編集長の恋12
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七月も近いこの時期、そう寒いはずはないのに、日名子の体は小刻みに震えて仕方がなかった。心細さと怖さと恥ずかしさ。あとは自分でも良く分からない絡み合った感情。
明かりがともる電話ボックスから少し離れて、暗がりに身を隠しながら一年生の伊藤俊郎を待つ間、こうまで人を待ち焦がれたことは無いと思った。
周辺の明かりは電話ボックス以外になく、この先まで続いているはずの刑務所の壁すら見えない。本当の闇には重さがあるという事を初めて知った。それは息苦しさを伴うほどの無言の圧力だった。
部屋にはまだ西本がいるだろう。西本は酔うほどに執拗になる質だった。もしかしたら今頃になってその辺に探しに出ているのかもしれない。
それでもここは安全だという自信があった。刑務所は、西本たちにとっては体制側の象徴だった。普段から西本は、駅のこちら側には決して来ようとはしない。それだけに今はこの刑務所が何よりも頼もしく感じられた。
ふとこんな場面が昔もあった事を思い出した。
あれは確か小学生の頃だ。お小遣いを貰って隣町の児童館までバスで遊びに行った事があった。その帰りに間違えて違うバスに乗ってしまった。場所も分からないところで降り、お腹もすいてきた。
あの時はもう一人誰か一緒にいたはず。あ、そうだ、と思い出した途端に記憶が鮮やかに蘇り、辺りが夕方の情景に変わった。
目の前でたった今降りたバスが行ってしまった。
日名子はタカちゃんと手を繋いでいた。いつも一緒にいた鼻をたらした男の子、いとうたかし君。今日もおばちゃんから、タカをよろしくね、と言われて一緒に遊びに出たのだ。
ここがどこかもよくわからなかった。タカちゃんも、ぼくしらない、と言って鼻を袖でぬぐった。お小遣いはすでに使ってしまっていた。急にすごく不安になった。
日名子はタカちゃんのてらてら光る袖口を、きたない、と言って振りほどき、バス停の椅子に座って泣きだしてしまった。どんどん周りは暗くなるばかり。次のバスもなかなかやって来ない。どうしようお母さん、帰れない。
泣いてばかりいないで行動を起こさなければいけない。それは分かっていた。でも何もしないで泣いている方が楽だった。
その時自分の両手を意外なほど力強く握ってきて、そのままぐいぐい引っ張って歩き始めたのがタカちゃんだった。
「日名ちゃん行こう。お巡りさんのとこ」
引っ張られるままに歩き始めた。タカちゃんの小さいけれど温かい手に励まされるように泣くのを止め、一緒に手を振りながら歩いた。鉄道の歌も歌った。そうしてしばらく歩いていると、ほんのりとオレンジの温かな光が見え、そこには優しいお巡りさんの顔があったのだった。
どうしてその時のことを思い出したのかは分からない。すっかり片隅に押しやられていた記憶だった。
自分の電話によってきっとここに来てくれるだろう俊郎の、はにかんだ笑みを思い出した。あの時のタカちゃんの様に俊郎は私の手を引いてくれるだろうか。私はそれを期待しているのだろうか。頭の中でタカちゃんと俊郎が重なってしまっていた。
「日名子、さん?」
その時、暗がりから現れたのはまさしく俊郎だった。俊郎は息を弾ませながら近寄ってきた。白いシャツのボタンがはずれ、意外に引き締まった胸元が電話ボックスの明かりに照らされ光って見えた。
日名子は声を発する前に、安堵感でつい涙腺がゆるんだ。時を同じくして、真っ暗な上空からポツッポツッと大粒の雨が落ち始めた。
俊郎は何とか気持ちを落ち着かせようとしていた。自分の部屋に日名子を連れて帰って来た。見つけることが出来なかったら朝まででも探そうと思っていた日名子が、本当に刑務所前の電話ボックスの近くにいた。
