが混じっている。透かして見た鼻毛越しに、いつもの目障りな山本たちの姿がない。そろって飯でも食いに行っているのか。どうせ、建設的な話ではなく、上司の、つまりは自分の悪口でもおかずにして馬食しているのだろう。
俊郎は当たり構わずあくびをし、両手を頭の後ろで組んでのびをした。
「明日は本当に花江が結婚か」
声に出してみた。相手の博章は一人っ子で、同居していた祖母に育てられた典型的なおばあちゃん子らしい。祖父は数年前に亡くなっている。
わたしは気になんないわよ、おしゃれなおばあちゃんだし、それに同居するわけじゃないし、と花江はいたって能天気なものだ。一か月ほど前に新婚生活を始めるアパートを自分たちで探し、すでに移り住んでおり、気が楽なのだろう。
その費用は博章からということだったが、おそらくは両親から出たのだろう。意外なことに博章の父親は、町田が本店でチェーン展開している食料品スーパーの経営者だった。業界では中堅どころだ。
結納の代わりの食事会に現れたその両親が若いので驚いた。十代で学生結婚をし、博章がすぐに生まれたという。若い父親は子供を両親に預け、若妻と一緒にマーケティングの勉強のためにアメリカ留学をした。うらやましい話だった。
その父親は、一人息子の博章に後を継がせるのはあきらめている、とのんびりしたことを言っていたが、花江のことを考えれば、何がなんでも息子の尻を叩いてもらいたい。
思い掛けずぼんぼんだった博章が、再就職で親に泣きつかなかった気概は認めてやってもいい。でもそれ以外は何を考えているのか面白みにかける。花江はババを引いたのか。それとも玉の輿に乗ったのか。どっちなんだ?
〈プルルルル〉
その時ポケットの携帯が鳴った。着信画面にはその花江とあった。取った先から花江の興奮した声が飛び出してきた。
「おとうさーん、あたし。もう、結婚止める」
電話を耳にあてたまま一階の屋外喫煙所まで走った。花江は興奮して何やら叫んでいる。こうなるとしばらくはどうにもならない。掛け直す、と一旦電話を切り、ほぼ同時に何回も着信している啓子の携帯の番号を押した。啓子はすぐに電話に出た。
「花江の話、聞いたか。どうなってんだ、いったい」
「私だってさっき電話を貰ったばかりですから」
タバコを取り出しながらライターを探した。
「何だって言ってるんだ、花江は」
「詳しくはわかりません。もう結婚を止めるの一点張りで、私もどうしていいのか。あなたすぐに帰ってこられないんですか? 花江の話を聞いてやってください」
「そんなすぐには戻れないよ。まったくお前がついていながら何やってんだ。喧嘩でもしたのか?」
「わからないんです。とにかく明日は大事な式の日ですし、あなたが何とかしてください」
「何とかと言われたって」
「花江の大事な時です。お願いします。こんな時くらいは、あなた」
「……とにかくおれからもう一回連絡を取ってみる。念のために田辺君の携帯を教えろ」
花江に掛け直すと、相変わらず大声で泣いているばかりだ。しかたなく田辺博章の携帯に電話をした。十回以上のコールの後ようやく繋がった。
「伊藤だが、今花江から電話を貰った。いったいどうなっているのかね」
電話の先でしばらくの沈黙があった。その後カチッっと金属音がして、はあ、と歯切れの悪い博章の声がした。
この野郎、こんな時に呑気にタバコなんかつけやがって。急激に頭に血が上った。
「はあ、じゃないよ君。どうなってんの、花江は泣いていたぞ」
「ええ」
「結婚止めるなんて言っていたぞ……」
返答がない。君ぃ、大声を上げかけると博章がようやく声を発した。
「花江が勝手に止めるって言ってます。もう僕もどうでもいいです」
「なんだそれは、どうでもいいって。喧嘩したのか? 訳を言いなさい訳を……。まさか手を出したりしたのか」
「そんなことしません。するわけないじゃないですか」
「じゃあどういうことなんだ。まさか君まで本気で止めるなんて言ってるんじゃ無いだろうね。とにかく状況を説明してくれ」
じりじりしながら待った。どうなんだぁ、と声を荒らげそうになった時だった。
「カーテンが、嫌だって言うんです」
「カーテン?」
「引越しの時に町田の駅ビルに行ってカーテンを買ったんです。その時はおばあちゃんも一緒で、僕らが既製品を勧めたのに、花江はわざわざ輸入の生地から選んで。オーダーだから時間がかかって、出来上がるまで一か月もかかったんですよ。その間周りから丸見えで、目隠しにポスターを貼ったりしてたんです」
拍子抜けした。どうやらそれほど深刻な話ではなさそうだ。ポケットにあったライターを取り出し煙草を咥えた。
「うんうん、それで」
「それでようやく昨日出来てきて、すぐに僕がとりつけたんです。それなのに今日になったらやっぱり嫌だって言いだして、もう一種類迷った方にどうしても替えたいって」
「花江がか」
「我がままだと思いませんか。だからあの時おばあちゃんも僕もあっちの方がいいって言ったのに。迷っていたのにあなた達が早くしろって言うから、なんてこっちのせいみたいに言うんです。まるで子供じゃないですか」
お前もな。深く煙を吐き出した。
「そりゃしょうがないな」
「だから僕は、オーダーだし安いもんじゃないんだから、そもそも気にいっていたんだし、これで我慢しなさいって」
「そうだね」
「そしたら、何で我慢しなきゃいけないの、結婚のスタートなのにって。大体あなたのお金じゃないでしょ、私が出すんだから黙っててって」
