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編集長の恋5

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後藤と渋谷駅前で待ち合わせをした。自分のような六十男にとって、もっとも居心地が悪いスポットの一つだ。ハチ公前のスクランブルなどは、四方から押し寄せる若者の波に呑まれ気持ちが悪くなるほどだった。
それでも編集長と言う仕事柄、山手線の主要な駅の、打ち合わせに使えそうなホテルや喫茶店を一応押さえてある。モアイ像の前でという後藤のおのぼりさんめいた提案を一蹴して、駅に隣接しているホテルのラウンジを指定した。そこで夕方六時に待ち合わせをした。
今日は一日朝から落ち着かなかった。五時には仕事を終えていたが、ぐずぐずして一番町の社を出たのは五十分を過ぎていた。半蔵門の駅からは十分くらいで渋谷に着くが、ラウンジに着いたのは約束の六時をすぎていた。俊郎はこの期に及んで尻ごみしていた。
あの翌日に後藤に電話をすると、ケーオツです任せてください、とあくまで軽い。今日の内にサックスを購入してその足でスタジオに向かい、いきなり練習すると言う。その通りに行けば、どうやらあっという間に俊郎のサックス計画は実現してしまいそうだった。
ラウンジでは後藤は捜さずともすぐに分かった。白地に真っ赤なバラの柄シャツを着た長髪の四十男。渋谷でもさすがに目立つ。近寄ると後藤はすぐに立ち上がった。
「さ、行きましょうか、時間があまりないすから」
「えっもう。喉が渇いたんだけど」
「七時にスタジオ予約を入れちゃったんで、すぐ楽器屋さんに行きましょう。さあ」
先日とは全く立場が逆転し、黙って従うしかなかった。
 
