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編集長の恋24

24
 
十一月に入って最初の日曜日になった。先月の下旬には一旦崩れたが、このところ穏やかな天候が続いている。俊郎は自宅の縁側で先程から何本もタバコをくゆらせ、一人見るとはなしに小さな庭、〈猫額苑〉を見ていた。
色々な意味で大騒ぎだった花江の結婚式から月が替わり、やや肌寒くなってきたとはいえ本格的な冬はまだ先だ。あれほど咲いていた金木犀はすっかり散ってしまい、同時に小さい頃の花江が嫌がった独特の強い香りもどこかへ行ってしまった。これからは春先にかけてますます寂しくなる。  
今日は花江夫婦がハワイの土産を持ってやってくることになっていた。熱海に一泊だった自分たちとは違い、娘たちは結婚式の翌日成田から飛行機に乗った。その旅行代のスポンサーに一応報告に来るのだろう。土産にも土産話にも特に期待はしていないが。
何たる縁か、四十数年ぶりの再会となった日名子と、式の後、携帯電話の番号を交換し合い、翌日の木曜日に外から電話をした。日名子に会いたい。会ってどうなるものでもないのはわかってはいるが、どうしても会わずにいられなかった、
二人の演奏を盛り立ててくれた博章のバンドや会場の盛り上がりまでもが二人の再会を喜んでくれているようにすら感じた。日名子と二人、歌とサックス、音楽に囲まれながら暮らすことを夢見たあのバーのカウンター。
あれから、とてつもない長い時間が経過した。だが……。
電話では取りとめのないことを話した。なかなか切ることができなかった。日名子は五年前に連合いに病気で先だたれ、寂しい、と言った。そうか、亡くなったのか。日名子のアパートでの西本孝太郎とのいさかいを思い出した。もうあれから四十年以上経っている。
曜日はいつでも構わないと言う日名子を、翌週の月曜日、西新宿の高層ホテルでの夕食に誘った。
 
長い長い週末を過ごし、月曜日に出社した俊郎は、仕事を早めに切り上げ、三十分前に約束のホテルのロビーに着いた。待つ間は落ち着かず、何を話したらよいのかそればかり考えていた。いざこうして約束をしてしまうと怖いような気もしてきた。この四十数年間、日名子はどんな人生を歩んできたのだろうか。聞きたいような聞きたくないような複雑な思いだった。
約束の時間から二十分遅れて、日名子は紅色の江戸小紋に名古屋帯のあでやかな姿で現れた。結婚式の桜色の色留袖といい、普段から着物を着こなしているのがうかがわれた。仕事帰りなら遅くなっても構わない、などと考え、この日をあえて月曜にした俊郎は、普段着のスーツ姿に少し気後れを感じた。かと言って、事情を知らない啓子に良いスーツを出せ、とは言えなかった。
最上階五十二階のニューヨークスタイルのレストランは、料理や展望が素晴らしいのはもちろんだが、バーも併設し、本場のジャズをライブで聴かせるのでも有名だった。この日も程よくにぎわった店内に、女性ボーカルとピアノトリオが小気味よいサウンドを奏でていた。
コースを注文し、乾杯のシャンパンと、料理に合わせてカリフォルニアの赤ワインのボトルを頼んだ。四十数年前、俊郎のぼろアパートで二人、ジョニ黒を水道水で割って呑んだ。銭湯で買ってきた牛乳を飲み、日名子が作ったインスタントラーメンをすすった。日名子との思い出は、たった五日間のことだった。
「二人の再会に乾杯!」
声が上ずるのを感じる。
「本当に、こんなこともあるのねえ」
と言ってから沈黙した日名子の瞳は、変わらず輝いて見えた。
俊郎の仕事の話や、日名子の同居の話をした。それよりも、どうしても、あの後の日名子の話を聞きたかった。
「あれから……」
と言いかけると、日名子は待っていたかのように笑った。
「ええ、色々あったわよ」
口元をナプキンで軽くふき、嫣然と微笑みながら日名子は話し始めた。
「というか、やっぱり何もなかったと言った方がいいのかしらね」
俊郎が日名子のアパートまでバッグを届けに行ったあの後、俊郎にもう一度会ってきちんと謝りたいと思っていた。しかし、俊郎はそれ以来ジャズ研も辞めてしまいオープンチャペルにも姿を見せなくなった。そのまま卒業した日名子は、東京で就職することを選ばず、故郷の清水に帰ったのだと言う。実家で近所の中学生相手に英語を教えることにして、看板まで作ったそうだが、半年くらいで結婚が決まった。
「そうですか。やっぱり卒業してすぐに結婚したんですね」
「ええ、いい人だったわ」
日名子を見つめた。いい人? 西本が?
