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編集長の恋6

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「伊藤君、何の曲?」
綾瀬日名子はその時、顔にかかる髪を左手でかきあげながら、足を組みギターを抱えて言った。
「私に歌って欲しいって曲は」
「あの……〈イパネマの娘〉です」
ああ、と言う様に顔を上げた日名子は八重歯を見せていつものように笑い、すぐにギターでイントロを奏でた。
「いつも歌ってるじゃないの。でもいいわ」
言いながら左手のポジションを少し見る。かきあげた髪がまた頬にかかる。俊郎の方を見て少し微笑み、日名子は歌い出した。
「Tall and tan and young and lovely The girl from ipanema goes walking……And when she passes,each one she passes goes - ah」
アー、と甘美なためいきを聴かせてからまた、ふふ、と日名子が笑う。
「ポルトガル語の歌詞はまだ覚えてないの」
「いえ、これです……。最高です」
俊郎が持っているこの曲のレコードも、アストラッド・ジルベルトにより大ヒットした英語詞のものだった。この曲はもう何回聴いただろう。家ではアストラッドの歌声に日名子を重ね、大学では目の前の日名子の歌で。
三年生の日名子が所属する軽音楽部とは部室が隣同士だ。プレハブよりはちょっとましな程度の二階建て。横に長い建物になっており、そこに二階は体育会系、一階は文化部系、その他全部が詰め込まれていた。
俊郎はジャズ研究部に所属していた。ジャズ研は演奏部とレコード鑑賞部にわかれており、楽器のできない俊郎は当然レコード鑑賞部だった。
レコード鑑賞部と言っても、レコードを何枚も持っている学生は少なく、皆でジャズに限らず流行っている洋楽やフォークソングなど何でも持ち寄って、演奏部の練習の合間を縫う様に部室で聴いていた。
アストラッドがテナーサックスのスタン・ゲッツと共演したこのレコードは、俊郎は大学には持ってこなかった。自分一人で聴きたい。そういうレコードだ。
ジャズ研といいながらも皆はジャンルなしに聴いていたので、演奏部からは、お前らはノンポリだ、と馬鹿にされていたのが鑑賞部だった。演奏部の連中は、自分らは選ばれたエリートだとでも言いたいのだろう。
ノンポリの語源でもある学生運動でも、凝り固まった主義主張を唱える物騒な連中はもはや少数派だった。
東京の端にあるこの大学でも何年か前までは結構激しく学生運動があったらしい。俊郎の通う文学部や女子短大があるこちらのキャンパスから二駅離れたところに教育学部と経済学部のキャンパスがある。学生運動はそちらに集中していた。
現在は撤去されているが、かつては過激派の手によってバリケードが築かれ、キャンパスまるごと占拠されていた。当時を知る先輩の話では、のんびりしたこちらのキャンパスから見るとまるで別世界で、さながら激化するヴェトナム戦争とシンクロしているかのようだったらしい。 
その学生運動も、まだ一部に過激なセクトは残ってはいたが全体的に沈静化し、昨年ようやく泥沼の様相を呈していたヴェトナム戦争も終わりをつげ、ようやく大学や社会に平和な時間がやってくる兆しが見えようとしていた。
多くの一般学生は、のんびりと毎日を思い思いに過ごしていた。とはいえ、いつまでも学生でいるわけにはいかない。社会に出ようという学生たちは変わりゆく世の中にあって、内心ではみな怖気づいていた。
俊郎の所属する音楽サークルの連中は、一日でも現実から逃れようと、音楽に没入した。俊郎もそうだった。
巷では、ビートルズやベンチャーズなどのエレキサウンドブームは落ち着き、ディスコなどのダンス音楽が台頭していた。それでも、まだ大学の音楽サークルなどでは、六十年代のエレキやロック音楽が幅を利かせていた。
音楽関係のほとんどの部が部室に楽器をセッティングしており、周りに負けないように音量を上げて練習する。やりすぎると二階の体育会系が部室に怒鳴りこんでくる。目の前の川を挟んだ住宅地からもしょっちゅう苦情が来ていた。
そんなこともあり、日名子をはじめ軽音楽部で、フォークなどのアコースティック系の音楽をやる者は、天気の良い日などに正門脇の一号館の前にある屋外ホールのような造りになっているオープンチャペルで歌っていた。
オープンチャペルは、学内の中立地帯で大学側も体育会系も手を出さない、いわば文化部にとっては聖地のような場所だ。その聖地のアイドル、綾瀬日名子は〈ボサノヴァ〉が得意だった。 
ボサノヴァはブラジル発の音楽で、十年ほど前に全世界的に一気にブームとなって、日本にも少し遅れて入ってきていた。派手なロックやエレキ、同じアコースティック系でもメッセージ性の高いフォークに比べると、どちらかというとソフトムードな大人の音楽という位置づけだった。
そのボサノヴァが日名子によって、学内で一気にメジャーになった。〈ボサノヴァの女王〉。日名子は周りからそう呼ばれていた。女王の名に恥じることなく、日名子はギターを弾きながら何曲でも歌った。一年生の頃からずっとそうだったらしい。
いつの頃からか、皆は日名子がステージに現れると、歌って欲しい曲をリクエストするようになった。最初は曲の合間に〈黒いオルフェ〉とか〈ソー・ナイス〉などと声がけをしていたが、いつの間にかノートの切れ端などに書いて手渡す様になった。
それ以降は、間奏の間に日名子がリクエストの中から次の曲を決めるようになり、まるでコンサートの様な構成で日名子の歌を楽しめた。
日名子は最初からリクエストのほとんどに応える事が出来たらしい。今年の春に仲間入りしたばかりの俊郎からすると、日名子の存在はまるで音楽のミューズそのものだった。
いつもは遠くから眺めているだけだった俊郎が、どういう経緯からかその時初めて日名子に直接リクエストをすることが出来た。
いつかリクエストしようと調べていたボサノヴァの曲名は頭から飛んでいた。とっさに出てきたのが一番有名な〈イパネマの娘〉だった。何度も耳にしたその曲だったが、日名子が自分のリクエストに応えて歌ってくれた。
その上、自分の名前を覚えていて、初めて皆の前で呼んでくれた。それだけで十分だった。
この日以来、〈イパネマの娘〉は、俊郎にとっていつまでもみずみずしく甘酸っぱい特別な曲になった。
 