渋谷の楽器店。ここは駅前以上にやっかいなスポットだ。普段ならば相手にしない子供連中が幅を利かせている。連中は皆、派手なメイクをし、金髪を逆立てて、黒い合皮を身にまとっている。そしてたちの悪いことには、店員までもが全員そっち側の奴だってことだ。
後藤は、ちはー、とか言いながらずんずん中へと入って行く。その姿が秘境ガイドの背中くらいに頼もしく見えた。
「楽器屋は久しぶりだな。随分といろんなメーカーが増えたな」
「いらっしゃいまっせ、なんかお探しっすか」
「うん、いいのいいの、自分たちで見るから。お、これ欲しかったんだよな、たけー」
線路脇の雑居ビルにある管楽器専門店だった。狭い店内に所狭しとサックスがおかれていた。揃いの白いTシャツを着た店員らしき奴は四、五人いる。どれも一癖ありそうだ。奥の方で外人の女の子が、縦に細長いのをヒャラヒャラ吹いていた。あれがソプラノサックスか。
後藤が手招きをした。
「こっちこっち。ところで伊藤さん、予算はいくらっすか。えっ十五万? 全部で? もうちょっと何とかなんないですか」
確かに高額な値札が多い。
「十五万ということは、この辺は無理だな」
言いながら、後藤はさほど迷った風でも無く入り口近くに戻り一つのサックスを指さした。
「値段からいったらこれです。ヤマハはね、最初からすごく鳴るんすよ。初心者向きですね。すみませーん、これください」
後藤は店員を呼び、伊藤さんカード? 現金? などと言いながらどんどん話を進めて行く。後藤が店員に指差している物は、思っていたものよりも少し小さい。確かこれはアルトサックスだ。俊郎はワンサイズ大きいテナーサックスがやりたかった。
「後藤さん。あのおれ、テナーが欲しいんだけど」
声が変な感じで出た。店員と後藤が、えっ、といった感じで同時に振り返った。
「テナー? 伊藤さんが」
明らかに怪訝な表情をしている。
あれっ、おれアルトやりたいって言ったっけ。いや言ってないよな。もしかしたら初心者はアルトからってことに決まっているのだろうか。
「そう、テナー」
「意外だな、アルトだと思っていました。伊藤さんどう見てもアルトっぽいし」
「アルトっぽいって、なんかそう言うのがあるわけ? 最初はアルトから始めるとか」
「いや別にそう言うわけじゃないんですけど、てっきり」
「なんでおれがアルトっぽいの」
「いやなんとなくサイズ的にそうかなと」
「サイズって、それって身長って事? まさかテナー買うのに身長制限があるわけ」
「そんなのはないすけど。でも十五万じゃテナー、ロクなの買えないっすよ」
後藤はホテルで会った時から趣味の悪いアナコンダ柄のケースを持ち歩いていた。どうやらアルトなのだろう。
店員は、どうしますか? と言うように顎髭を突き出している。さっきソプラノを吹いていた外人の子が、いつの間にか近くに寄って来て冷ややかにやりとりを見ている。
どんどん心細くなっていった。早くこの場から立ち去りたかった。
「そうかテナーは結構するんだね。予算が無いし、じゃあそれでいいかな」
「はは、伊藤さん。居酒屋で飲みもん決めてんじゃないんですから。いいんすかそんなんで。ま、いいか、やっぱり予定通りアルトで」 
流れに負けてアルトを買うことになった。意志を貫けない自分がイヤになったが、キラキラ光る現物を手に取るとそんなことは一気にどこかへ行ってしまった。俊郎は両手に抱えたアルトがすぐに気にいった。    
考えてみればジャズでは、テナーの巨人と呼ばれている大物たちはアルトから始めた人が多い。俊郎のようにあまり背が高くないためにリトルジャイアントと呼ばれたジョニー・グリフィンがそうだし、ジョン・コルトレーン、ソニー・ロリンズ、スタン・ゲッツだってそうだ。
よーしこうなったら、その全員に影響を与えたアルトの巨星チャーリー・パーカーを目指すぞ。俄然やる気になってきた。
YAMAHAと刻印のあるプラスチックの黒いケースを持つと、急に音楽家になったような気になるから不思議だった。後藤のケースのようにアニマル柄だったらどうしようと思っていたので、そのケースごと気にいってしまった。
調整に時間がかかると言われたが、後藤は、時間が無いから調子が悪かったら持ってくる、と強引に店を出た。
俊郎はそのまま真新しいサックスを抱え、山手線の線路脇を急ぐ後藤の後を追った。音楽スタジオは楽器店のすぐ近くにあった。 
 