そこにいた理由は分からない。急に降り出した雨がろくに話をさせてくれなかった。
真っ暗な壁の前で少女の様にしゃがみこんでいた日名子は、事情があって今日は部屋に帰れないの、とだけ言うと後は黙りこんでしまった。
雨が激しく降り出してきた。
「とにかくいきましょう」
咄嗟に日名子の手を取って促した。一瞬驚いたかのような表情を見せた日名子だったが、すぐに一緒に走りだした。その時になって日名子が裸足なのに気がついた。
なかなかやって来なかった電車に乗り、井荻の駅からまたも暗がりを走るように帰った。
「足、大丈夫ですか」
途中何度も聞いた。
「平気よ」
日名子は口数が少なかった。
雨は梅雨時特有の容赦なさで身体を叩く。六月とは言え、身体は小刻みに震えた。日名子も同じ様だった。
下宿の玄関で日名子に待ってもらい、部屋からバスタオルを取って戻った。バスタオルを手渡したが、日名子は放心したように突っ立ったままだった。仕方がなく、日名子の頭を包みこむようにして急いで拭いた。それから座らせ、裸足の足を片方ずつ持って丁寧に拭った。白いバスタオルにうっすらと血がにじむ。日名子はされるがままだった。
部屋に入り風呂用の洗い桶に水を汲むと、我に返ったかのような日名子は黙って手拭いを受け取り、ジーパンの裾をまくり足を洗った。桶の中で揺らぐ足は、蒼白く痛々しい。
「あの日名子さん、すみませんこんなところで」
「ううん、こちらこそ突然ごめんね。びっくりしたでしょ」
「いやそんなことないです……あっ、と」
干していたパンツを洗濯バサミごと押し入れに投げ入れ、見つけた赤チンを新しいタオルと一緒に日名子に手渡した。どの傷もそれほど深くはなさそうだった。
「すみません、今ちょっと片付けます」
場所を取っている万年床を脇へ押しやる。
「いいのよ、気を使わないで」
日名子は小刻みに身体を震わせている。なんとか日名子に暖を取らせたかった。銭湯はもうとっくに終わっている。とにかくまずは着替えてもらうしかない。
一番きれいなTシャツと長袖シャツ、ジャージーを日名子の前に差し出した。
「これちゃんと洗ってありますから」
「大丈夫」
一旦はそう言った日名子だがすぐに、ありがとう、と素直に着替えを手に取った。濡れた長い髪が顔に張り付いた日名子は、寒さに震える小動物のように見えた。
俊郎は自分も台所で着替えるとようやく少し気分が落ち着いてきた。それでも下着まで濡れた寒さはなかなか抜けない。着替えを終え毛布にくるまった日名子も、唇が紫色になっている。
何か身体を温めてくれるものをと考えた頭に、流しの下にあるとっておきの〈ジョニ黒〉が浮かんだ。ジョニ黒を取りだし、日名子に掲げた。
「日名子さん、よかったらこれどうですか。身体温まりますよ」
「それジョニ黒じゃない。懐かしい、パパが良く呑んでいたわ」
日名子に少しだけ笑顔が浮かんだ。
「でもすごいじゃない、高いんでしょ。パパなんか薬みたいにちびちび舐めてたわよ。どうしたのそれ」
「おやじから入学祝にもらったんです。一緒に呑みませんか」
「いいわね、のものも」
ストレートは濃すぎたのか、日名子はすぐに台所に行って水を半分くらい入れ、かんぱーい、と言って一気に飲み干した。
それからは二人で水道水で割ってぐいぐい飲んだ。ほどよい酔いが身体を温めてくれた頃には、会話が弾んでいた。もっぱら日名子が、音楽の話や大学に来る前の故郷の話などをした。
「伊藤君って読書家なのね。本がいっぱい」
部屋で大方の壁をふさいでいる本棚を見ながら日名子は言った。
「森鴎外っておもしろいの?」