「伊藤さん、いとーさん、次、何飲みますか」
女神のような日名子の顔が土壁のような後藤の顔に変わった。
俊郎は居酒屋の喧騒へといつの間にか連れ戻されていた。久しぶりにあの頃を思い出した。忘れようにも忘れられない青春の一コマ。
「でも、なんでイパネマの娘なんですか。なんか思い入れでもあるんですか」
デリカシーのない後藤のストレートな問いに我に返った。気恥しさからあわてて口にしたビールにむせた。
何年間も封印していた綾瀬日名子の思い出。記憶の宝箱から取り出されたその姿は、まったく色あせていなかった。
「なんでもいいじゃない、おかしい?」
「いやおかしくはないですよ。娘さんのリクエストですか? まさかサックスと一緒に歌うとか」
「んなわけないよ。でも本当に後四カ月ちょっとで演奏までいけるかな」
「ま、最悪でも、楽器持ってるだけで伊藤さんはうまそうに見えますしね」
「それじゃあダメなんだよ。格好だけじゃ。本当に大丈夫なの、先生」
「任せてください。でもやっぱり格好は大事ですよ。そうだ伊藤さん、今日から口髭をたくわえましょう」
後藤は先ほどのビールも空けてしまい、もなみちゃーん、私の友よー、などと大声でさっきの店員を呼んでいる。
後藤の企画書には、確か子供が三人おり年齢は四十五歳とあったが、生活感というものが全く感じられない。勢い込んで、個人レッスンを頼んでしまったが、人間的にはどこか得体が知れない。経営しているという会社の状態も知れないし、悪い奴ではなさそうだが、上手く付き合っていけるかどうかはまだわからない。
「後藤さんのところは三人だったよね」
「えっ? ああ子供っすか。そうです。一番上が中学一年の男。後は小五と小四の女の子が二人」
「今日はどうしてるの。誰かに見てもらってるとか」
「ま、うちは勝手に育ってますから」
「勝手にって、夕食とか大丈夫なの」
「なんか適当にやってんじゃないんですかね」
投げやりに聞こえた。
「女の子には女房とダメになってすぐに料理を仕込みましたから。僕はバンドで売れない頃に厨房のバイトをやっていたんです。それで女房がいなくなって一番最初に子供に料理を教えました。今じゃ元妻よりよっぽどうまいもん作るんじゃないかな」
大丈夫なのか。三人の子供が肩を寄せ合って釜の飯を取り分けている様が想像された。
「後藤さん、後添えはもらわないの?」
「いや、それは考えていないです」
「でも会社もやっているし、家庭もとなると、なかなか大変なんじゃない? 立ち入ったことを聞くようだけど」
後藤は、全然大丈夫ですよ、と家庭がなのか立ち入った質問のことなのか、どちらかわからない返事をした。もうこれ以上は聞いたらまずいな。
「いや、今日は楽しかった……」
そろそろお開きにしようとまとめかかると後藤はかぶせるように言葉を発した。
「子供らの世話のことは、実の母親でさえ放り出したんです。他の女性にそんな面倒を押し付けることはできませんよ」
これまでとは打って変わって真剣な表情だった。俊郎は返答に詰まった。
「それに僕はこう見えて、よく人から言われるんですが、一途というか、堅いというか、不器用というのか。それがいいか悪いかはわかりませんが、そんな女性はなかなか」
眉間にしわを寄せて首を振って見せた。その芝居じみた仕草は置いておいて、この見た目だが、本人が言うように意外と真面目な男なのかもしれない。堅物には見えないが、不器用ではあるだろう。
それでも、サックスのプロだったということは、長時間の練習を重ねたと言う証でもある。粘り強いのは確かだ。ふとそんなことを考えた。

#創作大賞2024 #恋愛小説部門

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