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編集長の恋19

19
 
「いらっしゃいませ」
漆黒に塗られた大きな扉が外側に開かれ、バーテンダーが新しい客を迎えた。同時に入り口から大きな声が響き渡った。
「日名子!」
カウンターで寄り添い、シロップのような世界に浸っていた俊郎は、一瞬にして現実に引き戻された。
隣の日名子が立ち上がり顔を硬直させた。
「コウちゃん」
孝ちゃん。男は、西本孝太郎だった。俊郎が西本のサックスを褒めた時に、日名子がそう呼んだのは忘れていなかった。
外はいつの間にか雨が降り出していたのか、西本は着ている服が変色する程濡れそぼり、長めの前髪とあごの無精髭から水滴が滴り落ちていた。
「どうして?」
「そのワンピース、俺と一緒にまたここへ来るために買ったって言ってただろ」
「……憶えていたの」
「日名子、一緒に帰ろう」
「いやよ」
「俺が悪かった。だから帰ってきてくれ。このとおりだ。許してくれ」
「何よ、今さら」
「たのむ」
突然西本はその場に土下座をした。額を床にこすりつけるようにして、許してくれ、と何度も大声で発した。西本の身体からしみ出た雨水が、床にどんどん広がって行く。
俊郎は息を殺しカウンターから一歩も動くことができず、二人をただ横目で眺めるだけだった。
「もうやめてっ」
日名子が叫んで西本の脇をすり抜け、扉から飛び出して行った。西本はすぐに立ち上がり、日名子を追いかけて行く。先ほどまで指先を絡めあい、息づかいすら感じていた日名子の存在は、あっという間に遠く冷たくなっていく。
随分と時間が経ったと感じてからようやく立ち上がることができた。財布からなけなしの千円札を何枚か出してカウンターに置いた。バーテンダーのお礼の声が空ろに響く。
ほとんど酔っていないはずなのに、足元がおぼつかない。階段をゆっくり上った。
もしかしたらという思いはあった。最初から日名子の相手は同じ大学生なのではと感じていた。正直、西本のことも頭をよぎった。大学から停学処分を受けている札付きの過激派とキャンパスの女王日名子では、いくら共演していたからとは言え、結びつくはずがない、と打ち消していた。
それが今日、日名子の部屋の惨状を見て、瞬時に学生運動を連想したことは確かだった。それから頭の片隅にどこか引っかかっていた。それを自分で考えまいとしていた。
本当は二人をすぐにでも追いかけたい。それができない自分が情けなくてもどかしい。俊郎は突き付けられた現実に、対処する方法を見つける事が出来ないでいた。
外は横殴りの雨だった。人通りはまったく無い。
通りを隔てたビルの前で、西本が日名子の二の腕を掴んでいるのが見えた。西本は激しく何かを言っているようだった。日名子は顔をそむけてはいるが、それほど抵抗しているようには見えなかった。
ふらふらと二、三歩そちらに近づいた。雨脚が身体中に刺さるようだ。
その時、日名子がようやく抗う様に両手をつきだした。その手を掴んだ西本が、そのまま日名子を強く抱き寄せた。
西本は何かを叫んでいる。街灯や看板の光に照らされ、西本の肩越しに雨にぬれる日名子の顔がやけに艶めかしく見えた。それ以上二人に近づくことが出来なかった。
永遠にも思える時間が過ぎた後、日名子の手が急に力を帯び西本の背中に廻り、次の瞬間二人はむさぼり合うような接吻をしていた。
〈愛してる〉
二人の声なき絶叫がダイレクトに胸に届いた気がした。
俊郎はその後、どうやって一人で家に帰ったのか記憶が無かった。

#創作大賞2024 #恋愛小説部門

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