「ええ。本当は全集を買いたいくらいです」
「へえ」
数枚しかない俊郎自慢のレコードを見ていた日名子が声を上げて笑った。
「橋幸夫ぉ、〈恋をするなら〉。これ、うちにもシングル盤があったわ。伊藤君好きなの?」
「いや別に、それはお袋のです」
「あ、これ〈ジャズ・サンバ〉じゃない。聴かせて」
「ええ。しかもアンコールっていう、続編です」
得意気に、自慢のLPレコードを手に取った。
ジャズはずっと、高校の頃父親に買ってもらった中古のアート・ブレイキー一枚しか持っていなかった。針音がブツブツいうほど何回も聴いた。さすがに全部覚えるくらい聴いて、どうしても次が欲しくなった。
スタン・ゲッツの〈ジャズ・サンバ・アンコール〉。小遣いをやりくりしてやっと買えたレコードだった。本当はアンコールではない一作目が欲しかったが、新宿の専門店でも売り切れだった。
「せいがくさん、こっちが新しいよ」
白髪をオールバックに撫で付けた、いかにも押しの強そうな店主が勝手に袋に入れたものだった。断れないままに買うはめになり、部屋に帰って聴いてみると、店主に頬ずりしたくなるほど素晴らしい内容だった。
縦横無尽なサックスがなんとなく西本に似ていた。女性ボーカルも入っていたが、こちらは日名子とは似ても似つかないおばさん声で少しがっかりした。それでも俊郎は大満足だった。
こうしてオリジナルのレコードを聴くと、日名子と西本の演奏がいかに本物に迫っているかがわかる。いや、それ以上かも知れない。そう思うと、どういうわけか誇らしい気持ちと少し悔しい気持ちが同時に起こる。
他の歌謡曲などでは、くぐもった音でしか鳴らない貧弱なスピーカーが、このレコードとは奇跡的に相性が良く、心地よいリズムと緩急自在なサックスの音が流れ出てくる。
レコードジャケットを手にする日名子の頬にもピンク色が戻ってきていた。何杯目かのコップを空にした日名子がいたずらっぽく笑った。
「後悔しているわ」
「えっ?」
「……ふふ、この歌の歌詞よ。愛してると言われたのに、その時自分がつれない態度をしたのを後悔しているのよ。相手は去ってしまったって、そんなのもう遅いのにね」
三曲目の〈インセンサテズ〉と言う曲だった。ポルトガル語の歌詞は俊郎にはさっぱりだったが、そう言われると確かにそう聴こえた。
「あ、これイパネマだ」
レコード店でもう一枚のレコードを買っていた。帰りしなに目に入り、迷った末に持っていたお金を全部出して手に入れたものだった。スタン・ゲッツとアストラッド・ジルベルトの〈イパネマの娘〉のEP盤だった。
これを日名子が歌うのを想像しながら何回も聴いた。自分が好きなのは日名子の歌うこの曲なのだと改めて思った。
「日名子さんは、どうしてボサノヴァにそんなに詳しいんですか。レコード店に行ってもあまり置いていなくて」
「実はおじさんがサンパウロに住んでいるの。それでサントスから船便でレコードを送ってきてくれたのよ。木枠で梱包してあって最初何が来たのかと思ったわよ。そしたら中にジョアン・ジルベルトとかアントニオ・カルロス・ジョビン、セルジオ・メンデスなんかのレコードがいっぱい入っていて、もう夢みたいだったわ」
「それで日名子さんの歌は本場の人みたいなんですね」
「私は行った事ないんだけどね。でもいつかはイパネマの海岸を真っ赤なビキニを着て歩くのが夢よ……。なんてね」
「すごいです」
「それにアストラッドみたいにアメリカにも行ってみたいわ」
「日名子さんならアストラッド・ジルベルトに絶対負けてませんよ。だってアストラッドなんて鼻歌みたいじゃないですか」
「そうね確かにね。でも彼女だって心を込めて歌っているわ。そうじゃないと決して伝わらないもの」
