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編集長の恋7


 
綾瀬日名子はギターケースを抱え駅まで急いでいた。時間に追われているわけではないのに、気がつくと小走りになっている。
久しぶりに晴れた水曜の朝。駅へと向かう人々の足取りは、誰もが速く、何かのきっかけで一斉に走り出してしまいそうだった。普段ならそんな流れからは離れて歩くのだが、今日に限ってはどうしても流れの前に出たかった。
これから電車を乗り継いで大学のある街に降り立てば、そこはまた情景が一変する。通りの至る所には学生たちがたむろし、ある者はギターを片手に歌い、中には打倒体制や反戦を叫んでいる者もいる。そこには大きな子供がいるだけで大人はいない。
そう思う自身も、おそらくは今日、いつもの場所でいつもの歌を歌うだけで幸せになれるはずだった。
久しぶりに化粧をした。厚めに塗ったコンシーラー。隠した左の眼の下は、あざになりやや黒ずんでいた。さわるとまだ少し痛みが走る。去年の夏に買った生成りのチューリップハットを目深にかぶる。
それでも久しぶりにした化粧が、結果的には昨日までの梅雨空の様なくすんだ気分を変えてくれた。学内には化粧をしている学生はあまりいない。自身もめったにしない。それでもこうまで気分が晴れるのなら、毎日しっかり化粧をしようかなどと思ったりした。
 
あざの原因、西本孝太郎からは依然連絡がなかった。二日前に出て行ったきりだった。西本に殴られたのは初めてではない。回を追うごとにその激しさが増している。抵抗して揉み合ったために体のあちこちが痛かった。次は無いと自分に誓っていた。
西本がジャズ研演奏部、日名子が軽音楽部に所属した入学当初に知り合ってから、もう二年ちょっとになる。その時から西本はすでに玄人はだしのジャズテナー奏者だった。 
元々は小児ぜんそくの治療のためにアルトサックスを始めたという。小学校に入ると、地元の仙台で有名になり、新聞でとりあげられたりしたらしい。音楽的には早熟な天才肌だった。テナーサックスには大学入学時に持ち替えた。
入学当初からオープンチャペルで歌い出していた自分に合わせて、即興で伴奏を入れてくれた。仲良くなるのに時間は必要としなかった。
背が高く、サックスが上手い。色白で髪が長くちょっと見、良い男。その上、仙台の代々続く造り酒屋のお坊ちゃん。それだけに壊れやすく自意識過剰な面を持つ西本だった。
それがどういうきっかけか二駅離れた教育学部に出入りするようになり、すぐに過激な思想に染まった。西本には〈現体制は悪、自分たちが日本を変える〉やら、〈卑劣なヴェトナム戦争を総括せよ、勝利した共産主義こそが楽園〉などと声高に主張する仲間がいた。今では極少数派になったそんな男たちの誰よりも西本は繊細だった。その繊細さが弱さとなり、弱さゆえに彼らに利用されている。
そして西本は、その事実を認めたくないばかりに、より弱い存在を探すようになった。結果、日名子に向かった。反戦や平和を標榜するものが身近な者への暴力に走る。その矛盾の原因は本人の幼さだ。
常日頃西本たちが口にする主義だの改革だのそんなものは日名子はどうでもよかった。本当は優しい面もある西本が、そんなしがらみを一切放って、また隣でサックスを吹いてくれるのを待つようになった。
自分には歌があった。ボサノヴァがあった。それをただ歌っていたかった。それでも時間だけは流れていく。自分にも卒業という終わりが来る事は分かっていた。でも、大学を終えた後のことを真剣に考えたことはなかった。
日名子の父親は、郷里の静岡の清水で長く市議会議員を務めている。祖父の代からの缶詰工場で財を成し、地元では名士扱いだ。東京にも取引先が多くあった。そのつてで就職するのか、それともおとなしく実家に帰って結婚をして家庭を持つのか。いずれにしてもそういうお決まりの未来しか浮かんでこない。
プロの歌手になるという選択肢は現実味がなかった。〈ボサノヴァ〉が好きだった。歌謡曲には興味が無い。それに仕事にした途端に、歌う事が辛くなるのはわかっていた。純粋に歌って幸せでいる。そしてそれを少ない人数ではあるけれども聴いてくれる人と共有できるのは学生のうちだけだ。だからこそ今を大切にしたい。
大学までの電車は混んでいた。揺られる度に、酔って殴る時の西本のゆがんだ顔が浮かんでくる。暴力をふるいながらも本当は暴力におびえる弱者の目……。
その西本も、卒業という時間がくれば、大人としての選択を迫られる。サックスのプロとして活動するのだろうか? 今の西本に入学当初の音楽への情熱は感じられない。
きっとあっさりとサックスを捨て、故郷の造り酒屋に戻るか、軽蔑していた一般学生に紛れ、髪を切って愛想笑いをしながら企業に進路を求めて行くのだろう。そして、学生運動など他人事のような顔をするに違いない。
そちらの方が現実的に思える。結局のところまだ大人になりきっていないのだ。
潮時かな。それをどうしても感じてしまう。
それでも今は、ぎゅうぎゅう詰めの電車の窓越しに見える晴れ渡った空が嬉しい。鬱陶しく澱のように溜まったものを全部捨てて、講義の授業をすっ飛ばし、一日思い切り歌おうと日名子は決めていた。
 