くすんだビルの四階に上り、髪色がアッシュで緑のカラコンを入れた女の子が座っている受付で手続きを済ませ、八畳ほどの乾いた空間に足を踏み入れた。
初めての音楽スタジオ。カラオケボックスのようなものを想像していたが違った。照明は明るく、ソファなどは置いていない。代わりに鏡張りの室内にドラムやアンプが鎮座し、ここでの主役は楽器なのだと嫌でもわかる。
バンドマンの場という想像していた軽薄な感じではなかった。二重扉で防音も徹底され、乗艦したことはないけれど、映画で見た潜水艦のような規律すら感じさせる。
後藤はさすがに慣れた様子で奥からスタッキングのスツールを持ってきた。
「じゃあいよいよ始めますか。今日は伊藤さんの記念すべき初めてのサックス練習ですから、二時間みっちり音の出し方をやります。用意はいいすか、まずは楽器を出しましょう」
いよいよ始まるのか。返事が出来ないくらい口の中が乾いていた。
「僕と一緒に同じことをしてください。ネックにマウスピースを装着して次はリードを、そうその竹みたいなやつ、それを一回舐めて、あ、噛まないでください。つけたら……、いや本当は竹じゃないんですよ、葦です。人間は考える葦であるの葦」
ほう、と答えながらも頭は別のところに行っている。
「あまりねじは回し過ぎない。そしたら次は本体を出して、ああそこは持たない。ここです。ネックを入れて、あ、逆です。次にストラップのフックをかけて。そうその首の紐。長さを調節して……あ、あぶない。気をつけないと目に刺さることもありますからね。リードは割れてませんか」
頬にマウスピースがあたりピリッとした。
「左手と右手を添えて、次に足を開いて構える。マウスピースを咥えたら、ほら鏡を見てどうすか」
鏡の向こうにはついにサックスをかまえる自分がいた。ほれぼれした。
「伊藤さんキマってますよ。あ、急に手を離さない……大丈夫ですか」
今度はマウスピースが顎にぶつかり、どうやらリードが割れてしまったようだ。バランスがわからない。楽器を持つだけでこんなに大変なのか。後藤に促されて割れたリードを交換した。
「最初はサックス自体の扱いになれることが肝心です。それと、初心者あるあるなんですが、この下から引っ掛けるタイプのストラップのフックは外れやすいので気を付けてください。いつの間にか外れていてサックス落っことしちゃうなんて、ありますからね」
「はい」
 答えるが気もそぞろだ。両手に変な力が入って攣りそうになった。汗が吹きだし喉が渇いて仕方が無い。そう言えば待ち合わせでコーヒーを飲み損なっていた。
「えっ休憩? まだ何にもしてないじゃないすか。飲み物? じゃあそこ出て廊下の販売機から蓋が出来るものを買ってきてください。そうじゃないと持ち込めないですから」
サックスを恐る恐る後藤に渡し二重扉を開けて廊下に出た。
斜め前の販売機の所には、全身黒ずくめの連中が固まっている。白い半そでシャツにグレーのスラックス。どう見ても会社帰りの六十男はここでは逆に目立ってしまう。 
必要以上に頭を下げてどいてもらい、慌てて飲み物を買う。おつりを取ったかどうかもわからなかった。
「何、買ったんすか。お茶ですか」
そう言われて自分の分しか買っていない事に気がついた。
「いや、いいんすよ。終わったら」
後藤はジョッキで呑む仕草をした。後でビールを御馳走しろという事なのだろう。
教えてくれ、ケーオツです、と簡単に始まった個人レッスンだったが、報酬については何も話して無かった。
後藤が恩を売りたいのは明らかだったが、むろん仕事と一緒にすることは出来ない。かといって個人レッスンでいくら払ったらよいのかも分からなかった。どちらにしても今日、一杯飲まして様子をみよう。
 