「そんな事言ったのか」
「だからぼくも我慢できなくなって、我がまま言うなって怒鳴ってやりましたよ。そしたら、なんだこの甲斐性なし、ヒモ、別れてやるって……」
ま、半分は当たってるわな。
「そうか、それはひどいな。後で花江には私からもよく言っておくから。あの子は小さい頃から興奮すると周りが見えなくなっちゃうところがあるんだよ。だから心にもない事を言ってしまったんだろう。そこは申し訳ないけれども」
ここぞとトーンを変えた。
「明日からは旦那として、博章君の心の広さでカバーしていってもらうしかないな。博章君が花江の足りないところを教育して行くという事で。君も一緒になって興奮するんではなくて、ここは一つ大人になって諭してだね」
博章は答えない。
「花江は、これから何かと倹約していかなければいけないという事は良く分かっているから、結婚後も仕事は続けるわけだろう。だからこそ最初くらいは自分の思う通りに始めたいんじゃないのかな。そういう意味でも博章君、君がこれからしっかりと地に足をつけてだね」
「そんなことはわかってますよ」
「どうしたんだい、急に大きな声で」
博章のいらだった声にのまれた。
「ぼくは花江のために夢を捨てて、入った会社で毎日使えないだの文句を言われながらも、頑張っているんです。それをヒモだなんて言われて、黙っていられないですよ」
「だからそれは興奮した言葉のあやで」
「言っちゃいけないことってあるでしょう。そのくせ、あたしが食べさせてやるからベースを続けなよ、なんて。自分が出来もしないことを言って」
博章は怒りをあらわに言い放った。まあ、その通りなんだけれども。それを言っては……。花江の顔が浮かんだ。
「君、ちょっと待ちなさい。そりゃ言い過ぎだろう」
「花江だって働きだして一年しかたっていないじゃないですか。しかも町田の美容院のくせに。給料だって言うほどもらっていないのに」
頭の中でぶつっと音がした。いかん、いかんぞ俊郎。
「なんだ、その言い草は」
「なにがですか」
頭が白くなった。
「お前。なにが我がままだよ、そりゃお前じゃないか」
止まらなかった。
「花江はお前を気づかってんだよ。甲斐性がないのは本当の事だろうが」
「……」
「なんとかお前の夢を叶えさせようとして、けなげに言ったんだよ。なにが、花江のためだよ。自分が上手くいかないのを、花江のせいにするなよ。お前がちゃんとしてたら、花江だってもっと楽な気持ちで結婚できるんだ。大事な娘を馬鹿にしやがって。気にいらないんだったら花江を返せ……」
「お父さんもうやめて」
いつの間にか電話が花江に替わっていた。近くにいたのか。
「花江っ……」
「博章にそんな事言わないで」
冷や水を浴びせかけられたかのようだった。
「そいつが、話がわかんないんだよ」
「もういいのっ」
唐突に携帯は切れた。突然のショックの後にすぐにやってきた怒りに蒼ざめ震えながら、博章と花江、二人の携帯をコールした。
何度呼んでも出なかった。頭が真っ白になりながら啓子の携帯を鳴らした。何回かのコールの後、啓子はやっと電話に出た。
「ど、ど、どうなってるんだーっ」
俊郎は叫ぶことしかできなかった。
結婚式の当日になった。十月二十日水曜日、大安。空は絵にかいたような秋晴れだ。
昨日、俊郎の電話を一階の屋外喫煙所で立ち聞きしてしまった。いつも誰かしらいる喫煙所で、皆、電話をする俊郎と距離を取り、遠巻きにして煙草を吸っていた。その中に煙草を吸わない室田和也がいた。
室田は昼食からの戻り、喫煙所にいる俊郎を見かけたが、声をかけることができなかった。携帯を手にした俊郎は興奮して大声を上げていた。花江が泣いている、結婚を止めるというような話が漏れ聞こえてきた。本当なのだろうか。
テレビや物語の世界では、結婚式当日に花嫁や花婿が現れないという話はよくある。式場から花嫁を掠奪するダスティン・ホフマンの映画〈卒業〉は、何回も観た。
現実は、映画とは違う。ましてや、今の花江の気持ちを確かめてもいない。歳の差も一回り以上ある。それは分かっている。それでも……。
本当に自分はこのままで良いのか? 花江が嫁いで行ってしまうのを手を拱いていて。
今日撮影に使うニコンのD800を手に取って、ポーズを決める。ファインダーに二週間前のラーメン屋で微笑む花江の顔が浮かぶ。
室田さんに憧れていた……。
どうして気づかなかったのか。馬鹿か、おれは。
カメラを置き、さっきから何度も目が行っていたスマートフォンを取った。俊郎に確かめたい。どう言えば良いのだろう。弱気の虫が頭をもたげてくる。
携帯がカメラモードになっていた。撮影モードを反転させて自分の顔を眺める。もう四十歳になろうとする男の顔がそこにあった。若くはない。けれども老け込んではいない。
自分の顔を写真に撮った。制止した顔は十歳は歳を取って見えた。誰にでも時間は等しく流れていく。自分の中で何かがはじけた。
俊郎の番号を表示した。
もし、花江の結婚がダメになっていたら、その時は花江に思いを告げよう。何と思われても構わない。もう迷わない。
もし、そのまま結婚式が行われるのであれば、その時は……。カメラマンとして精一杯花江の晴れ姿をこのカメラに収めよう。
俊郎の番号を押そうと思ったその時、手のひらで携帯が震えた。着信だった。画面には〈後藤蓮〉とあった。
