編集長の恋22
22
天候に恵まれた十五階の屋外テラスは、秋中旬の気持のよい風が吹いていた。厳かなパイプオルガンの音色に包まれ、透明なガラスブロックの上に敷かれた深紅のバージンロードを俊郎は花江と一緒に歩いた。
花江の笑顔には、昨日のゴタゴタなどどこかへ行ってしまったかのように、これから幸せへの階段を上り始めると決心している真摯さがある。これ以上ない娘の晴れ姿を見つめながらも、どうしてもその姿が日名子と重なってしまう瞬間があった。
今の今まで忘れていた、忘れようとしていた日名子の存在が、四十数年もの時を隔てて止めようがないほど大きくなっていた。
披露宴の時間になり、式場の扉が開け放たれた。空が一面ライラック色に染まっている。
会場にはもうすでに招待客が集まり、それぞれがドリンクを手に歓談をしていた。やがて盛大な拍手に新郎新婦が迎え入れられ披露宴が始まった。
会場中央のタイル張りのステージの上には、博章のバンドの楽器がセットされ、その前で司会を頼まれた花江の女友達が興奮気味にマイクで話している。
俊郎のサックス披露は、宴の終盤、花嫁からの花束贈呈の返答という形で組み込まれていた。その後は新郎の父の挨拶があるだけだ。相当に緊張するだろうと思っていたが、今はそれどころではなかった。
飲み物を取りに行くふりをして会場中を見て回った。夕闇が迫り、会場のライトが色濃く灯る。
日名子に会って何を話したら良いのか分からなかった。それでも捜さないではいられなかった。
そう広いスペースではないのに、日名子の姿だけが見えなかった。気が急いてしかたがない。もしかしたら急用で帰ってしまったのかなどと思いはじめた頃、最後に回ったチャペルの陰に一人佇む日名子を見つけた。
ためらいながらも近づくと日名子は微笑みながら、安心したわ、と声を発した。変わらない艶っぽい声だ。時間がまたもや一気にさかのぼったかのようだった。
「伊藤君が捜してくれなかったら、どうしようと思っていたのよ」
「やっぱり、本当に日名子さんなんですね」
「ふふ、変わらないわね伊藤君。お久しぶりね。何年になるのかしら」
「えーと四十五年かな、六年? どっちでもいいですね」
「そうね、随分経ったのね」
タイミング良く銀盆に飲み物を載せたウエイターが通った。俊郎はウイスキーの水割りを手に取った。
「これジョニ黒だったりして? はは、違うか。日名子さんはなにか?」
「ジョニ黒、覚えているわよ。なんか懐かしいわ」
日名子も覚えている。それがわかっただけで、甘酸っぱい思いに包まれる。
「しかし驚きました。まさか花江の嫁ぎ先の……」
「いいのよ、おばあちゃんって言っても。本当に縁なのね。私も驚いたわ。今日知ったんですもの」
日名子は昔と変わらずいたずらっぽい笑みを見せた。
「もちろん博章から伊藤さんという方だとは聞いていたけど、お父様のお名前までは伺っていなくて。私も何回かお会いして、とてもすばらしいお嬢さんだって喜んでいたの。でも私はさっきすぐに気がついたわよ、あっ、伊藤君だって……。伊藤君は気がついていなかったでしょうけど」
「僕もすぐに分かりましたよ」
「うそよー、知らんぷりしてたもの」
「まさか、こんなところで会えるとは思ってないですもん……。いやー、しかしこんな事があるんだなぁ」
日名子と四十数年ぶりに見つめあう。身体の深い所が共鳴するかのように震えている。それは長い間忘れていたというより、自らが封印していた思いだった。そして、そんな青年期のような瑞々しい歓喜が湧き出てくることに自分でも驚いていた。
「伊藤君……本当は怒ってるでしょ」
「えっ」
「私の事をいい加減な女だって」
「そんなっ、そんなことないです」
「でもいいの、なんて思われても。私はそれだけのことをしたんだから」
「日名子さん……」
「こんなことを言うと伊藤君に叱られるかもしれないけれど、あの時本当は伊藤君にどこか別のところへ、無理矢理にでもいいから引っ張って行って欲しかったの」
「でもあの時、西本さんと」
「そうね……。やっぱり私が悪いわね」
日名子のアパートで、西本とのケンカの時に見せた、日名子の泣き笑いのような顔を思い出した。忘れようにも忘れられなかった日名子の最後の表情だ。あの時自分はなぜ黙って立ち去ってしまったのか。どうして、日名子の手を取って、暴力をふるう男の前から連れ去らなかったのか……。
「でも、驚いたわ。伊藤君がサックスをやっていたなんてね。あれから始めたの?」
「いやいや滅相もない、つい最近です。四カ月くらい前から。いやー、そうか。サックスを日名子さんに聴かせることになるんですね。これは大変なことになった」
日名子の言葉に現実に戻った。今からでも演奏を止めることができないものか。とても日名子さんには聴かせられない。
「新婦のお父様がサックス演奏って聞いて、楽しみにしていたのよ。なんてモダンなお父様なんだろうって。まさか伊藤君だったとはね。拝聴いたしますわね」
「いや、そんな聴かせられるものじゃないです。困った」
「啓子さん、どうしましたこんなところで」
その時室田の大きな声が聞こえた。赤い顔をした室田が一眼レフを抱えて姿を現した。
「俊さんこんなとこにいた。だめですよ新婦の父親がいなくなっちゃぁ。そうだ、折角なんで啓子さんも一緒に写真。あれ、いない。じゃあお二人で、チーズ」
啓子? いたのかそこに。いつからいたのだろう。
偶然の再会とはいえ、啓子に知られるのはなんとなく後ろめたかった。それはひとえに自分の中に起きている感情ゆえだろう。そうこうするうちに日名子はスッと親族の方に戻って行ってしまった。
ステージでは先程から博章のバンドが演奏を始めており、オリジナル曲だという騒音を満天の星空へ鳴らし続けていた。新婦の花江と数人の友達がその新郎に熱い声援を送っていた。