「では立ってやりましょう。さっきと同じようにストラップのフックをかけて、左手右手、はい咥えて何でもいいから吹いてみましょう。とりあえず吹いてみてください」
〈ベオッ〉
「おお素晴らしい、音、出るじゃないですか。もう一回」
〈ピー…ブブ、ベオー〉
「いいですよーいいですよー。じゃあ今度は音を伸ばしてえ」
〈ベーーーー、ベッ、べべーーーー〉
頬も喉もこめかみも、顔中がこれ以上ないというくらいに膨らんでしまったかのような感覚。立ちくらみがした俊郎はそのまま椅子に座りこんでしまった。
「どうしました? 続けて続けて」
容赦なく促される。
確かに音は出た。それでも自分のサックスから出てくるあまりに不快な音に、何か急に情けなくなってきた。本当のサックスの音はこんなんじゃない。
「後藤さん、いきなり吹けって言われても、まだ何にも教わってないし、無理ですよ。まずちゃんと吹き方から教えてもらわないと」
泣き言が出た
「何言ってんですか、伊藤さんゴイスーですよ」
「えっなんだって?」
「スゴイ才能ありますよ」
「嘘だよ。ひどいもんだろ」
「サックスはね、実はわりあい簡単に音が出る楽器なんです。トランペットとかと比べるとね。それでも初めての時にはどうやっても音が出ない人がいる。そういう人にはサックスは勧めません。向いてないすから。ところが最初にスッと音が出たじゃないですか。しかも教わって無いのに。これは才能」
そう言われると急に満更ではなくなった。
「まあスッとは出ないけどね。ひどい音だし。でも、そんなもんかね」
「初めはしょうがない。試しにこう、左手の中指だけ押さえてください。吹いてえ……、それがC、ドの音。次人差し指だけでそれがB、シ。そのまま中指も押さえる、そう2本とも、それがA、ラ。次そのまま薬指これがG、ソね。ほら伊藤さんいけるでしょ」
ひどい音ではあった。でも確かに音が出ている。これがAだのGだの言われてもピンとこないが、ラとかソだと言われればそんな気もする。どんどんその気になってきた。
「次はどこ、右手?」
「そう左手はそのままで、人差し指でそこ、F、ファ。次中指も一緒にE、ミ。この辺からなかなか出しにくいですよ。それで次D、レ、C、ドとなります。ゆっくりやりましょう」
爪が真っ白になるほど指に力が入った。
「これがサックスのドレミです。簡単でしょ。何かに似てると思いませんか? 指使いのことを運指って言うんですけど、小学校の時にやったリコーダーと同じでしょ。あれ、伊藤さんの時代はやってないのかな、たて笛って? あ、やりましたか。そうなんです大げさに色々キーがついているけど基本はたて笛なんです」
色々な蓋のようなものが複雑に入り組んでいるサックス本体を見ながら、はるか昔の小学校の頃を思い出そうとしていた。
あの頃はたて笛を持っていない奴も多くて、何人かで廻し吹きをしたっけ。皆貧しかったよな。そういえば〈チューリップの歌〉などの唱歌を吹くのは得意だった、様な記憶がある。
なんだ、たて笛と同じか。それなら太平洋の遥か彼方に感じていたサックスが、伊豆大島くらいに近づいてくる。
「頬が痛い? あまり頬は膨らませないように、意識してやってください。じゃあ次は正式な咥え方をやりましょう。下の歯は唇の下に当てるようにやさしく咥えてください。上は直接歯があたってもいいんです。ほら音が変わったでしょ」
すぐに限界が来た。ほっぺたと喉の奥が広がるだけ広がって、何か顔中がむずがゆくなってきた。唇は麻酔がかかったようだ。その上、下唇の裏の歯が当たるところがヒリヒリする。
ようやく休憩をもらい、跳ねる様に一階の喫煙所まで階段を駆け降りた。気分は爽快だった。ゴルフとは違う充足感。
思った通り、吸いこんだタバコはいつもより数段うまかった。手の先でショートホープがみるみる白くなっていく。こういう時は、ホープショートは、まいうーだ、とでも言うのだろうか。
二本目に火をつけたところで思わず強く吹いてしまい、前の道路に花火の様に火種が飛んだ。
 
「うまいねビールが」
「たまんないですね。すいませーん、あ、君、もなみちゃんての、ちょーカワイイね。何歳? あ、ちょっといかないで、生ルービーおかわりツー!」
居酒屋で、すでに生ビールは三杯目だった。二人ともペースが早かった。
「娘さんの結婚式でサックス披露なんて、カッコイイお父さんですね」
サックスを習う理由を、娘の結婚式で演奏しなければいけないからと言っていた。小さい頃からの娘の夢で、たってのリクエストだからと随分苦しい言い訳だったが、後藤はあっさり信じたようだった。もしかしたらそんな事はどうでもよいのかもしれないが。
「式は十月って仰ってましたね、と言う事は四ヶ月ちょっとか。伊藤さん、やる曲は決まっているんですか?」
曲は四十年以上前に決めていた。その曲を思いうかべた俊郎は、一瞬にして大学生の頃に飛んでいた。
一九七六年、大学一年生の初夏、青々としたプラタナスのキャンパスへと。

#創作大賞2024 #恋愛小説部門

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