「十歳上だったけど、一回目のお見合いで、すぐにお互い意気投合したの」
「えっ……十歳上? お見合い?」 
ああ、そういえば、そうだよな。
「日名子さんは、田辺……さんでしたよね」
「ええ、そうよ。花江さんも田辺になったんだから。しっかりして、お父さん」
日名子は笑う。
「西本さん、サックスの西本さんは……」
すぐに日名子は訳ありの表情をした。
「ええ、だから……。私も若かったのよ」
日名子はそのことには触れられたくないようだった。俊郎は構わずもう一度口にした。
「西本さんとはあの後、どうなったんですか?」
「結局、彼は学校を除籍になったし、先が見えなくて。なんか色々やっていたようだけど、最後はサックスまで売っちゃって、実家の仙台に帰ったんじゃなかったかしら。造り酒屋で結構地元では名家だったらしいから」
ああいう時代とはいえ、学生運動に深くかかわって将来性もないのは、やっぱりね……。日名子は言い訳のように独り言ちていたが、俊郎は一瞬複雑な心境になった。
暴力をふるう男と別れられたのだから、日名子にとってはよいことなのは承知の上で、あの雨の新宿でのあんなにも激しい抱擁とアパートでの喧嘩の後に自分ではなく西本を選んだ、当時の日名子が、俊郎が果たせなかった白馬の騎士ではなく自分の意志でそんなにもあっさりと見合い結婚していた。六十四歳の今の俊郎ならば、当然そうだと理解できるが、当時の俊郎が知ったならどう感じたのだろうか。
目の前の日名子は上機嫌に見える。酒がいけるのは分かっていたが、健啖家なのには驚いた。ボリュームのある皿を次々に平らげていく。アパートではインスタントラーメンを半分残して俊郎に食べて、と言っていたのが噓のようだ。
化粧が濃いのは、歳のせいで仕方がないのだろうが、大学時代の化粧していない日名子の美しさが俊郎の瞼に焼き付いていた。
誰だって、歳をとる。自分だって、髪が薄くなり、腹も出ている。こうして向かい合っている状況がいまだに信じられない反面、月日の流れを否が応にも感じずにはいられなかった。
思えば、日名子のことは何も知らないと言ってよかった。
雲の上の天使のような存在が、ひょんなことからぼろアパートに舞い降りた五日間。天使はアパートに居つくはずもなく、また飛び立っていってしまった。それが、四十数年を経て俄然人間味を帯びて目の前に再度現れた。今ならば、対等に接することができる。そう気を取り直して、食事の後はステージに近いバーカウンターに席を替え、ジャズを聴きながら杯をかわした。
帰るころには長年忘れていた高揚感が再び湧いて出てくるのを感じていた。最初は思い出の日名子との比較ばかりしていたが、お互いに年輪を重ねた現実を踏まえ、今なお日名子は魅力的な女性であることに変わりがなかった。
次回も会う約束をした。会わない理由が無い。
今日は財布のことは考えまいと決めていたが、会計の時に、経費で落とせないかとの考えが一瞬頭をよぎった自分に少し嫌気がさした。
