編集長の恋23
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花江から花束を受け取った時には、さすがに俊郎は溢れだしそうになるものをこらえるので精一杯だった。会場はそれまでの喧騒がうそのように静まり返り、時折吹く風の音が聞こえる。
花江の書いた両親への手紙を司会の子が読み上げる。幾度となくとちるその拙さが余計に花江の子供の頃を思わせた。隣では啓子がハンカチで顔を覆っている。そんな自分たちの姿を他の親族と一緒に見つめる日名子の姿が、目に入った。
大きな拍手の後、いよいよサックス披露の時間となった。いつの間にかケースから出されていたサックスを、博章のバンドメンバーから手渡された。首からストラップを下げ、フックをサックスにかけた。首にサックスの重さがかかる。
手が震えている。ここにきて大変なことになったと怖くすらなった。やっぱりやめよう、できない。
「感動の花束贈呈でしたね。さあここで新婦のお父様の伊藤俊郎様より新婦花江さんへ、返礼がございます。なんと俊郎様は、この日の為に何カ月も練習を重ね、新婦へのサックス演奏のプレゼントをご用意されたそうです。曲名は〈イパネマの娘〉です。皆様盛大な拍手でお迎え下さい」
本当に盛大な拍手と共に、いよっガンバレ、とか、ステキー、などという冷やかしと声援が起こった。それがだんだんと小さくなり、皆の耳目が自分に集中する。
「いや、あのちょっと」
やめますと司会に告げようとしたが言葉が出ない。サックスを両手に抱えしばし途方に暮れていると、日名子がすっと目の前に現れた。そしてにっこりとほほ笑みながら大きな拍手を始めた。それに釣られるかのように皆の拍手がまたも大きく鳴り響いた。
その日名子の姿を見てやっと吹っ切れ、よしっとその気になった。
日名子さん見ていてください。今度こそ僕は逃げません。花江見てろよ。お前たちにお父さんからのはなむけの演奏だ。
両手に抱えていたサックスをいざ吹こうと持ち直した瞬間にそれはおこった。
手が滑った。ドキッとしながらあわてて出した右手に当たり、サックスは余計に勢いがついて、縦に回転しながら床のタイルめがけて落っこちた。
タイルと金属がぶつかるガチャンという嫌な音が響き、サックスはマウスピースのついたネックの部分から床にぶつかりそのまま横倒しになった。
あーっ! と会場中が叫び声にゆれた。
拾い上げたサックスのネックは無残にも下へ折れ曲がっていた。そしてそれは俊郎のサックス披露の夢が夢のままに終わった事を意味した。呆然としながらサックスを見つめた。司会があわてて何かを言っている。
どうして、こんなことになった?
サックスにかけたストラップのフックが、サックスを抱えた時に外れてしまっていたのだ。それに気がつかなかった。後藤の最初のレッスン時に、この下から引っ掛けるタイプのストラップは外れやすいから気を付けるようにと、うるさく言われたのを思い出した。何もこんな大事な本番に……。
時間が止まってしまったかのようだった。
「お父さん、これ使ってください」
振り返ると博章がバンドメンバーのキーボードが持ち替えで使っていたアルトサックスを差し出していた。
「遠慮しないで、どうぞ。マウスピースを変えれば大丈夫でしょう?」
「ああ……」
ネックは派手に曲がってしまっていたが、幸いなことにマウスピースは割れなどなさそうだった。自分のサックスを床に置いて、博章からメンバーのサックスを受け取る。お礼の言葉も出てこないくらい気が動転していた。
その時ステージに、いつの間にか着物姿の女性が現れ、置いてあったバンドのエレキギターを手に取った。日名子だった。ジャランと一回音を出した後、すぐに聞き覚えのあるイントロを軽やかに奏で始めた。
「よかったわね、伊藤君。さあ、一緒にやりましょう」
そのサプライズにイエイ、と気を取り直したように会場中が沸いた。日名子も笑っている。その笑みに勇気をもらった。深呼吸して気持ちを落ち着かせながら、サックスを手渡してくれた花婿の顔を初めてと言っていいくらいじっくりと見た。なるほど、日名子さんの孫だけあって、結構いい奴じゃないか。
「伊藤君、テーマお願い」
俊郎は慌てて自分のマウスピースを借りたサックスにつけ、構えた。日名子が目で合図を送っている。よし、いくぞ。
〈ベッ、ベベーベ、ベッペッベペーベ。ベッペベーベ、ベッペベベーベ……〉
出だしはいい。このままこの調子で。
夢中で気がつかなかったが、いつの間にか、博章を含むバンドメンバーが予定になかった伴奏を始めてくれていた。リズムの波が、気落ちいい。やったことはないが、サーフィンで大波に乗るとはこういう感じなのではないか。
俊郎は無我夢中でサックスにあらん限りの息を吹き込み、四カ月半で覚えたテーマを鳴らした。
会場はヤンヤの声援と、手拍子で盛り上がった。途中何回か、いや多分相当間違えたが、皆の後押しで何とかテーマをやり切った。続いて夢にまで見た懐かしい歌声が聴こえてきた。
「Tall and tan and young and lovely The girl from ipanema goes walking……And when she passes,each one she passes goes - ah」
アー、と甘美なためいきを聴かせてから、俊郎を見て、ふふ、と妖艶に笑う。
日名子が四十数年ぶりの歌声を聴かせてくれていた。
その姿はミューズにしか見えなかった大学時代を彷彿とさせる神々しさに包まれていた。
