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編集長の恋17

17
 
「伊藤君、何も聞かないのね」
日名子は部屋に着いて、ようやく安堵したような表情を浮かべた。何をどう聞けば良いのかわからない俊郎は黙っていた。
電車を降りた後も終始後ろを気にしながら帰ってきた。日名子のおびえた仕草から、まだ見ぬ男の存在が重くのしかかってくる。身体中に嫌な汗がじっとりと纏わりついていた。
「ありがとう。やさしい」
日名子が首に腕をからませてきた。その身体もしっとりと汗ばんで、甘酸っぱい香りがする。その甘美さで頭の中の黒い影を追い払おうとした。おそらく日名子には普通じゃない男が付いている。
でもそれが何だというのだ。このままずっと抱き合っていたい。日名子を手放す事は考えられなかった。
しばらくして日名子は、つと立ち上がり、部屋から持ってきた赤いワンピースに着替え始めた。膝上十センチくらいの真っ赤なミニ。メリハリがある身体のラインが強調されている。
「ちょっと遅くなったけど。デート、行こうよ」
「日名子さん、すごく似合います」
「私、これ初めて着るのよ。ずっと着てみたかったの……さ、バーに行きましょう」
 
新宿。何年か前までは文化人が集まると有名だった喫茶店、風月堂があった場所の斜め向かいの、ジャズが流れるバーだという。良くも悪くも活気のある界隈にありながら、レコードを聴き静かに飲む大人の店だと日名子は言った。
二人で駅そばをすすった後、角筈一丁目に向かった。雑居ビルの地下に降りる階段前の道路に無造作に置かれた紫色の行燈には〈JAZZ 9SPOT〉とある。
テーブル席もある意外と広い店内には、蒼白いタバコの煙が立ち込め、鎮座した大きなスピーカーからは骨太なテナーサックスが鳴り響いている。十人掛けくらいのカウンターには、半分寝ている長髪のフーテンのような男が一人、それと大きく髪をアップにした女と中年男のカップルの二組の客がいた。カップルの男は、無遠慮な視線を日名子に送ってくる。
カウンターの端に座った。隣には、真っ赤なミニスカートの日名子がいる。それだけで俊郎は気後れしないでいられた。  
ヴァイオレット・フィズのグラスが蝶タイをしたバーテンダーによってカウンターに二つ並べられた。奥に貼ってある〈スッキリ爽やか!ヴァイオレット・フィズ〉というポスターを見て頼んだものだ。
ポスターに描かれたカクテルは涼しげで楽園を思わせた。目の前の本物は、ポスター以上に鮮やかに泡立ち、紫色の反射がまるで二人を祝福する光のシャワーに見えた。
「ここへは、良く来るんですか?」
「もちろんよ……。うそ、実は二回目なの」
じゃあ前回は誰と来たんだ? あの部屋中を荒らした野獣のような男とか? とはさすがに聞けなかった。男の存在を意識し、目の前の日名子が魅力的に見えれば見えるほど、自信のない自分が急に顔を出す。段々息苦しくさえなって来た。 
そうなると、ますます他の客や無表情なバーテンダーが、背伸びした自分を歓迎していない様に思えてくる。早く大人になりたい。 
近い将来、日名子を怯えさせている男との対決は避けられないだろう。もしかしたらそれは明日のことかもしれないのだ。そうなる前に、今より少しでも成長していたい。その男を何とかしなければ二人の未来も無いはずだった。
「日名子さんは、本当に僕でいいんですか?」  
日名子は驚いたような顔をし、すぐに、馬鹿ね、と言った。そしていたずらっぽく笑い、指をからませてきた。
「僕、日名子さんを幸せにします」
「ありがと」
日名子の手を握りながら、相手がどんな奴でもかまわないと思った。決して日名子を離すまい。日名子と二人ならばこれからの人生はどうにでもなる。
口にしたヴァイオレット・フィズは、甘酸っぱかった。日名子の頭が、俊郎の肩に乗る。タイミング良く、リクエストしていたレコードが掛かった。
〈ゲッツ・ジルベルト〉。一曲目は〈イパネマの娘〉だ。隣にいる日名子に何回もリクエストした曲だ。
俊郎が持っているEPレコードとはバージョンが違い、イントロに続く一番の歌は、ジョアン・ジルベルトのポルトガル語によるものだ。ジョアンはこの時、英語の歌詞を歌うアストラッド・ジルベルトの夫だったという。この一番はLPヴァージョンにしか入っていない。素敵な女性から、田舎出の連合いを紹介されたかのような朴訥な歌声だ。
続く二番の聴き慣れたアストラッドの歌声に、いつものように日名子を重ねた。そしてパーカッシブなうねりに乗って、大きく軽やかにテナーサックスを奏でるスタン・ゲッツは自分だ。
僕は、サックスをやるぞ。オープンチャペルで西本と日名子の演奏に触れた時から決心していた。レコードから流れ出るウオームなサックスの音色を自分の姿に重ねつつ、肩に感じる日名子の頭の重さに酔った。
このまま大学を卒業するまで日名子と暮らし、卒業と同時に結婚しよう。二学年上の日名子が先に社会に出てしまうのを機に、自分が中退して就職してもいい。とにかく給料の良い安定した職場を選び、二人で歌とサックス、音楽に囲まれながら暮らそう。落ち着いたら子供も欲しい。きっと日名子に似てかわいいに違いない。
富山の両親はなんと言うだろうか。でも日名子に会えば、きっとわかってくれるはずだ。俊郎は、目の前に開ける将来の夢に思いをはせた。

#創作大賞2024 #恋愛小説部門

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