日名子は正門からそのまま左手にある一号館を通り過ぎ、オープンチャペルに向かった。
オープンチャペルはその名の通り、本来説教の場だ。小さなステージと三十人くらいは座れる段差のついたコンクリートの会衆席がある。晴れさえすれば、そこが音楽サークルのコンサート会場へと変わる。
ここでは演奏者と観客がはっきりと区別されている。ステージに上がれるのは、それなりに人前で演奏をする資格を持ったものたちだけだ。下手なコピーや場違いなものが上がると、同じ学生の観客から手荒に追い払われることがあった。
そんな真剣な空気の中にあって、自分のシンパは常に二十人近くいた。古びた一号館一階の学生食堂にたむろして、自分の登場を毎日のように待ってくれていた。
今日も自分が姿を見せると、それまで演奏していたウェスタンのバンドが急いで片付けに入り、すぐに客席が埋まり始めた。早くもそれぞれが大学ノートの端を切ってリクエストを書き込んでいる。
ステージでは同じ軽音部のベースの森田とギターの矢田部がどこからか現れて、準備を始めている。ドラムの若月も少し遅れてやってきた。椅子に座りチューニングを終えるころには客席にもいつもの顔が揃っていた。
ロングの真ん中わけに大きな黄色いサングラスの〈トンボ〉や、いつも手拭いを首に巻いている〈タオル〉。チャペル前で自前のビラを配ったりする〈アジビラ〉。坊主頭で顔が弁当箱のような〈まるかく〉など日名子が勝手にあだ名をつけた学生たちが、仲良く前の方に陣取っている。
それら強烈な個性の上級生の後ろに下級生たちが遠慮がちに座っている。まだ大学に染まっていないその何人かの中で、一人だけ目にとまった者がいた。
どこか気になるその一年生を最初に見た時に、言いようのない懐かしさを覚えた。その子があまりにもそっくりだったからだ。
実家の缶詰工場に働きに来ていた女性の子供のタカちゃん。おねしょ癖があり、いつも鼻をたらした男の子だ。近所に住んでいて女手一つの母親から、日名ちゃん、うちのタカの面倒見てやってね、といつもお願いされていた。
社員への気遣いのためか議員活動の人気取りのためか、父親からは工場で働いている人の子供とは一緒に遊ぶようにと言われていた。その度にもらえるお菓子は嬉しかったが、タカちゃんの面倒を見るのが本当は嫌だった。姉弟でもないのにスカートを掴んで後をついてくるからだ。名前は確か、いとうたかしだ。
一気にあの頃の記憶がよみがえった。校庭の鉄棒の臭いや血のような夕日の赤。暖かい日には必ず立ち上る漁港の潮の匂いなどが、いっぺんに目の前に広がった。
その一年生は記憶の中のタカちゃんそのままだった。本当にそうなのではと疑ったほどだった。サークルの先輩に連れられ、あいさつを交わした時の、文学部一年のいとうとしおです、とおどおどした態度もますますタカちゃんだった。
「いとう君? きみ、いとう君っていうの、もしかして出身は清水?」
言いながら吹きだしてしまった。
「じゃあないわよね。よろしくね、いとう君」
女王からの思わぬお声がけとでも思ったのか、一年生は心底うれしそうにしていた。その笑った顔も、どこか懐かしかった。
その伊藤俊郎、タカちゃんから今日もリクエストがきた。
〈イパネマの娘〉。もう何回この歌を歌ったことだろう。それでもタカちゃんからのリクエストは何となく断れなかった。
歌いながら日名子の頭の中に、子供の頃の記憶がまたよみがえって来ていた。

#創作大賞2024 #恋愛小説部門

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