レコードを見つめる日名子の横顔を見ながら、あらためていまこの瞬間が現実とは思えなかった。
「私ね、小さい頃から早く大人になりたいって思ってきたの。それが今はこのままが良くなっちゃった。ずっとこのままがいいなぁ。私、オープンチャペルで伊藤君たちを前にして、いつまでも歌っていられたらなぁ」
「そしたら、ぼくもずっとずっと聴いています」
「でも私たち、気がつけばもう十分大人なんだよね。きっとあっという間に歳を取っちゃうんだろうなぁ……うわぉこのゲッツ、さすがね。セクシー、しびれるぅ」
「西本さんと似てますね」
「西本? ……そうかしら、スタイルが違うわね」
「この間のオープンチャペルの西本さん、最初は大きな音でびっくりしたんですけど、どんどん後になって、なんて言ったらよいかわからないんですが、素晴らしかったです」
「そう、それ聞いたらコウちゃん喜ぶわ。前はもっとスゴかったのよ。隣で歌っていると鳥肌が立つほど。天才だと思ったわ。でも最近の西本はそれほどサックスが好きじゃなくなったみたい」
コウちゃん、と言った日名子の声がずっと耳に残った。ジョニ黒の酔いが一気に回ってきた。どうして西本の話なんかしてしまったのだろう。西本の話をする時の日名子は、少し感情的になっているように見えた。
「西本さんとは親しいんですか」
日名子は一瞬驚いたような顔をみせた。
「馬鹿ね」
自分の口から思いもかけない言葉が出てしまい狼狽した。それから日名子を見る事が出来なくなった。ただ黙りこくって手に持った水割りを流しこむ。いつの間にかレコードが終わっていた。
日名子もまた押し黙って何かを考える様に下を向いていたが、手に持ったコップの水割りをごくごくと一気に飲みほすと、ふーっと大きなため息をついた。そして俊郎に向かって言った。
「ねえ……。キスしない」
俊郎の汗が染み付いた布団の中でも、日名子のうっすらとピンクに染まった肌は匂う様に艶めかしかった。日名子の姿態に、経験のない俊郎は途中から何をすることも出来なくなった。ただただ幸運と羞恥に慄くばかりだった。
「すみません……」
「そんなこと気にしないで」
最初は日名子の太ももに触れただけで終わってしまった。次は途中から上手く行かず、どうしても一つになる事が叶わなかった。なじられるでもなく、そのまま抱きあっていられたのは日名子のやさしさだろう。
「好きだ」
何回も言った。数え切れないほど言った。日名子はその度に微笑みながら頷いてくれる。それだけで十分だった。
手、腰、足……。すべての触れ合っている部分の神経が響きあって全身で日名子を感じている。日名子の長い髪をさすり、見つめ合い足を絡めあう。この時間が信じられない。
思いは果たせなくても朝まで何回となく繰り返し、その度に髪をなで、話をした。何を話したのかは憶えていない。ジョニ黒は結局全部空けてしまった。
窓から薄い光りが射し込んでくる。柔らかな光のもと、腕の中の日名子に目をやり、改めて震えるほどの喜びに包まれた。その目に何箇所か日名子の白い肌にはそぐわない紫や黒の醜いあざが映った。一気に暗い予感に包まれた。
日名子は俊郎のTシャツに手を通し、流しで顔を洗った。少し残っていた化粧を落とし、振り向いた日名子の左の目の下もやや黒ずんで見えた。言い知れぬ怒りが湧いてきた。
「誰がこんな……」
「えっ、ああこれね。私意外とおっちょこちょいだから、色々ぶつけちゃうのよ」
「そんなはずは……」
「だからなんでもないって。気にしないで。こんなのすぐに治っちゃうんだから。そんなことよりお腹空いたね。泊めてくれたお礼に、私、何か作るね……。でも、その前になんか着ないとね」