緊張していたせいか、どっと疲れがやってきて、町田に住んでいる日名子と一緒に乗ったタクシーでは不覚にも寝入ってしまった。それでも肩にかかる日名子の重さが快かった。
それが次の約束の日の朝、急に都合が悪くなったと断りが入り、それからの日名子はなかなか電話に出なくなった。
留守電に連絡が欲しい旨を残してもかかって来ることは無かった。それが先日ようやく繋がったかと思うと、花江と博章のこともあるので、今後しばらく二人で会うのはよしましょう、と一方的に言われてしまった。
親族としてのお付き合いをというわけだ。会えないとなるとさらに思いが募る。もっと話をしたかった。日名子の分別が恨めしい。どういうわけか気乗りがしなくなった日名子をどうやって誘えばよいのか。うまい口実が見つからないのだった。
 
「おかあさーん、おとうさん、いるの?」
花江がずかずかと入ってきて、なんだ、いるんだったら返事してよ、と相変わらず生意気な口だ。
「玄関、鍵掛かって無かったわよ。この辺も物騒になってきてるんだから」
「ああ、かあさんが出て行ってそのままなんだろ」
「えっ、出て行った? どこに?」
「買い物だろ、夕食の。お前たちが来るってんで、張り切ってるんじゃないか」
「なんだ、そうなんだ」
「なんだよ大げさに。かあさんだって、年寄りみたいに心配されるのはまだ早いぞ」
「私が心配なのはお父さんよ……。何か飲む? お茶、入れるわよ」
「何だよ、俺の心配って」
花江は答えず台所に行った。すぐにお茶を手に戻ってきて、珍しく隣に腰かけた。
「金木犀散っちゃったね」
「ああ、来年また会う日までだよ」
「ないとさびしいわね、この庭も」
「なんだよお前嫌いだったろ、金木犀」
「そんな事無いわよ。好きだわよ」
「だって、くさーいとかいつも言ってただろうが」
「それは小さい頃でしょ。わたしは好きよこの庭の金木犀」
「そうだったけか」
目をやった金木犀の隣で鼻をつまむおかっぱの花江が見えた。
「ところで何だよ。俺が心配って」
それには答えず花江は、ああそうだ、これお土産、とABCと書かれたビニール袋を渡してきた。
「開けてみて」
手に持つと軽い。なんだろう。
「どうだった? ハワイは」
「もうステキ。専門学校の時以来二回目だったんだけど。二人で仕事頑張って、出来れば二年に一回くらいは行こうねって、博くんと約束したのよ」
「へー、博くんとね。そうですか、それは良かったな」
土産は椰子の灰皿だった。まあ、こんなもんだろう。早速手に持っていた煙草を押しつけた。 
「お父さん。ありがとうね、ハワイカンパ」
「どういたしまして。こちらこそありがとな、素敵なお土産。で、かあさんには何買ってきたんだよ」
「お父さんには内緒よ。それよりお父さんも結構やるわね。聞いたわよお母さんから、お父さんの大恋愛話」
「ん? 何だよそれ」
「過ぎ去りし青春の、切なーい恋の物語よ。綾瀬日名子さんとの」
「えっ……えっ?」
日名子さん? 何で? 啓子から聞いたって?
暑くもないのに両脇から嫌な汗が湧いて出た。
「あ、大丈夫よ。お母さんはもちろん怒ってなんかいないから。むしろ逆よ。ちょっとは見直したんじゃないかしらね、お父さんの事」
「……」
「あの人は女性に対する愛情なんかあるもんですか。なんて前は言ってたからね、お母さん」
「ちょっとまて、なんだそれ。なんでかあさんが知ってるんだ……ひ、日名子さんの事」
「ほらそれよお父さん。ひ、ひなこさぁんなんて。ふふ、それじゃあお母さんじゃなくても妬くわね。ははは」
「だから、かあさんは何て言ってたんだ」
大声が出た。花江は余裕の表情だ。
「おー怖、分かったわよ。お母さんね、結婚式の時に、お父さんが日名子さんと二人で話しているのを、お父さんを探しに行って偶然立ち聞きしちゃったんだって。びっくりしたらしいわ。そりゃそうよ、私もそんなことあるのかって驚いたもの」
室田が写真を撮ってくれたあの時、啓子の名前が出ていたが、やっぱり側で聞かれていたのか……。
「それでお母さん、黙っていられなくて、結婚式の後に連絡を取って日名子さんと二人で会ったんだって。結構勇気あるでしょ。すっかり話を聞いたらしいわ。それで決心したって」
「……決心?」
喉がからまって変な声が出た。
「お父さんが嫌がるまでもうしばらくはそばにいようって……。良かったわねお父さん。お母さんね、本当は私が結婚して家を出たら自分も家を出ようと思ってたんだって」
「えっ……」
「お父さんと別居。玉川のおじいちゃんちに帰ろうと思ってたんじゃないの。多分そのまま離婚しようと思ってたのよ、お母さん」
「離婚?」
「お父さん危なかったわね。危機一髪ってとこ。私も反対はしなかったわよ、もしそうなったとしても。お母さんの人生だし」
家を出る? 離婚? なんで? 全く何のことかわからなかった。
額からも汗が流れ出た。
「お母さんずっと思い詰めていたらしいの。そもそもお父さんと結婚したのだって、玉川のおじいちゃんから強く勧められたからであって、こう言っちゃなんだけど、恋愛とは違うでしょう」
花江のストレートな物言いに腹を立てる暇もないほど引き込まれた。
「昔はそういうものだったのよね。恋愛と結婚は別、みたいな。それは私も随分前から感じていたわ。小さい頃叱られた時に、あなたさえいなければって言われたことがあったもの。私、結構傷ついていたんだけど、それって自分が自由にできるってことでしょう。それを最近では本当に決めていたらしいわ。私が結婚したら別居するって」
「そんなの聞いてないぞ」
「当たり前でしょ、お父さんには言わないわよ……。でもね、その気持ちが結婚式の日のお父さんを見ていて変わったんですって」
「なんで? おいこれ本当の話なのか、からかってんじゃないだろうな」
「そんなわけないでしょう。お父さんもこれを機に猛省してね。本当にお母さん出て行っちゃうところだったんだから」
目の前の花江が別の人に見える。
「お父さんが大学時代に日名子さんと色々あって、女性不信になったとまではいかないんだろうけれど、それでちょっとはわかったって。本当に不器用な人なんだなって。それにお母さん、なんかこのまますんなり別れるのがちょっと癪にさわるって笑っていたわ」
花江は意味深な表情を見せた。
「おそらくはそっちが本音ね。ほらあの通りおばあちゃんって言っても、わたしから見ても日名子さんはすごく若いしきれいなわけ。しかも色っぽいし。そんな日名子さんにばかりいいとこ取りをさせないとでも思ったんじゃないの。本当にいいとこ取りかどうかは、わからないけれどね」
少し意地の悪い笑い方をする。こちらはそれどころではなかった。
「そんな、いつの間に」
熟年離婚なんてテレビや週刊誌の中だけの話だと思っていた。まさか自分の身に降りかかろうとしていたとは。
それに俊郎の前ではほとんど何も言わない啓子が、日名子を呼びつけていたとは。道理で日名子が電話に出なくなったわけだ。啓子にそんな一面があるのを長年連れ添った自分だけが知らなかった。
雨の中であんなにも激しく抱きあっていた西本とあっさり別れて、お見合いで結婚したと言った日名子。
そして我が子ながら両親が離婚してもそれはそれでしょうがないと、他人事のような顔で呑気にお茶を飲む花江。
女はつくづくわからない。
冷めてしまったお茶をすすりながら俊郎は、腰のあたりから底冷えにも似た寒さが背中に広がって行くのを感じていた。

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